第1話 「本は巡っていく」
文字数 11,185文字
オートブックカフェ“ABC”。
店名にもあるように、ここはセルフサービスという名の
拝借と言っても、まさか人生の相棒となる本を探すつもりなどない。金になる本を探すのだ。暇があっても金がない、そんな高校生活も来年には「勉強しろ受験生!」と追い立てられる短い運命。たかが1千円でも、最後の青春を彩る糧にしたいと考えて何が悪い!
現代は大ネットフリマ時代、私や世間にとって古びた本でも、ネットの海には金を出す奴がいるのだ。そのようなお宝を古本屋で探すのも良いが、経費はゼロに越したことはない。交通費が少し掛かるが、今日中に持ち出せば今回一度きりの出費だ。アルバイト禁止の高校で、しかも買い物は親への申告制。「せどり」で日銭を稼ぐような貧乏高校生にとって、ここは宝箱のようなところなのだ。
学ランに入れた「せどり候補リスト」、その存在を確認した後、一呼吸して“ABC”の入り口へ踏み出す。そのとき、
「あの、お客さんですか?」
後ろから、声が!
「て、定員さん?!」
全くと言っていいほど、周囲に注意を払わず店内をのぞき込んでいたために、突然の呼び声に対して変な声を出してしまった。
「あの、入るのなら早く入っていただけませんか?注文を届けたいんですけど。」
背中越しでも苛立ちが伝わる。ゆっくりと声のしたほうに振り返る。海老茶色のエプロンに白いブラウス、そして後ろに束ねられた黒髪。よく見かけるカフェの店員さんだが、その不機嫌そうな顔に見覚えがある。
「あれ、
後ろから声をかけてきたのは、クラスメートの水下だった。
「え、吉田ぁ!」
アルバイトをしているところを同級生に見られてばつが悪いのか、視線をゆっくりと逸らし、片方の口角を上げた、妙な苦笑いをする。
「着ているそれ、そこのカフェの制服だろ。」
すぐそこにある、街でもよく見かけるカフェを指差す。
「いやぁ、エプロン姿でお手伝いかな?」
「その、手に持っているのは?」
丸いお盆に載せられた、コーヒーカップとチーズケーキを指差す。
「まぁ、コーヒーとケーキのお届けかな?」
あくまでもはぐらかそうとする。それならと、核心を突いてみる。
「アルバイトじゃん。」
「おぉ、お客さんからの頼まれごとだから。」
「お客さんって、それバイトじゃん。つーか、学校で禁止されているじゃん。」
「いやぁ、まぁ・・・。」
言い訳が思いつかなくなったのか、それとも相手にするのが面倒になったのか。水下はお盆の上の物にかからないように、大きくため息をついた後、さっきまでの態度とは変わって、毅然とした口調で話す。
「今、お客さん待たせているから。一旦どけて。そしたら話すから。」
睨みつけるとは違う、その真面目な真っすぐな視線。ため息一つの合間で同級生が仕事をする大人へ、一瞬で変わってしまった。
その驚きのあまり「あ、うん」とか訳の分からない返事をして、慌ててドアを掴み「どうぞ中へ」としていた。もしかしたら、ドアを開けた反対の手で敬礼までしていたかもしれない。彼女の後に続いて“ABC”に入り両手でドアを閉めたこと、それは覚えている。
「お待たせいたしました。」
中を覗いているときには気づかなかったが、ワンピース姿の女性がテーブルに座って本を読んでいる。水下は女性の右側に回り込んでお盆のケーキとコーヒーを順番に差し出す。一礼して去ろうとするが、どうやら呼び止められたようだ。
「さっきの子、知り合い?敬礼していたよ。」
“さっきの子”はやはり敬礼をしていたようだ。それにしても、あの女性とは知らない仲ではなさそうだ。二人のアハハという屈託のない笑いが店内を駆け巡ったあと、水下は私のほうに駆け寄ってきた。笑顔が真顔に変るそのさまを、見せつけるようにしながら。
店内の隅。立ち並ぶ自動販売機の右端、むき出しになったコンクリートの壁に私と水下は寄り掛かっている。お盆を抱きしめながら、水下がした話はこのような感じだった。
彼女は美大への進学を考えているそうだ。高校は美術部に入っていたが、公立高校の美術部程度では美大への進学などままならないらしい。実際に美術部の顧問からも、「美大に行きたいなら美術予備校に通いなさい」と、言われてしまったそうだ。しかし彼女の家庭には、普通の予備校はおろか美術予備校になんて通わせるお金もない。だから学費を稼ぐために、部活を辞め、高校には内緒でアルバイトを始めたのだそうだ。
「お金が必要だったのか。」
ポケットの中の「リスト」に触れながらぼんやりとつぶやく。いくら必要かまでは聞いていない。だがおそらく、この「リスト」にある本が全て売れたとしても届かない額だろう。
「そう、お金が必要なの。将来のために。」
「だから邪魔しないでね」とはっきりと言ったあと水下は、「それじゃ、仕事中だから」と狭い通りを駆け抜け、斜向かいのカフェへ戻っていった。
「仕事中だから」。彼女の言葉を頭の中でリフレインしながら、ある種の感傷に似た感覚に浸りながら、ここに来た理由を思い出す。
しかし、それにしてもここは、マンションの地下駐車場をそのまま使ったような感じだ。特に天井にあるむき出しの蛍光灯が、みすぼらしさを、コンクリートの鼠色をより際立たせる。窓から夕陽が差しこんで来た。
「君、本を見に来たんでしょ。ほら荷物だけでも置いたら?」
先に座っていた女性が、体をこちらにひねり、背もたれに寄り掛かりながら話す。もしかすると、この人はだれかれ構わず話しかけるタイプなのかもしれない。それはさておき、言われたとおり、隣のテーブルにバックを置いて、やり場に困った両手を膝にそろえて座る。
「あの
「はい、同じ高校の同級生で。」
「ふーん。その学ラン、市立高校でしょ。懐かしいなぁ、あたしが通っていた頃はみんなバイトしていたのに。変ったんだね。」
「えぇ、原則禁止になって。数年前に、先輩がコンビニのレジのお金を盗んだかなんだかで、それ以来。」
私の言葉を聞くなり女性は「フフッ」と笑い、危うく手に持ったコーヒーをひっくり返すところだった。
「もしかしたらそのお金を盗んだって人って、あたしの知っている奴かも。」
「え、そうなんですか。」
礼儀として興味のありそうな相槌をする。
「ソイツもお金が必要だったって、言っていたっけなぁって。」
「はぁ。」
なんだ、それだけか。乗り出しかけた体を背もたれに戻す。それにしても、いつの時代でも高校生はお金が必要なのか。
「ソイツは馬鹿な理由だったと思うけど、あの娘は真面目な理由だったね。」
「そ、そうですね。」
思わず肩をすぼめる。私のお金が欲しい理由は、その顔も知らない馬鹿と同程度なのだろうか。お金が欲しい「真面目な理由」を考えてみるが、これと言ったものは出てこない。進学するかさえも決めていない男に、未来のお金の使い道だなんてもってのほかだ。
「だから、邪魔しないで上げてね。」
「え?」
「あの娘の夢、邪魔しないで上げてね。」
「あ、はい。もちろんですよ。ばらしたら何を言われるやら。」
「フフフ、そうなのね。ならよかった。」
話したいことを話し終えたのか、チーズケーキの一番高く盛り上がったところにフォークを刺し、その大きな一切れを一口で食べてしまった。お上品とは言えないが、とても満足そうだ。空になった皿を脇に寄せ、モグモグしつつ、栞を引き抜きながら本を開く。
その姿を見ながら頭のどこかで引っかかっていた何か、それに気づき、「あっ」という小さな言葉を枕詞にして聞く。
「そういえば、どうして水下が、いや、店員さんがここに来ていたんですか?ここって、無人のブックカフェですよね。」
しまった。片方の手で隠されている口元はまだモグモグしているはずなのだが、手のひらの上からのぞく二つの目は、雄弁に女性の気持ちを語っている。やらかした、と思いつつも目をそらすのも失礼だと思い、その引き抜かれた水色の栞を見ていた。二人の間をくぐもった咀嚼音が響く。顔を少し歪めて飲み込んだあと、コーヒーを少し口に含む。
「わたしが頼んだのよ、ここまで届けてくれるように。あえて言えば私は常連だからね。」
「はぁ。」
その答えになっていない返答に、今さっき女性がしていたのと同じ目になる。
「今はあたしぐらいだけど、そこのカフェでテイクアウトしてここで飲む人がチラホラいたのよ。それでそのうち、ここもそこのカフェの一部みたいになっている、という訳。」
「でもそれって、ここのオーナーからすれば迷惑というか、問題にならないのですか。」
後ろの自動販売機の行列に目をやる。
「場所を使わせる代わりに、ごみ捨てから閉店の施錠までしてもらっているらしいから、案外、Win‐Winなのかもね。」
「へぇ。ここについて、詳しいんですね。」
「まぁね、常連だから。」
その女性が口にする「常連」という言葉に、何か深い意味か含みみたいなものを感じつつも、特別、詮索する気持ちにもなれずに、「そうなんですね」と相槌を打つ。
「でも、そんなこと気にするんだ。本を読むのに人が居るも居ないも関係ないでしょ?」
膝にあった本を広げ、こちらを見ずに話す。
頭の中に「常連」という言葉がぐるぐるしていた時に、不意打ちとも言える問いかけに思わず声が出てこない。
女性がページをめくる音が響く。コンクリートの壁に反響し増幅されたその響きが、本を持ち出そうとしていたことを見透かしていたように、糾弾する声となって店全体を震わす。立ち並ぶ自動販売機のライトのひとつひとつが、監視する目となって私を串刺しにしていく。教室大だった店内が無限に広がり、その無限の重力が両肩を強烈に押さえつける。
擬人化された“ABC”がそこに立っているようだった。
「まぁ、君もあの娘に頼んだら、ケーキセットぐらいなら届けてもらえるかもよ。」
膝の上で握りしめていた手の力が不意に抜ける。無意識にうつむいていた、顔を上げる。
お店の広さは元に戻り、自動販売機の排気音が低く響いている。そして、女性が本を読んでいる。さっきの感覚は何だったのか、なにもなかったようにさらっと答える。
「別に、そういう仲じゃないですし。」
「あら、そう。」
女性はまた、ゆっくりとページをめくる。本は「ぺらり」と音を立てるだけだった。
私は三列ある本棚の一番奥にいた。「リスト」を取り出し今日の手はずを考えていた。「常連」の女性も居ることだし、今日は目星をつけるだけにしよう。
本のタイトルを確認しようと思うが、隣り合った本棚が影を作り、最上段の本以外、ほとんどタイトルが読めない。仕方なくライト替わりにスマートフォンを取り出す。掌の中で液晶が時刻を表示する。18:40。
やばい。私の家はお小遣いがない代わりに、20時までという門限があるのだ。遅くても19時にここを出なければ、門限に間に合わない。これはのんびりできないと、並べられた本の背表紙を、目を皿にして確認する。
本の状態は想像よりましだが、ジャンル分けが一切されていない、著者名順という並びに苦戦する。如何せん、用意したリストが歴史、美術、歌集とジャンル別なだけに、著者名順など全く考慮していないからだ。
左手に「リスト」、右手にはスマホを持って、タイトルとリストを交互に睨みつける。合理化できない作業ゆえに、「リスト」のほとんどが頭に刷り込まれていった。
本棚も奥から数えて三列目になっていた。先ほどの女性とは本棚を挟んですぐ向こうだ。膝にたまる疲労とは裏腹に目ぼしい本は見つからない。もう、こちら側の本棚も見終わってしまった。やれやれ、女性に背を向けてこの作業をしなければいけないのか、そう思ったところドアが開く音がする。「帰った!」心の中で叫び声をあげ本棚の列から顔を出したところ、聞き覚えのある声が聞こえた。
「はーい、閉店時間でーす。」
お店に入ってきたのは、水下だった。真っ青なゴミ袋と黄色い布巾を持っている。手際よくテーブルに布巾をかけていく。テーブルのカバンを見て、私の存在に気付いたようだ。
「まだ居たの?19時でここは閉店だから。お姉さんもほら、かえった、かえったー。」
19時!スマホを見る。19:03。やばい。急いで帰らねば。手に持っているものをポケットに突っ込みバックを背負いあげる。
女性も水下に追い立てられるようにして本を閉じる。パタンと閉じた、その本の表紙が目に飛び込む。間違いない。頭の中に刷り込まれたタイトル、「リスト」にある本だ。それも1万円そこそこで取引されている本だ。
栞を挟めたその本を棚に戻す姿、少し背伸びしたその姿が、スローモーションになって、瞳に映る。心臓が早鐘を打っている。
「ほら、突っ立っていないで、早く帰る!」
発車ベルが駅のホームに鳴り響く。ぎりぎり間に合った。運動をしない帰宅部が1㎞そこそこを全力疾走するのは流石につらい。
ドアに寄り掛かって乱れた呼吸を整えようとする。まだ4月の涼しい時期だというのに額を汗がダラダラと流れる。サラリーマンや若い人がまばらに座る車内で、ふーん、ふーん、と大きな鼻息を立てながら、それでも周りには平静を装いつつ、ポケットのメモを取り出す。間違いない。
さっきまで走っていた興奮もあいまって、「リスト」の「1万6千円」という金額に、笑いが隠し切れずにあふれてくる。乗客には見られないように、暗くなった外を見ていた。
次の日。昨日の興奮とは打って変って、あの「1万6千円」が実は、とても遠いものであることに気づかされた。
学校を終えてすぐ“ABC”に来たが、「常連」の女性もそこにいる。もちろん、「1万6千円」も女性の手元にある。土日などに朝早く来れば違うかもしれないが、まさか、読んでいる途中の本を売り飛ばす訳にはいかない。それは決して、女性のことを気遣ってという意味ではないが、読み止しの本が無くなれば、誰だって盗まれたと疑うだろう。そしてこの女性は、恐らく、いや間違いなく、私が盗んだと察するのではないだろうか。そういう気がしてならないのだ。
テーブルは教科書とノートを広げただけ。自動販売機で買った紙コップのコーヒーをだらだらと飲む。女性がページをめくるたび、無意識のうちに女性のほうを見て、本の進み具合を確認してしまう。それ以外の仕草、例えばコーヒーを飲んだり、お菓子をつまんだりをするたびに、自分が女性を見ていたことに気づき、慌てて視線を戻す。紙コップを口に運ぶ。コーヒーがなくなっていた。
女性が本を読み終わりそうになければ、宿題をする気も湧いてきそうにもない。とりあえず、コーヒーをもう一杯飲むことにして、また自動販売機の前に立つ。
「ねぇ。そこのコーヒーって、おいしい?」
来た時に「こんにちは」とあいさつしただけだったが、こちらを向いて聞いてくる。
「そんなにおいしくはないですけど、缶コーヒーよりはおいしいので。」
「折角だからあの娘に頼んだら?もう、来ていると思うよ。」
コーヒーカップを殊更に見せつけてくる。
「いや、そこまでしなくても・・・。」
「私は、あの娘の淹れたコーヒーを飲んでほしいなぁって、思うなぁ。」
自分にかまわなくていいから早くその本を読み切ってくれ、と言いたかったが、今は飲みこんで、からんでくる「常連」さんの気持ちを汲み取ることにした。
「じゃぁ一杯だけ。飲みますよ。」
「最初からそう言えばいいのに。あたしが注文しておくね。」
そう言ってスマホを取り出す。「ブレンド2つお願いね。1つは彼の分よ、あたしに付けといていいから。」と、勝手に電話で伝える。
なぜこの人はこうもからんでくるのか。このまま席に戻るのも恰好が付かないと思い、テーブル側の本棚、確認しそこなった棚を確認する。ここは本棚の陰にならないおかげで、昨日のような恰好で見る必要はない。「リスト」が体からはみ出さないように、女性から見えないように。それだけを気を付ける。
全て確認し終えたが「リスト」にあるもの、あの「1万6千円」を上回るものは見つからなかった。やはり、女性が読み終わるのを待つしかないのか。
「お待たせいたしましたー。」
水下がコーヒーを持ってきた。女性が礼を言いながら2つ受け取り、1つを自分のテーブルに置き、もう1つを私によこす。
そのまま左手を伸ばそうとしたとき、その手には既に「リスト」があることに気づいた。伸ばしかけた左手の行き先を空の紙コップに逸らして、「リスト」をその中に押し込みながら、紙コップをテーブルの脇にどかす。
そうしてテーブルに場所を作るふりをして、反対の手でそのコーヒーを受け取る。
「ありがとうございます。」
コーヒーを受け取ったはずなのだが、女性はまだこちらを見ている。「リスト」を見られたか。いや違う、ジェスチャーでコーヒーを飲めと言っている。仕方なく、一口すする。テーブルを片付けている水下に、
「水下の淹れたコーヒー、おいしいよ。」
「それ、マスターがいれたやつ。」
水下のそっけない返事に女性が笑っている。
あれから放課後は、真っすぐ水下の勤めるカフェへ行き、そこのコーヒーを飲みながら“ABC”で過ごすことが日課になった。
「常連」さんとする雑談と一向に進まない宿題、19時になれば追い出しに来る水下。
気づけば、水下とカフェまで歩くようになり、そのまま制服を着て出てくるのを待つようになっていた。初めて“ABC”に来た日から3週間。そして今日も水下を待っていた。
「ごめん、お待たせ。今日もブレンドとシュークリームでしょ?」
財布の中身を見る、今日は千円札が1枚しか入っていない。
「いや、今日はコーヒーだけでいいかな。」
水下はレジに打ちこむなり、そのまま後ろでコーヒーを淹れる準備を始めた。財布の小銭入れとレジに表示された金額を見比べる。390円。それと帰りの電車賃が300円。
「もう、毎日のように来てくれているね。」
水下がコーヒーポットの温度を見ながら話す。
「毎日じゃねーよ。放課後だけじゃん。」
「そういうのを毎日のようにって、言うんじゃないの。」
カップにお湯を注ぎ温める。その間に、ドリッパーに挽きたてのコーヒー豆を入れる。
「まぁ、そういうなら、そうなのかもな。」
ドリッパーに少しだけお湯を注ぎ、コーヒー豆を蒸らす。こちらまで香りが広がってくる。
「毎日来てくれるのはうれしいんだけど、お金とか大丈夫?ここのコーヒーって、そんなに安くないでしょ。」
「まぁ、それでも、おいしいからね。」
最後のお札を触りながら答える。そのまま財布から引き出すようにして、トレーに置く。
「そう言ってくれるのは、うれしいけど。」
カップのお湯を捨て、ドリッパーの下にセットしたら、お湯をゆっくり注ぐ。
真っ白なカップの底が1杯390円のコーヒーの中に沈んでいく。
「ありがとうございましたー。」
コーヒーを載せたお盆を持って“ABC”に向かう。水下が話したように、このままでは2、3日の内に、ここへ来られなくなってしまう。早く、何か金策を講じなくては。
結局、打開策が見つからないまま“ABC”に着いてしまった。なれたようにドアの取っ手に肘を差し込んで開ける。
「こんにちはー。」
返答がない、珍しいこともあるようだ。今日はあの女性、「常連」さんがいない。いつも座るイスに腰を掛け、本棚を見ながらコーヒーをすする。見慣れた本棚、本来であれば一か所だけ隙間が空いているはずのところに本が収まっている。しかし、なにかが違う。あの本があるということもそうだが。いやそうだ、本に栞が挟まっていない。
「常連」さんは必ず、本に栞を挟んで戻していたはず。それが、今はない。つまり、「常連」さんはその本を読み終えたのだ。
棚の本に手を伸ばす。そういえば、ここにある本を取り出すのは今日が初めてだ。背表紙に指をかけた時、前に古本屋で本を取り出した時のことを思い出した。「せどり」。そうだ、この本は「1万6千円」だ。
ちょうど良い、単行本のサイズ感。今まで人が持っているのを横から見ていただけだったから、実際に手に取って伝わるこの質感は新鮮だ。カバーの状態、天地、小口の日焼け具合を確認し、適当なページを開いて傷みが無いか確認する。大丈夫そうだ。
コーヒーを一気に飲み干す。興奮が醒めない。これでひと月は大丈夫だ。周囲を確認する。といっても誰もいない。窓の外にも人がいないことを確認すると、誰の手にもない、この「1万6千円」をバックに詰め込む。
そこからは、あっという間だった。カップとお盆を無造作に掴んで、外に出ていた。
普段乗らない時間帯の電車。窓から夕日が差し込んでくる。普段はもっと遅いから夕日なんて見えない、そういえば夕日を見るときは、いつも「常連」さんの横顔があった。
カバンからさっきの本を取り出してみる。表紙を開いたとき、本から三つ折りの小さな便箋が落ちてきた。慌てて便箋を拾う。「常連」さんの栞と同じ色、水色の便箋だ。心臓がバクバクと音を立てる。
本を表紙から開いたことで落ちてきたのか、カバーと見返しの間に挟まっていたみたいだ。嫌な予感、それとは違う、何かこうなることを予感していたような、それは、初めて“ABC”に来た時、「常連」さんを前にして感じた感覚、便箋を開いた、そこには細く綺麗な文字があった。
君へ
私には(私でわかるよね?)君たちに言わないといけないことがあります。それは、君たちの高校でアルバイトが禁止になった理由についてです。
禁止になった理由、数年前にお金を盗もうとした学生、それは私のことです。
高校生だった私には付き合っている人がいました、アルバイト先の大学生です。その人には危なっかしいところもありましたが、十代の私にはそれが、とても魅力的に見えていました。
そして、ある晩、私はその人と一線を超えてしまいました。あの時の私にとってそれは、大人になること、それぐらいにしか考えていませんでした。
大人になること、それには快楽だけではなく、責任もついてまわるということを、当時の私にはもちろん、付き合っていた大学生にも、まだわかっていませんでした。
二人に自覚が無くても、それは現実に、形あるものとして突き付けられました。
新しい命が誕生していたのです。
それ以上先は、詳しく話す必要はないと思います。両親には内緒で、手術をするためにお金が必要になり、私は罪を犯しました。
久しく忘れていましたが、君の話を聞いて思い出しました。決して甘美な思い出としてではなく、私が犯したこと、それが現在の君たちも背負うべきものとして残り続けている責任として、でした。
この本を読み終えるまでに伝えるつもりでしたが、切り出す勇気が出ませんでした。
直接、伝えることができなくてごめんなさい。そして、本当にごめんなさい。
追伸:本を読むのが遅くて、お待たせしてごめんなさい。それと私が言えたことではないけど、彼女を支えてあげてください。
無我夢中だった。電車が止まるなりホームに飛び出して、“ABC”に向かう方向の電車の、閉まりかけのドアに体を突っ込む。何としてもこの電車で戻らなければ。締め出そうとするドアの意思をものともせず、無理やりこじ開ける。遠くで車掌の声が聞こえた。
乗客たちの冷ややかな視線も気にならなかった。右足、左手、頭、順番に体を押し込んでいく。両肩まで入ったところでドアの力が抜け、勢いのまま車内に転がり込む。よろよろと起き上がり、どこかに掴まる間もなく、電車は走りだした。
時間を確認する、間に合いそうだ。
夕焼け空に少しずつ夜のとばりが降りてゆく、そのさまをぼんやりと眺めていた。
駅に到着するなり“ABC”に向かって走る。こんな風に走るのは初めてここに来た日の帰り以来だろうか。そして、またこのように走るのはいつになるだろうか。カフェを通り過ぎ“ABC”にたどり着く。すでにそこには先客が、1か所だけ隙間の空いた本棚の前に立ち尽くす、水下だった。
「あら、帰ったんじゃなかったの。」
正直、水下がいるのは想定外だった。持ち出した本をどう戻そうか、何とかここを切り抜けなければ。そのとき、水下の声色が違うこと、そこまで考えが至らなかった。
「いや、忘れ物しちゃって。」
「忘れ物って、もしかしてこれのこと?」
水下がこちらを向いて、しかし顔は下を向いたままで、紙きれをテーブルの上に置く。
その紙切れは、前に紙コップと一緒に捨てたはずの「せどり候補リスト」だった。その「リスト」の存在をすっかり忘れていた私は、頭が真っ白になった。
「やっぱり、吉田君のだったんだ。」
下を向いたまま、たどたどしく続ける。
「たまたまね。紙コップと燃えるごみを分別する必要があるから。ゴミ回収のときに、この紙切れが入っているのが目について、確認しちゃったんだ。その日、そういえば吉田君、そこのコーヒーを飲んでいたなぁって。」
水下の声が、少しずつ上ずってくる。
「内緒でアルバイトするのは心細かったから、毎日、来てくれるのは、本当に嬉しかったし、秘密を共有できるのは、いいなぁって、思っていたのに、それは、私、わたしの勘違いだったんだね。今日、常連さんも来てないし、吉田君はすぐ帰るし。なんか嫌な予感がして。そしたら、あの本が、その紙に書いてる本が無いから。ずっと、ずっっと、持ち出す、いや、盗める時を待っていたんだね!」
赤くなった目でこちらを睨みつける。
「いや、そうじゃなくて。ほら、ほらっ。本はここにあるから。」
カバンからあの本を取り出す。しかしそれは、逆効果だった。
「どうして、その本がカバンから出てくるの?やっぱり、盗んだんじゃない!」
「ちがうよ。違うって。そうじゃなくて、」
「やめて、言い訳なんて聞きたくないから。」
「だから、話を聞いてくれって!」
「やめて!盗んで転売なんて、真面目に働く人を馬鹿にするような、そんな人の話なんて聞きたくない!もう、あたし馬鹿みたい。」
彼女の手を掴むこともできず、水下は出て行ってしまった。腕を伸ばせなかった。身体を動かせなかった。今の自分には追うことはできない、追いかける資格が無いのだ。
財布にはもう、帰りの電車賃分しか残っていない。手元にあるのはこの本だけだ。しばらく本の表紙を眺めた後、表紙を、ページを、ゆっくりと、1枚ずつめくっていく。
「常連」さんの手紙にあった「責任」という言葉を思い出しながら。そして、それを果たす方法を考えながら。