第21話  散る音を聞く  後編

文字数 3,376文字



 その夜は寝られなかった。
 なんだか目が冴えて落ちつかない。
 月が明るかったので、外に出てみた。
 あの桜の巨木のもとへ。

 桜は、まだ三分咲き。
 美しいが、どこか、さびしげ。

 桜が泣いていた。
 いや、違う。泣いているのは、あいつだ。
 桜の木にのぼって、太い枝にすわっている。

 月光にてらされるあいつは、人間のようには見えなかった。どこか別の世界からやってきた何かのようだ。
 たとえば、桜の精霊か?
 こばみきれない吸引力。

 しばらく、おれは見とれていたらしかった。

「ここに来なよ」と、あいつは言った。

「バカ言え。二人も乗ったら、枝が折れる」
「折れたっていいじゃないか。どんなものだって、いつかは終わるんだよ」
「枝が折れたら落ちるだろ。その高さから落ちたら、骨折るぞ。それに、崖がある」
 この美しい桜の木の裏側は、すぐに高い崖になっていた。十五、六メートルはある。
 崖下にも桜が群生しているから、この木の上から見る景色は格別だ。だが、落ちれば、命はない。

「おりてこいよ。バカ! 死ぬつもりか?」
「死んでもいいよ」

 なげやりな答えが、むしょうに腹立たしい。
 おれの居場所をうばっておいて、勝手なこと言うなよな。

「いいから、おりてこいって!」

 あいつは心配するおれを嘲笑う。
「見てたんだろ?」

 ドキリとする。
 返す言葉がなかった。
 おれの顔色は変わっていただろうか?

 あいつは空を見あげた。
 声は聞こえない。涙が見えるほど近くもない。
 でも、あいつが泣いてるのがわかった。

「……あんたさえいなければ、僕は、こんなに苦しまなかったのに」
 あいつは、そう言った。

 おまえさえいなければーー
 あんたさえいなければーー

 一瞬かさなった、二つの“思い”。

 なぜか、脳裏に、ある光景が浮かんだ。
 満開の桜の散り急ぐなか、にっこりとほほえむ、あいつ。
「僕はもう行くよ」
 そう言って、あいつは……。

 急にまた、目の前に大人のあいつが立っていた。
「なんで、助けてくれなかったんだよ? 知ってたんだろ? あんたは、僕が苦しんでたこと。なのに、なんで!」

 ぽかぽかと、おれの胸をたたいてくる。
 その姿は憎いはずなのに、妙に可愛い。

「おまえが、おれを近づけなかったんじゃないか。こんなふうに、おれに甘えたことなんか、なかったろ?」
「最初に、僕を嫌ったのは、あんただ! 僕は嬉しかったんだ。お袋は、あの調子で自分しか見てない女だよ。親父は、たまにしか来ない。だから、兄がいるって聞いて、嬉しかった。なのに……」

 ああ、そうだ。
 おまえは、あの日、おれの前に手を出して言ったんだ。

「ねえ、友達になろうよ」と。

 十二さいの春。



 *

 あれは、まだ母が生きていたころだ。
 母のぐあいが、そうとう悪くて、あまり病床に近づけなかったころ。
 一人で満開の桜の森を走りまわっていた。

 そのとき、あの桜の下で出会った。
 同い年くらいの子どもだ。
 なんで、子どもが一人で、こんなところにいるんだろう?
 とても可愛い顔をしていたから、きっと、山に住む不思議な生き物だと思った。桜の木の下にいたから、桜の精霊だと。

「ねえ、友達になろう?」
 そう言って手をさしだしてきた。

「いいよ」
 さしだされた手をにぎりかえして、日が暮れるまで遊んだ。

「散る桜だ。やっぱり、おまえは散る桜だ。そうだろ? なんで忘れてたんだろう? 親父から紹介されるより前に、一回、会ったよな?」
「でも、あんたは言った。『おまえなんか知らない』と」

 突風が吹いた。桜が、みんな散っていく。
 こんなものすごい桜吹雪、見たことない。

「僕は、行くよ」

 ダメだ。その日はダメだ。
 思いだしたくない。

 また、あの座敷に帰っていた。
 神妙な顔つきで、散る桜がため息をついている。
 今度は桜の小袖の散る桜だ。
 あいつになったり、桜の精霊になったり忙しい。

「頑固だなぁ。まだ思いださない」
 小首をかしげて、ちろりと、こっちを見る。

 おれは宣言した。
「おれは思いださないぞ。あのことを思いだすくらいなら、ずっと、ここにいるからな」
「それは困るんですよ。罪人には罪を認めてもらわないと」

 散る桜がそう言ったとたん、座敷に生えた桜の根元が、ガタガタと鳴った。さっき、あいつの死体を埋めた場所だ。タタミがはねあがり、ガラガラと床がくずれだした。

 おれも散る桜もいっしょになって、床をころがる。
 死体を埋めた穴が、どんどん大きく広がる。
 穴のふちに、散る桜がころがりおちた。

「散る桜!」

 急いで、穴のふちまで行ってみた。
 ふちに、散る桜の手がかかっている。

 異様に深い穴だ。
 濃密な闇のわだかまる底なし沼のよう。
 その遥かかなた、底のほうで、チラチラと炎が踊っている。

 よく見ると、金棒を持った鬼が亡者を追いまわし、責め苦にかけていた。皮をはぎ、骨が粉々になるまで殴り、熱湯の煮えたつ大なべのなかに投げ入れている。

「いっしょに行こう」と、散る桜は言った。

 おれは首をふった。
「ダメだよ。おまえを、あんなところに行かせられないよ」
「でも、もう、ほんとの僕は、あそこにいる。わかってるよね? 僕のほんとの名前を呼んで」

 名前? そんなの知らないよ。
 おまえは、おれにとって、山の桜の精霊だ。そうじゃないと、おまえを憎まなければならなくなる。

 おれの心の奥底に、ぽっかりとあいたヒトガタの黒い空白が、じょじょに大きくなり目の前に迫ってくる。

 ふいに光がはじけ、ヒトガタのなかから映像があふれる。

 あの桜の森。
 高校を卒業したばかりの春だ。
 ボストンバッグ一つを持って、屋敷からとびだしていく散る桜。
 おれは自分の部屋から、それを見て、追った。

「どこ行くんだよ。そのカッコ。まさか、家出するつもりか?」
「そうだよ。僕は、このうちから出ていく」
「なんでだよ? あと四年の辛抱だろ。今までどおり、親父にとりいって、大学行かせてもらえばいいじゃないか。媚びを売るのは得意だろ」

 パシンと、ほおをなぐられた。平手打ちが、けっこう痛いもんだと初めて知った。
 そりゃ、こんなふうに毎日なぐられてれば、イヤになるってもんだが。

 散る桜は泣いていた。

 なんで、そんな目で見るんだ?
 あんたにだけはわかってたはずだろ?ーーそう言わんばかりの目で?

「僕はもう、このうちには帰らない!」

 散る桜はかけだした。
 おれは、あわてて、散る桜の手をつかもうとした。
 そのさきには、崖がーー

「ダメだ!千隼(ちはや)! そっちに行くなーー!」
 ハッとして千隼はすくんだ。でも、そのときには遅くて……。

「そうです。僕は崖から落ちたんですよ。あなたは僕の死体を桜の根元に埋めて、家に帰った。ねえ? 千尋兄さん。あなたが、僕を殺した」
「ああ。そうだったな。おれが殺した」

 にっこり笑って、散る桜はタタミのふちをつかむ手を離した。
 あわてて、おれは、その手をつかんだ。いや、つかもうとした。
 だが、あのときと同じだ。おれの手をすりぬけて、散る桜は堕ちていった。

「千隼! 千隼ァー!」

 ねえ、わかるよね? 兄さんにだけは。
 僕たちは一枚の鏡の表と裏だ。
 僕も、ひとりぼっちだった。
 兄さんも、ひとりぼっちだった。
 ねえ? 僕たち、兄弟でなければ、友達になれたかな?

 堕ちながら、ささやく千隼の声が聞こえる。
 いっしょに行こうーーと。

「……わかったよ。おれの負けだ」
 おれは笑みを返して、地獄に続く穴のなかへ身をなげた。

 桜吹雪が、おれを包んだ……。



 〜散る桜〜


 目がさめると、自宅のふとんのなかだった。

 涙があふれる。
 おれは勢いよく立ちあがり、パジャマのまま走りだした。
 蔵に向かい、昨日、見つけたアルバムをひらいた。

 あのヒトガタに黒い切りこみのある写真。
 一瞬、桜の精のように綺麗な少年の姿が見えた。
 でも、それはまた、すぐに黒いヒトガタに変わった。

 おれは写真をアルバムから、はぎとり、桜の森へ急いだ。
 桜は満開だ。
 これまでにも何度も、そうしたように、桜の根元に写真を埋めた。

 これでいい。
 これで、忘れる。
 おまえのことは思いださない。

 じゃないと、つらすぎる。
 たった一人のほんとの友達は、もう、この世にいないなんて。

 だから、これでいいんだ。

 おれの分身は、桜の花になった。




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