第15話「川に落ちた日」
文字数 10,338文字
目は閉じたままで、耳が水に被るか被らないか。お腹は乾いている。両手はちょうど
へそ
のあたりで重ねる。両肘は水に浸かり、水の流れを感じる。頭、肩、上腕に当たった水が、沈んでいる肘の上を流れて、前腕の横をすり抜ける。体で左右に分けていた流れがつま先で合流する。目を開けてみる。
私は川面に浮いたまま、流されている。頭を前にして、青空を見上げたままだった。
川は草原の中を流れているらしく、視線の両脇に背の高い草や小さな木が見える。
微妙なバランスで体が浮いている。頭を動かしたいのだが恐れのあまり、頭を動かせない。無意識に頭を動かすのを制御している。
私は、流されるままになっていた。
ゆっくりと流れていく草木。じっと見つめる程の時間はなかったが、葉っぱや花の形を見分けるには十分な時間があった。
頭を下にしたまま、この後何が起きるのか、不安はあったが、不思議と心地良い気持ちで流されていた。それはきっと、この草原と川が、空気が作り出す清涼感が、私にそう錯覚させているのだろう。ただ川の最後が、何処に続いているのか気になっていた。
川に流されてどれくらいの時間が経っただろうか。視界に入る草木は途切れることなく、かぶさるように茂っている。
草木が通り過ぎていくことから、私は川を流れているというのは確かだ。ただ、その奥に広がる空は真っ青で雲一つない。その空は一切の変化がない。書き割りのようだ。
本当は私が川の中を流されているのではなく、草木だけが動いているのかもしれない。
例えば、二畳ほどの湯船に私は浮かべられていて、その周りを草木が動いているのかもしれない。いや、それでは私の腕を抜けていく水流の説明が付かない。それなら、ハムスターの回し車に水を入れて、私はその中に浮かべられているのかもしれない。回し車を回すことで中に水流が生まれるだろう。しかし、それも違う。もしそうだったら、回し車の側面が真上に見えているはずだ。青空が見えるはずがない。まさか、空に届くほど大きい回し車をつくって・・・。そんなバカな。
やはり、私は川に流されているのだ。
空に変化が無いのも、それほど時間が経っていないからなのだろう。
私はまた、目を瞑る。
私が川に流されるきっかけは、なんだったろうか。記憶をたどってみる。
もしかして、あの時だろうか?
土手を自転車で走っている。真っ赤な夕焼けが綺麗だった。
土手沿いに走ったずっと向こうに鉄橋がある。夕陽に後ろから照らされている。それが逆光になって、鉄橋の柱一本一本が浮き彫りになる。ただでさえみすぼらしい鉄橋が、細い黒い線の集まり、針金細工のように、ちょこんと土手を渡しているのが見える。
私は自転車をこぎながら、その夕焼けに見とれていた。空はうろこ雲だ。オレンジ色が複雑にグラデーションをつくっている。
あれは中学三年生だった。最後の中体連。地区大会が終わって、部活動の引退が決まった。放課後、顧問が受け持っているクラスの教室に部員が集合している。
私たち3年生は、教室の前の方を、普段の授業では絶対そんなことはしないが、独占している。3年生は夏休みの予定について話している、まだ一か月先にも関わらず、夏期講習を受けるのか、どこの塾に通うのか、模擬試験を受けるのかどうか。
それに比べて、私たちの後ろに座る2年生は、もっと呑気だ。おじいちゃんおばあちゃんの家に行くとか、海に行くとか、大阪のテーマパークに行くとか。
一年生たちは残りの席に座る。とは言っても、席が足りるはずがない。ほとんどは教室の後ろに、壁に寄り掛かるようにして並んでいる。ここまで彼らの声は聞こえてこない。当時の私からしても、一年生は子供っぽく見える。座る席が無く、落ち着かないのだろう。手遊びしたり、ちょっかいを出し合ったり。狭い教室でじゃれあっている。
この教室ではもう、中体連は過去のことになっていた。
「
隣の
「何も予定はないけど。」
ぼんやりと、教室を見回しながら返事をする。顧問はまだ来ない。
「この時期に遊びの予定を入れている奴なんて、いるわけないだろ。どこの塾に通うんだよ。」
「塾って?」
私は初めて、藤田の方を向く。
「お前、夏期講習だよ。受けるんだろ。」
「あー。受けねーや。」
藤田は呆気にとられたような顔、それが、少し怒ったような顔に変わる。
「お前、マジで言っているのか?来年、受験だぞ。」
「今の実力で受かる所を受けるからいいよ。」
「受かる所を受けるって・・・。期末テストと、高校受験は違うんだぞ。」
「それぐらいわかっているよ。」
「いやいや。夏期講習受けねー時点で。わかってねーよ。」
藤田は頼んでもいないのに、周りの3年生に告げ口する。
おかげで周りからは「草介マジでか!」に始まり、「マジ、勇者じゃん」とか、「ご愁傷様です」とか、言われる。
もうやめてくれよ、と思ったとき、顧問の先生が教室に入ってきた。
「みなさん、お待たせしました。臨時の職員会議が伸びてしまいました。」
にぎやかだった部員たちは、あっという間に静かになる。
顧問の
熱血的ではない。むしろ冷めているような人だった。だからと言って、生徒に対して冷たいという訳でもなかった。
田中先生を始めて見たのは、1年生の数学の授業だった。それも、中学校に入学して最初の授業だった。6年間も過ごした小学校を卒業して、初めて受ける中学校の授業。それも算数から数学に変わる。私は内心とても緊張していた。
始業ベルが鳴り先生がクラスに入ってくる。スタスタと教壇に立つと、淡々と自己紹介を始める。
「1年2組のみなさん、初めまして。ご入学おめでとうございます。みなさんの数学を受け持つ田中
そうして、中学校初めての授業が始まった。
先生の授業は早いわけでもないし、遅いわけでもない。難しいわけでもないし、やさしいわけでもない。面白おかしいわけでもないし、眠くなるほどつまらないわけでもない。ただ、淡々と授業が進む。
中学校の授業とはこういうもので、授業を教える先生というのもこういう存在なんだ、と私は思った。
小学校という井戸から抜け出し、中学校という大海を目の前にする。その時、田中先生というのは拡大されて、中学校の先生の代表のように。ひいては、社会の大人たち、我々中学生が将来的に目指すべき大人像の見本のように感じていた。
私にとって田中先生というのは、中学校教師の見本で、大人の見本であった。
ただその印象は、前者については2時間目の授業から呆気なく崩れていく。田中先生だけが他の先生と違っていた、それだけだった。
それでも、先生の評判というのは悪いものではなかった。数学の分かりやすい先生は誰かという話題には、必ず筆頭になる先生だった。ただ授業が面白いかどうかとなると、みんな疑問符を付けていたが。
そしてその性格は、部活動にも表れていた。
体の使い方や戦術について、数学の授業のように的確にアドバイスをくれるという訳ではない。スポーツはからっきしダメだった。そのため、技術的な指導は外部のコーチに一任している。先生は名目上の顧問であり、単なる部活動の責任者だった。その裏方での活躍ぶりに、先生の性格が遺憾なく発揮されていた。
静まり返った教室。田中先生は部員に一言お詫びを告げた後、プリントを配布する。
「プリントは3枚配布します。ミーティングのレジュメは、3年生も全員受け取ってください。明日からの部活の日程表と、新人戦までのスケジュールは、1、2年生だけが受け取ってください。あとの進行は、部長と副部長に任せます。」
そう言うと、先生は教卓に座わる。
レジュメには、部の引継ぎ式とその式次第、中体連地区大会の反省、打ち上げの日取りについて、事務連絡とある。ついに部活動も引退か、そういう実感がわいてくる。
レジュメに則って、ミーティングは淡々と進んでいく。
まずは引継ぎ式。現部長の
地区大会はふがいない結果に終わってしまった。後輩のみんなはこの経験を生かして、新人戦と来年の地区大会で実績を上げてほしい。部を引退するがみんなのことを応援している。私たちも来年の高校受験に向けて努力する。月並みな挨拶をすると、藤田が次期部長と副部長を発表する。指名された二人が、しどろもどろの決意表明をして、式は終わる。
続いて中体連の反省会。次期部長と副部長が進行役となって、初めておこなう反省会。教壇に立つ2年生の二人は、3年生の顔色を窺うように、試合の欠点や課題を黒板に書いていく。ミーティングの最後の内容である打ち上げの日取りが決まったころには、二人は消耗しきっていた。
最後、先生からの事務連絡の後に、3年生全員へ労いの言葉をかける。
「3年生の皆さんは3年間、いえ厳密に言うと、2年と3か月ほどでしょうか。お疲れ様でした。来年は高校受験です。部活動の結果は悔いの残る物だったかもしれませんが、気持ちを切り替えていきましょう。それでは、今日のミーティングは終わりです。新しい部長と副部長は、私と職員室に来てください。解散です。ありがとうございました。」
「「「ありがとうございました!」」」
そうして、最後の部活が、私の部活動が終わった。田中先生は2年生の二人を連れて教室を去る。部員たちもドアに近い順に、1年生、2年生の順番で教室から出ていく。
私はというと、2年生に混じって教室を出てしまうつもりだった。夏期講習の件について、また聞かれるのは面倒だった。
なるべく目立たないように机を立ったつもりだったが、すぐに藤田に捕まった。
「おい、草介。どこ行くつもりなんだよ。部活卒業の打ち上げをやるぞ。」
「何、言ってんだよ。打ち上げは夏休みの初日に決まっただろ。」
「部活全体の方じゃなくて、俺たち3年生だけで、だよ。3年全員で駅前のマックに集合するからな。」
「いやぁー。おれは。」
「いいだろ。最後なんだし。お前は塾に通わないつもりだからいいかもしれないけど。夏休み以降は塾だ、講習だ、で集まれなくなるんだから。」
塾のことを藤田はまだ、根に持っているのだろうか。俺が塾に通おうかどうか。なんなら、高校に受かるかどうかは、藤田には関係ないことだろうに。どうして、不機嫌なのだろうか。推薦入試組と一般入試組にあるような、逆恨みみたいなものなのだろうか。
藤田の態度を見る限り、首を縦に振るしかなさそうだった。私は折れることにした。
学校から玄関そこから駅に向かうまで、藤田に連行されるようにつきっきりだった。
しかし、マックに着いたら拍子抜けだった。藤田は3年生全員に声をかけたのだろうが、集まったのはその1/4にも満たない。私と藤田を含めて5人だった。部長の横井も来ていない。どうやら、いつものメンバーだけが集まった感じだ。
「ほとんどが塾だってよ。」
藤田がポテトとナゲットを乗せたお盆を、テーブルの真ん中に押しやる。外から見えない、少しでも奥まった席を5人で陣取る。私はシェイクを一つ、啜っていた。
「それってつまり、塾にも通わず、呑気に買い食いしている受験生は、俺らだけってことか。」
最後にテーブルに来た
さらにこの5人の中で、夏期講習すら受けないのは、私一人だけだ。
藤田が「最後なんだし」と言って集まった5人。だからと言っても、話すことはいつものことだった。
部活動のこと。クラスのこと。授業のこと。もう、私たちには関係ないはずなのに、来年の中体連のことまで話している。なぜか、受験については始めに話したっきり。誰もそのことについて切り出そうとしない。
私はてっきり夏期講習のことでまた、集中砲火を受けるものだと思っていたが、ついに、話題にならなかった。ここにいる4人は、私が夏期講習を受けないことを知っているはずだ。意識的に話題をそらしているのか。それとも、この最後の時間を楽しむのに、「受験」という話題はふさわしくない、それだけだったのだろうか。
マックに集まった最初、私はその話題を警戒していたが、それも途中から辞めていた。だが、私を除いた4人が何気なくつまむ藤田のポテト。それだけ、私は手を伸ばせなかった。
テーブルのポテトが無くなったころ、そろそろ帰宅の準備を始める。長居しすぎるとマズい。
私の中学では買い食いは禁止だった。1,2年生の間は反省文くらいで済んだが、3年生になるとそれだけでは済まない。内申点に響いてしまう。そしてそれは受験にも。
そのため、テーブルを占拠する理由が無くなればそそくさと立ち去る。それがここでのマナーであり、お店側に校則違反を見逃してもらうための、密約のようなものだった。
「またな」と言って、5人は解散する。そうして独りぼっちになる。
駅前から自転車で帰る時いつもそうしているように、土手沿いを走る。その時に見たのが、あの夕焼けだった。
あの時、私は夕焼けを見ながら何を考えていたのだろうか。
普段は空を見て感傷的な気持ちに浸ったりしない。だがその時は、沈んでいく夕陽が、とても月並みの表現だが、綺麗だと感じた。
この土手沿いの道も、駅前のマックに行かなくなると、通ることもなくなるだろう。藤田の話した「最後なんだし」というのは、私にとっては、この道を通るのが「最後」になるという意味にもなる。
そういった感傷が、この夕焼けを綺麗に見せていたのだろうか。その時は自転車をこぎながら、ずっと景色を見ていた。
土手の側を一直線に並ぶ小さなビルや倉庫群は夕陽に照らされている。窓ガラスが光を反射し白く光る。
昔、地元の郷土館で町のジオラマを見たことがあった。
小さな街並みを、ガラスの衝立越しに眺める。あの時は、今よりずっと背が小さかったから、ジオラマを見下ろせず、水平に眺めていた。そうすると、狭い路地を覗き見るように、手前の建物と奥の建物の重なりというのが、私の視点が動くのにしたがって、変化して見える。そのこと自体は、別に特別な見え方ではない。ただ、視点が動くにしたがって物の見え方が変わっているだけ。だが、その時の私には、ジオラマの中に万華鏡を見つけたような発見だと思って、郷土館にいる間ずっと、ジオラマのまわりをぐるぐると覗いて回っていた。
建物の並ぶ直線は、綺麗に積み上げたトランプの山札をずらして広げるように、少しずつその夕陽に照らされた側面をこちらに見せる。
ビルがひらいていく。
見惚れているうちに自転車は道を外れ、土手を駆け下りて、川に突っ込んだのだ。
まだ私は川の中を流れている。
書き割りのようだと言った青空も、私の心を反映したのか。青が濃くなる。日が沈み始めるまで間もないようだ。私は中学3年のあの時から川に流されているのか。
ただそれは、ありえない。なぜなら、川に落ちた後のことも確かに、記憶として覚えているからだ。
落ちた川は、人を浮かばせて流すほど、深い川でなければ、それほど流れの強い川でもない。それに私は川に落ちたというより、川岸に生える
泥から這い上がり、自転車を押しながらとぼとぼと家に帰る。母親に嫌みを言われながら、風呂場で学ランを洗ったのだ。
春から夏に変わる季節。泥にはまったくらいで風邪をひかないで済んだのは幸いだった
そうなると、私は何時、この川に落ちたのだろうか?また、考えてみる。
空はもう日が沈んでいた。
この川の近くに、街灯のような灯りが無いようで、さっきまで見えていた草木の判別がつかないくらい、辺りは真っ暗になる。
暗がりに目が慣れていないのか、夜空には星が一つも見えない。
たださらさらと、川沿いの草木の葉がすれる音だけが、ぼんやりと聞こえる。
月も見えない。新月なのだろうか。
そういえば、昔、こんな夜があった。
上京した年、最初の春。
大学は地元だったから、初めての一人暮らし、初めての東京だった。
就職した会社の入社式、それと懇親会が終わった後だ。その年の暦がちょうどよく、4月1日は金曜日だった。そのため、上司や先輩も容赦なかった。入社初日にもかかわらず、12時過ぎるまで、終電が無くなるまで飲み会に付き合うことになってしまった。
飲み代のすべてを先輩が支払ってくれたとは言え、新卒一年目の4月というのはお金が無い。タクシーを使って帰るお金はないから、始発が出るまで都内をうろつくことになる。
「ねー。ちょっと、そこのベンチで休憩しようよ。もう、足がヤバいの。」
2次会、3次会、4次会・・・。果たして、いくつお店を回ったのかわからない。3次会あたりから、配属先ごとに分かれて飲んで回ることになった。私とベンチに座っている優子、それと先輩の3人だ。先導役の先輩が先ほどのお店で飲み潰れてしまい、あえなく、そこで現地解散となった。
先輩をどうにかタクシーに乗せることに成功したが、問題は私たち二人がどうやって、帰るかだ。
いくらスマホがあるといえども、私たちに土地勘はない。そのため、たまたま行き会った川沿いの道を歩いていた。どうやらこの川に沿って行けば、大通りにぶつかるようだった。そうすれば、地下鉄なりJRなりの駅を見つけて、始発まで時間をつぶせるだろう。そういう作戦だった。
「ねー。寒いから、コート貸してよ。」
優子は赤くなった足先をグーパーさせながら、こちらに向かって言う。
私は優子の隣に座ると、左手で持っていたステンカラーコートを渡す。
「ありがとう。」
優子はそう言うと、「うー寒い」と呟きながら、コートを羽織る。両足はまっすぐ伸ばしたまま、コートからはみ出ている。
ベンチの近くに桜の木があった。が、もう花は散ってしまっていた。葉っぱもまだ出てきそうにない。真っ黒な樹皮が、街灯に照らされている。ざらざらとしている。
「ねー。草介はどっち方面に住んでいるの?」
優子は両足でバタ足しながら話す。相当寒いようだ。私はそれほど寒いとは思わないが。
「所沢だよ。」
「え!埼玉に住んでんの!」
「いや。家賃とか考えたら、そういうもんでしょ。」
「折角、都内で働くのに!」
「働く場所と住む場所は関係ないだろ。第一に、新卒の給料で都内なんかに住めないだろ。」
「え・・・家賃、自分で払っているの?」
「社会人なんだから当たり前だろ。まさか、家賃を親に面倒見てもらっているのかよ。」
「う・・・、うん。」
さっきまでの威勢が無くなり、優子の声が小さくなる。
「パパに・・・。半分出してもらってる。」
「まぁ・・・。家庭の事情というのは色々だろうから、それについて、何も言わないけどさ。」
「そう。責めたりしないんだね。」
「なんで、俺が責める必要があるんだよ。それは個人の勝手だろう。」
「ふーん。」
優子はつま先をピーンと伸ばし、じっと見ている。
話す話題が無くなってしまった。ただ、歩くだけなら、黙っていても気にならなかったが、ベンチに二人して座っていると、この沈黙が妙に気になって来る。
優子とは、今日初めて会った同期だった。
ただ、配属が一緒というだけで、なんとなく親しくなっているだけで、彼女とはほぼ初対面だ。しかも、同期の自己紹介をまともに聞いていなかったので、3次会で先輩に連れまわされるまで、彼女の名前もよくわかっていなかった。このように、話しができるようになったのは、皮肉にも、酔いつぶれた先輩のおかげといったところだろう。
いかにして先輩をタクシーで帰らせるか。彼女とどれほど、策をめぐらす羽目になったことか。同期というより、一晩で戦友のような仲になっていた。
優子はまだ寒そうに、細い体にコートを巻き付けている。足先も器用にすり合わせている。東京より西の出身だとは聞いていたが、ここまで寒さが苦手だったとは。その様子に見かねて周りを見回す。向こうに自動販売機が見える。
「じっとしていると寒いだろ。何か飲み物買ってきてやるよ。」
そう言って立ち上がると、優子は急いで靴を履いて、よろめきながら立ち上がる。
「いいよ。自分で買うから。『社会人は自分で面倒見る』でしょ。」
「なんだよそれ。」
「冗談だよ。コートを貸してくれたお礼に、おごるから待っていてよ。」
「足の方は大丈夫なのか。」
「うーん。まぁね。慣れないといけないし。」
そう言うと、優子は体を震わせながら、向こうの自動販売機に向かって歩く。
私はその後姿を見届けると、またベンチに座る。目の前には柵があって、その下の舗装された所を川が流れている。
これが何という川かは知らない。東京を流れている川で、ぱっと思いつくのは、墨田川か、多摩川か、神田川。あと二子玉川か。ん?ニコタマは川の名前なのか?
柵に近寄って、川を見下ろしてみる。周りに明かりが少ないため、川面は黒々として良く見えない。そのままなんとなく、空を見上げると、空も黒々として星もまばらにしか見えない。
川を見たり、星を見たりして、何かがわかるつもりではなかった。だが、なんとなく、目の前の川が「神田川」であってほしいと、思っていた。それは、昔聞いたフォークソングの影響か。なんとなく、この場には「神田川」がふさわしいような気がした。
ただそれは、私の奇妙な感傷でしかない。この川が何という川であっても問題ではないし、その様な感傷を、彼女に強要するようなことはあってはならない。
しかし、自分は何を考えているのだろう。初めての東京で舞い上がっていたのだろうか。
不意に自分の姿を見て、その黒さに驚く。ベージュ色のコートを優子に貸していたことをすっかり忘れていた。今は真っ黒なリクルートスーツを一つ、着ているだけだ。
「おまたせー。」
後ろの優子の声に振り返る。両手をコートに突っ込んでいる。
「自動販売機はあったんだけど、飲み物が冷たいのしか無くって。」
「まぁ。もう春だからな。」
私はベンチに戻る。彼女は立ったまま、私の背中に話しかける。
「そのかわりね、ホテルがあったよ。」
「ホテルって、今から宿を取っても仕方ないだろ。」
「ホテルって。そっちじゃなくて・・・。」
「え?」
思わず、振り返る。
「どっちのホテルでも、第一、お金が無いんだから。」
「言ってなかたっけ。アタシはあるんだよ。」
私は動揺を隠せないでいた。
優子は何を言っているんだ。流石に、今日会ったばかりの人とそれはない。いや、初対面だからとかは関係なくて。職場の同期とそのような関係になるつもりはない。そのような関係って?いやいや。お互い、少なからずお酒が入っているわけだ。そんな状態で考えるようなことではないだろう。
「ねぇ。どうするの。」
優子が私の隣に、体を摺り寄せる。
どうするも何も。社会人として断らなければならない。さっきの感傷というのは、決してこんなことを期待した感傷なんかではない。むしろ、あれは嘘だ。
ただ、誰かと二人っきりで歩く時間を、ちょっと心の中で脚色したかっただけなんだ。
「ねぇ。何考えてるの?」
優子が顔をこちらまで近づけてくる。
「ふざけたことを言うな。もう歩けるなら、行くぞ。」
私は優子に背を向け、ベンチから立ち上がった。その場から離れる。
「ごめんごめん。冗談だって。ほらコレ。」
優子は私を追い抜くと、コートのポケットから缶コーヒーを、「ジョージアのオリジナル」を差し出す。
甘いやつだ。
あの後、優子とまた川沿いを歩き、適当な地下鉄の駅に入った。さすが都会、すぐ始発が来て、別々の電車に乗った。
仕事が始まってからは、優子と何度か会うことはあった。ただ10月の本配属で彼女は地元に戻ってしまった。初めからの希望だったらしい。それ以来会うことがないまま、気づいたら転職して、この会社を辞めていた。
私はまだ川を流されている。
そもそも私が川に流されたのが、そんな昔のはずがない。私には上京してから、結婚のことまで覚えている。いや、それより先のことだって、覚えている。
だから、私が川に流されたのはもっと最近のことなんだ。ただ、それが何時からなのかが、はっきり思い出せない。
だが、それを思い出したところで、どんな意味があるだろうか?
何時から川に流されているとわかっても、川に流されている自分を止めることはできない。結局、流され続けるだけだ。それは無意味ではないだろうか。
ただ、川に流されたまま、されるがままでよいのだろうか。
思い切って、へその上で重ねられた手を開いてみる。恐る恐る。しかし、川面に沈んだ肘も持ち上げようとした時。
ぐわん。
身体全体が大きく揺れる。慌てて両手をへそに押し付ける、ただ必死にバランスを取ろうと、全身をこわばらせる。危うく水に沈むところだった。全身に走った緊張をゆっくりと解きながら考える。
このまま、流されるのが得策なのかもしれない。ただ、何時までも流されるわけにはいかない。何時かこの川の流れから、自由になろう。そのためには時間がいる。今は、どうしてこうなったか、ゆっくり思い出すことにしよう。
私はまた、目を瞑ることにした。