第8話「血のないふたり」
文字数 10,372文字
真っ暗なバスの中。全ての窓のカーテンが閉められている。運転席と客席の間にも幕が張られ、外の光は一切入ってこない。乗客はみんな寝息を立てている。革のジャケットを着込んだお兄さんから、ダウンコートをひざ掛けにするおじさんまで、限られたシートの空間を少しでも寝心地の良いものにしようと、工夫を凝らしていた。
そんな中、まだ眠りについていないのがいた。
「ミル、もう眠ったかい?」
ルルはかぶっていたマントから顔を出し、隣のミルに声をかける。返事がない。ミルもマントを頭までかぶり、襟からは柔らかそうな茶色い髪の毛がのぞいている。ルルはその髪を撫でてやる。もう眠ったようだ、ルルはそう思った。
ルルはシートの上で天井に向かって大きく伸びをする。とはいっても、背の低いルルがいくら伸びをしたところで、天井に届いたりはしない。眠れなくて退屈だな、と思ったルルは、窓から外の景色を見ることにした。カーテンと窓の隙間に頭を突っ込んでみる。
窓ガラスは冷たく水滴がつき、ルルが息を吐きかけるたびに、白く小さい円ができる。ルルは袖で窓ガラスを拭いてやる。すると、窓に映ったのは外の景色、なんかではなくルルの顔だった。ルルがいくら目を凝らしても、コールタールの中を覗いた時のように、真っ黒で何も見えない。そこには、鼻先と右の頬に砂ぼこりが付いたルルの顔が、映って見えるだけだった。
ルルは座席に戻る。窓を拭いた袖が濡れて冷たい。どうしても気になるので、濡れている方の腕を袖から引っ込めて、身頃の中に入れてやることにした。
もう一度、ミルの方を見る。マントが少しずれ落ち、ミルの可愛らしい横顔がのぞいている。ルルはシャツから出ている方の腕でミルのマントを、耳が隠れるくらいまで引っ張り上げてやる。ルルも自分のコートを口元まで引っ張り上げると、大きなシートの中に沈んでいった。
〈サービスエリア〉
「ご乗車お疲れ様です。今からこちらのサービスエリアで、休憩時間になります。」
車内のランプが一斉に点きドアが開く。乗客たちは立ち上がり、窮屈そうに伸びをし、毛布代わりのコートやジャケットを羽織り直すと、バタバタと降りていく。
先に目を覚ましたのはミルだった。
「ルル、休憩だって。早くお外に出てみよう。」
ミルは起き上がりルルをゆする。目を覚ましたルルは伸びをしようと、身体をそらすが、右手がシャツをまくり上げるように出てきてしまう。お腹に冷たい空気が触れる。右手をシャツの中に入れていたのをすっかり忘れていた。それを見ていたミルがシャツをズボンに押し込むのを手伝ってやる。
「もう、なにやっているの。」
「ごめんなさい。」
ルルはママに服を直される時のように、両手を広げる。シャツを入れてもらいながら、まだ袖が冷たいと、ルルは思っていた。
二人はマントを首元までしっかりと巻き、バスを出る。雪がパラパラと降っている。アスファルトで舗装された広い駐車場。ルルはパパの工場の駐車場くらいはあるかな、と思った。バスから歩いてほどなくすると、建物があり、男性たちが入口でタバコを吸っている。バスから降りた人たちはみんな、ここに来たようだ。玄関には暖簾がかかり、木製の引き戸があった。滑りが悪くて動かない。ルルが踏ん張っていると、タバコを吸っていたお兄さんが後ろから、手を貸してくれる。二人がお礼を言おうとしたら、暖簾の向こうからとても威勢の良い声がする。
「いらっしゃいませ!何名様ですか!」
突然の呼びかけに戸惑っていると、後ろでぴしゃんと引き戸も閉まり、さらに、びっくりしてしまう。店の奥からは、しみだらけなエプロンをした、ふくよかな女性が顔を出す。
「あら二人。なら相席で。」
そう言うと、またお店の奥に戻ってしまう。それを聞いたミルが、どこかに座らせてもらおう、とルルの袖を引っ張る。中を見回すと、どのテーブルも満席だったが、あと二人だけ座れそうなのが一つだけあった。二人は、お店の奥、男性が一人でいるテーブルに向かう。ルルが「座ってもいいですか」と聞くと、男性は黙ってうなずく。ルルは男性の真向かいに座り、ミルはその隣。座るとすぐにお茶の入った湯飲みが出される。ミルは湯飲みを手で包み込む。
「あったかい。」
ミルはつぶやく。
向かいに座る男性は、あんかけ焼きそばを食べていた。にんじん、いんげん、しいたけ、はくさい、たまねぎ、たけのこ、むしいか、ぶたにく。具沢山な焼きそばに体ごと覆いかぶさり、前のめりになっている。箸とレンゲで、せっせと焼きそばを口に運び、皿から顔を上げない。真ん前からルルが覗き込んで見ていると、男性は自分を隠すように、湯飲みをルルの前に置いてしまった。
ミルはというと、テーブルの隅に立てられているメニューを見て、一つずつ読み上げていく。
「塩ラーメン、醤油ラーメン、味噌ラーメン、ポークカレー、野菜カレー・・・」
厨房から流れてくる温まった空気が、窓や入り口から入ってくるすきま風に冷やされ、店内はべたつく空気で満たされている。そんな中で客たちは、黙々と食事を口の中に運ぶ。ラーメンや焼きそばをすする音、スプーンが皿をこする音、どんぶりをかき込む音。それらの音に混じって、ラジオのニュースキャスターが、申し訳程度に、今夜の出来事を伝えている。
ルルはミルの読み上げるメニューを順番に目で追う。男性があんかけ焼きそばを食べ終えたころ、あまり長くもない時間、ミルはメニューの最後を読み上げる。
「・・・ビール、コーラ、オレンジジュース、バニラアイス、チョコケーキ、りんご。」
メニューを全て読み終えて、ミルは満足そうな顔をルルに向ける。
「ルル、私、『りんご』っていうものを、食べてみたい。」
「ミル、何を言っているんだい。僕らはその『りんご』どころか、食べ物なんて食べられないだろ。」
「食べられないけど、見るだけ。見るだけ。」
ミルはルルの腕をつかみ食い下がる。
「だーめ。」
しかし、ルルは応じない。ミルはあきらめて、テーブルに顔を乗せる。そして、ふてくされたように、また、メニューを読み上げていく。今度は最後から。
「りんご、チョコケーキ、バニラアイス、オレンジジュース、ビール・・・。」
〈バスターミナル〉
乗客たちは上着をしっかりと着込んで、一歩一歩、バスから降りてくる。手には預け入れた荷物の引換証が握られている。ルルとミルは荷下ろしに群がる乗客を横目に、バスから降りると、通りに出ていく。
雪は止んでいた。道路には薄く雪が積もっており、踏むと、キュッ、キュッ、と音が鳴る。ミルがルルの腕を掴まっている。
ルルは夜空を見上げていた。灯りの少ない通り。お店やお家の灯りもほとんど消えている。そのためか、夜空の星、とりわけ真ん丸のお月様がはっきりと見える。歩いても、歩いても、お月様の位置は変わらない。ルルは面白くなって、ミルが腕をつかんでいることも忘れて、走ってみる。走っても、走っても、やっぱり、お月様を追い越せない。ずっと、ずっと頭の上。そのことをミルにも伝えようと、後ろに振り替える。
「見てみて!ミル、お月様が・・・。」
振り返るとミルは倒れていた。慌てて駆け寄る、ミルは小さく震えている。早くミルにエネルギーをあげないと。そう思い、ミルをおんぶする。
雪の積もった通りを、ルルはおんぶして歩く。一足一足、踏みしめていく。雪は相変わらず、踏むたびに、キュッ、キュッと鳴り、お月様もずっと頭の上にあった。
〈夜のコンビニ〉
ルルがミルをおんぶして歩いていると、一つだけ灯りのついた建物があった。
入り口の前に立つと扉はひとりでに開く。ルルは吸い込まれるようにお店に入っていくと、若い男性がすぐ脇のカウンターに立っていた。こちらには背を向けている。
「(いらっしゃいませー)。」
エプロンのおばさんとは、打って変わって、元気の無い声がする。ルルはそのすらっとした背の高い男性にお願いしてみる。
「すみません、エネルギーを少しいただけませんか。」
「エネルギーって、携帯の充電?そういうのは断っているんだよね。」
男性は背中を向けたまま答える。
「違うんです。ミルの、アンドロイドのエネルギーなんです。」
男性はその言葉を聞くなり、驚いて振り替える。ボサボサとした前髪を振り払い、二人のことを見る。「アンドロイドの子供ねぇ」と小さくつぶやくと、また後ろを向いてしまう。
「ごめんね。アンドロイドの充電もだめなんだよね。そもそも、家庭用のコンセントしかないし。」
ルルはミルを背負い直すと、肩を落としてドアの方へ歩いていく。後ろ向いたままだったが、男性が付け加える。
「ここじゃ無理だけど、もう二つほど通りを超えたら、充電してくれる所があるかもね。」
ルルは振り返るようにして、男性にお礼を言うと、もう一度しゃんとして、道路を渡っていく。
〈おでん屋〉
ルルは、まだミルをおんぶして、歩いていた。男性が教えてくれたように、通りの向こうを目指す。夜の道路、人通りもなければ、走る車もない。ルルは、順調に道路の向こう側へ渡っていった。
「うう、うう。」
おぶさられたミルが、小さく唸る。
「大丈夫だよ、もう少しの我慢だよ。」
ルルが歩みを止めずに、ミルを励ます。
既に、通りを二つ超えたが、灯りの点いているお店というのが見つからない。道路はまるで、住宅街の中を突っ切るようで、どちらを見ても、同じような姿かたちの家が立ち並んでいるだけだ。
ルルの足も限界になってきた。踏み出すたびに、膝がグラグラと揺れて、倒れてしまいそうになる。どんどん、足取りがおぼつかなくなってくる。
どれくらい歩いただろう。もう、いくつ道路を超えたかわからなくなったとき、灯りをつけて止まっている車が目に入った。
その車は白いトラックで、雪の白さよりもずっと暗い白で、荷台には小屋を乗せている。小屋には暖簾がかかり、そこには「お」「で」「ん」と書いてある。
ルルはミルを背負ったまま、そのトラックの近くまで来たが、どうしてか、声を掛けられない。というより、ルルにはこのトラックが珍しくて、助けを求められるかどうかよりも、ただ、初めて見るものだったばっかりに、ぼんやりと眺めてしまう。しばらくすると、暖簾の奥で、バスの休憩所で聞いたような、食器同士がぶつかるような音がした。それを聞いて、ルルは思い出したように、暖簾の向こうにいる人に声をかけてみる。だが、ルルの声が声にならない。ミルを背負っているばっかりに、声がお腹から出ない。くぐもった声しか出ない。それでも、声が届いたのか、暖簾の向こうから、黒いシャツを腕まくりにして、首元にタオルを巻いた男性が出てきた。
「どうした、坊主。」
男性は二人の姿を見るなり、血相を変えて、トラックの荷台から飛び降りてきた。
ルルとミルは、トラックの助手席に乗せてもらい、揺られていた。
「そっか、おめぇ達、アンドロイドだったんだなぁ。まさか、こんなところで出くわすとは思わなかった。」
その男性はトラックを運転しながら話す。
「あの、ミルにエネルギーを・・・。」
ルルも限界が近い、声が弱弱しい。
「わかってら。この辺で知り合いが店やってっから、そこに連れてってやるよ。そこなら、いくらでも電気でもなんでも、くれんだろ。」
〈牛丼屋〉
トラックはあるお店の前で止まった。暖簾がない代わりに看板がある。オレンジ色に輝いていて、「牛丼」とある。
おじさんが先にトラックから降りて、お店の方に歩いていく。ルルは遅れて、ミルを担いで降りてくる。
「よぉ。ヨシちゃん、おるか?ちょっと、電気貸してもれぇてぇんだが。いいか?」
厨房から不思議そうな顔をして、「ヨシちゃん」と呼ばれた男性が出てくる。おじさんとその「ヨシちゃん」が、いくらか話をする。その間、ルルはミルをおんぶしたまま、お店の中をぐるりと見まわしている。
「坊主、こっちこいや。電気分けてくれるってよ。そんじゃ、俺は帰っから、ちゃんとお礼言うんだぞ。じゃあな。」
そう言って、おじさんはお店を出ていく。ルルは「ヨシちゃん」に案内されて、お店の事務室に入れてもらう。
「そこのコンセント。使っていいから。」
「ヨシちゃん」は、厨房の方へ戻っていく。ルルはお礼を言うと、ミルをコンセントにつなぐことにする。
ミルを事務机の椅子に座らせて、柔らかい茶色の髪を持ち上げる。うなじのあたりに、人間の肌とはちがう、硬い装置が埋め込まれている。その蓋を開けるとコネクタの差込口がある。ミルのウェストバックから、小さく束ねられたコードとアダプタを取り出すと、それをうなじの差込口とコンセントにつなぐ。少しすると、うなじにあるランプがオレンジ色に点滅する。充電が始まったのだ。ミルの顔もさっきまでの苦しそうな表情から、少し落ち着いたような、そんな表情になる。それを見ると、ルルはほっとした。
ルルも自分もどこかに座ろうと思い、事務机の上に、ミルと向かい合うように座る。そこからは、お店の様子が見えた。事務室の扉がマジックミラーになっていて、部屋から店内が見えるのだ。そこから、ルルは店内の様子を見てみることにした。
やって来るお客さんは、誰もメニューを見て注文なんかしない。お店に入る時に「ナミ」とか、「オオモリ」とか、そんなことを言って席に座り、お客さんが外套を脱ぎ終えたころには、もう「ヨシちゃん」は席に来ていて、注文をテーブルに置いていく。
お客さんが座る。「ヨシちゃん」が来る。
ルルはその暗号のようなやり取りを、夢中になって見ていた。
「ルル?」
向かいのミルが顔を上げていた。ルルは思わず、抱きしめる。
「やっと目を覚ました!今度からは、ちゃんと言わないとだめだよ。」
「ごめんなさい。」
ミルは目をとろんとしたまま、こたえる。
「満タンになったら、教えてね。」
ミルは小さくうなずいて、また目をつむる。
そうして、ミルとルルは手を繋いで事務室から出る。「ヨシちゃん」にお礼を言うと、
「いいよいいよ。あの人のお願いだから。気をつけて帰ってね。」
と、あわただしく、厨房の中を動き回りながらこたえる。ルルとミルは、ドアを出るときに、もう一度「ありがとう」と言って、お店を出る。
外はまた、チラチラと雪が降り始めていた。
〈スナック〉
ルルとミルが牛丼屋の外に出て、これからどうしようか、途方に暮れていたら、後ろから声をかけられる。
「ねえねえ、君たち、アンドロイドなんでしょ。」
二人が振り返ると、明るい色のダウンコートを着た、若い男性が立っていた。ツンツンとした茶色の髪に、黄色いレンズの眼鏡をしている。ルルとミルが不思議そうに、見上げていたら、
「こんなところじゃあれだから、俺の行きつけで話そうよ。そんな遠くないからさ。」
そう言うと、男性は二人の腕を引っ張って、牛丼屋の裏の路地に連れていく。二人はされるがまま、グイグイと引っ張られていく。男性に連れていかれる。
雪がパラパラと降る中、二人が連れていかれたのは、3階建ての雑居ビルだった。ドアの横に「スナック:ルルラン」とある。男性がドアを開けるのを、二人は一歩下がったところで見ている。
「別に怖い所じゃないから、入った入った。」
そう言って、二人を無理やり押し込んでいく。
「あら、ショウ君いらっしゃい。何、今日は小さいお友達を連れて。変なところから連れてきたんじゃないよね。」
カウンターに立っている女性が話しかける。そのすぐあと、ルルとミルに、やさしい笑顔を見せて、「いらっしゃい。寒かったでしょう」と声をかける。二人は手を繋がれたまま小さくうなずく。ショウ君は二人をカウンターに一番近いテーブル席に座らせると、カウンターの女性に話す。
「ママさん、違うよ。この子らは大切なお客さんだ。なんてたって、アンドロイドなんだから。」
それを聞いて、ママさんは目を丸くする。ショウ君はママさんからおしぼりを三つ受け取ると、それらをテーブルに置く。ルルとミルのマントを脱がし、自分のコートも壁にかけると、彼は二人に向かい合うように座る。ママさんもカウンターから出てきて、ショウ君には、焼酎の水割りを、ルルとミルには、ウーロン茶と果物を乗せたお皿をだす。ママさんもショウ君の隣に座る。
「ママさんも始めてだろ、本物のアンドロイドは。たまたま牛丼屋で行き会ったんで、ちょっと話を聞こうと思って。」
ショウ君はそう言うと、壁にかけたコートから、メモ帳とボイスレコーダーを取り出す。
「ショウ君。二人はまだ子供じゃない。こんな時間に連れて歩いて、いいの?」
ママさんは二人のことを心配そうに見る。それに対して、ルルとミルはきょとんとしたまま。
「ママさん、知らないんだねぇ。アンドロイドには、子供も大人も区別なんてないのさ。そんなのは、人間いや、生物だけのお話さ。」
ショウ君はボイスレコーダーの設定をいじりながら話す。ママさんは「そういうものなのかしらねぇ」と、小言を言うとカウンターへ戻っていく。ショウ君のほうは、インタビューの準備が終わり、二人にボイスレコーダーを向ける。
「早速だけど、二人はどうしてここに来たの?」
ルルとミルはお互いの顔を見る。そして、ルルがゆっくりと話し始める。
「僕たちはね、探し物を見つけに来たの。」
「探し物ねぇ。その探し物って、何?」
ショウ君は眼鏡を少し下げて、鋭い目線を二人に遣る。
「探し物は・・・。」
ここで、ルルの言葉が詰まってしまう。それを隣のミルが付け足す。
「それが、なんなのか、まだわからないの。」
ショウ君の眉が上がる。驚いたようだ。
「わからないものを、探しているの?」
二人はうなずく。
ショウ君はますます、不思議そうな顔をして、質問を続ける。
「探し物をするにも、何を探していいかわからないなら、探しようがないじゃないか。」
「そう、何を探したらいいかわからないから、とりあえず、ここまで来てみたの。」
「そうねぇ。」
ショウ君は椅子に深く腰掛ける。ボイスレコーダーも、スイッチを切り、メモ帳も閉じてしまう。ルルは何か悪いことを言っただろうか、そう思った。ショウ君は肘掛に肘を立てて、その腕で頭を抑えるポーズをとると、水割りを一気に飲み干し、カウンターのママさんの方へ行ってしまう。肩肘をついて、何やら話している。ルルとミルはというと、お皿に乗せられた果物をじっと見ている。
ルルとミルがショウ君と言葉を交わしたのは、初めの間だけだった。ショウ君がカウンターの方に行ってからは、テーブルに戻ってくることはなく、ルルとミルはテーブルで二人きりだった。その間は、ルルがミルをおんぶしている時に起きた出来事、コンビニのことと、おでん屋のトラックについて、話していた。
ショウ君がカウンターで眠り込んでしまったタイミングを見て、ママさんがルルとミルのもとに来る。
「ごめんね。彼っていつもそうなのよ。面白そうな人を見かけると、だれかれ構わず、連れ込んで。期待外れだと、ああゆう風にふてくされるのよ。」
そう言って、ママさんは壁に掛けられた二人のマントを取ってやる。その時、ママさんは、減っていないコップのウーロン茶と手の付けられていないお皿の果物に気づく。
「あら、アンドロイドだと、何も食べられないのね。」
「うん。僕らは何も食べられないんだ。」
ルルがこたえる。
ママさんは少し、申し訳なさそうな顔をする。
「それなら、悪いことをしたわね。」
ミルがマントを受け取ると、お皿に乗った果物を指差して、ママさんに聞く。
「ねぇ、これって、何?」
「あら、そうよね。物を食べられないんじゃ、りんごも何も、わからないわよね。」
「これが、りんごなの?」
「そう、りんごよ。うさぎさんの形に切っているけどね。」
ミルは、お皿に乗せられたりんご、くし形に切られて、赤い皮が矢羽根形にしてあるのを、まじまじと見る。鼻も近づけてみる。
「切らないと、こんな丸い形なのよ。」
ママさんがカウンターから切っていないりんごを見せる。ルルはそれを横目にしながら、マントを着込んでいた。
〈レイトショー〉
ママさんは今夜、お店に泊まることを誘ってくれたが、ルルとミルはその誘いを断り、お店を出ていた。ルルはどうしても、その探し物を今夜のうちに見つけてしまいたかった。ルルはミルがお店から出てくるのを外で待つ。
お店の外は街灯だけがぼんやりと光る。月も雲に隠れてしまい、雪がしんしんと降るだけだ。しばらくするとミルが出てきた。
「おまたせ。」
ミルはそう言った。
ルルとミルは、ショウ君に連れられてきた道を戻るように表通りを目指す。連れられて歩いた足跡に、薄く雪が積もっている。
表通りに着くと、あの牛丼屋さんの看板はまだ、オレンジ色に輝いていた。二人は、牛丼屋さんのあるのとは反対側に向かって歩く。
ルルとミルは手を繋いで、並んで歩く。もう片方の手はマントのポケットの中。歩き始めてミルが口を開く。
「ルル、あのね。」
「うん?」
「ううん。呼んだだけ。」
二人はこんなやり取りを何度も繰り返す。ミルも懲りずに、何度もルルに声をかける。ルルも飽きずに、何度もミルの声掛けにやさしくこたえる。
そうしているうちに、また一つ、灯りのついた建物の前に着いた。
古びた倉庫みたいな建物には、ネオンサインが輝く。その降り注ぐ赤色を雪が反射し、建物全体を赤く包み込んでいる。ネオンには「名画:ペガサス座」、そう書いてあった。ミルがルルの腕を引く。
「ルル、あのね。」
「うん?」
相変わらず、ルルは優しく返事をする。
「この建物に入ってみたい。」
ミルが灯りの点いた両開きの扉を指差す。中には擦り切れた赤い絨毯が引かれ、すぐ脇に小窓の付いた受付が見える。
ルルとミルは中に入ってみることにした。
重い扉を押して開け、さらに内側にある扉も押してはいる。建物の中は暖房の熱気で満たされていた。二人の顔がしっとりと濡れる。
映画のポスターがあちこちに張られ、上映時間がホワイトボードに手書きの張り紙で張り出されている。どうやら、今の時間でも、何かが上映しているようだ。
ルルはミルの腕を引っ張って、隅にある受付に行く。そこではおじさんがタバコを吸いながら雑誌を広げている。ルルが背伸びし小窓に届くようにして、中のおじさんに話しかける。
「あの、僕たちも中に入れますか。」
おじさんは、老眼鏡を外すと、ルルとミルのことを、目を凝らしてみる。
「なんだ、こんな時間に家出のガキどもか。」
「僕たち、家出なんかじゃないよ。」
「ふん、どっちだろうと知ったことはないよ。ガキが見ていいのは、一番手前のスクリーンのだけだよ。」
「ありがとう。」
ルルとミルはお礼を言うと、言われた通り、一番手前のスクリーンのある部屋に入る。後ろからおじさんが「静かにすんだぞ」と、付け加える声が聞こえる。
部屋に入ると、ルルとミル以外にお客さんはいないようだった。二人は一番前の席に座る。映画は既に始まっていた。白黒のぼやけた映像でセリフは全くない。代わりに、BGMにクラシックが流れていて、時々、字幕が表示されるだけだ。ルルはよくわからないまま見ていたら、画面が真っ暗になって終わってしまった。と思ったら、また、同じような映像と音楽が流れ始める。
どうやら、同じ映像を繰り返しているようだ。ルルには字幕が読めなかったが、何度も見るうちに、どんな内容なのかわかってきた。
裸の男と女が楽しそうに暮らしている。すると、そこへ意地悪そうな蛇がやってきて、女にりんごを食べるように薦める。それを食べた女は男にもりんごを食べさせる。すると、男と女は服を着て暮らすようになる。すると、二人は怒られて、今まで暮らしていたところを追い出されてしまう。
そのような映像が、何度も繰り返されている。ミルは眠そうになって、あくびをしている。それを見て、ルルが話しかける。
「ミル、見てごらん。りんごはやっぱり食べてはだめなんだよ。」
「どうして?」
「わからないけど、りんごを食べると追い出されちゃうんだよ。」
「追い出されるって?」
「追い出される、というのは・・・。」
ルルが言葉の続きを考えていると、ミルがマントのポケットから、さっきまでマントに突っ込んだままにしていた手を取り出し、その手に握られていたものを見せる。赤くて丸い。りんごだった。
「食べてみたら、わかるかな。」
ルルが止めに入る間もなく、ミルはりんごにかじりつく。そのみずみずしい音が、映画館の中に響く。
ミルは口を動かし、嬉しそうに頬を膨らませながら、りんごを手渡す。受け取ったルルはどうしようか迷ったが、そのミルの顔を見て、ルルもかじってみる。
〈シャクッ〉
かじると口の中が水分で一杯になる。噛むたびにシャクシャクと頭に響いてくる。
ルルはもう一度かじってみる。ミルも首を伸ばして、ルルの手にあるりんごにかじりつく。
「ルル、りんごって『おいしい』んだって。ママさんが言っていたの。だから、これは『おいしい』なんだね。」
ミルがモグモグさせながら話す。これが『おいしい』か、ルルはモグモグさせながら、そう思った。探し物はまだ見つかりそうになかった、ただそれでも、おいしいを見つけた、ルルはそう思った。
映画の中ではいつまでも、男と女がりんごを食べたばっかりに、暮らしていたところから追い出されている。
ルルとミルはもう、映画のことなんか忘れて、手元のりんごに夢中になっている。スピーカーから鳴り響くクラシックにまぎれるように、ルルとミルがりんごをかじる音が響いている。
外ではもう、夜が明け始めるようだった。