第9話  ムーンライトブルーの海〜うたかたの恋〜

文字数 2,787文字




 月光の砂浜……。

 こうこうと照る満月のもとで見る入江は、まるで、この世のものとは思えないほど美しかった。

 青白く輝く砂。
 ささやくような、おだやかな潮騒。
 南国の花の香りが、甘く、あたりにただよう。

 どこか違う世界に迷いこんだような気さえした。

 あたりは無人だ。
 ここでなら、安心して泣ける。

 もう人生をあきらめていいだろうか?
 たとえば、あの岩の上から飛びおりて、暗い海に身をなげても?

 そんな思いで、夜の浜辺をさまよっていた。

 すると、どこからか歌声が聞こえた。
 夜のしじまに、ひびきわたる。
 その声は、まるで天上の調べ。

 だが、それなら、なぜ、こんなにも胸をえぐるのだろう? 痛いほど、切ない。

 しぜんに涙があふれた。
 それは、失ったものを悼む歌だったから……。

 水音とともに、歌声がやんだ。
 あわてて声のぬしをさがした。
 岩かげで水音がする。
 岩場をまわりこみ、必死で走る。

 そこに、人魚がいた。
 青白い月光をあび、白く、ぬれた肌をかがやかせる女だ。目をうばわれた。
 ぼうぜんとしているうちに、女は波間に消えた。

 夢でも見ていたのだろうか?
 そんなふうに思うほど、ひどく非現実的。

 会いたい。もう一度——

 次の夜も、入江に行った。
 やはり、同じ時間になると、人魚は現れた。
 あの胸をえぐる唄を歌った。
 その唄を聴くと、心が落ちつく。
 失った夢への挽歌……。

 そんな夜が数日、続いた。
 ある夜、思いきって、人魚に近づいてみた。

「こんばんは。ステキな唄ですね」

 人魚は怒った目をして、こっちをにらんだ。

「誰ですか? あなた」
「すいません。あなたの唄が聴きたくて」

 なんだか、警戒心の強い人魚だ。物語とは、ずいぶん違う。溺れた王子を助けてくれそうにはない。それが、なんだか、おかしかった。

「人に聴かせるものじゃありません」
 そう言って、波にもぐっていってしまった。

 人魚に、ふられてしまった。
 あとには静寂だけ。
 誰もいない月光の砂浜。
 今の自分のようだ。
 空虚で、何もない。

 すべてが順調だったころは、いつも、まわりに誰かがいた。
 また記録が伸びたな。メダルだって夢じゃない——と、誰もが言い、自分でも、そう思っていた。

 でも、失うのは一瞬だ。
 事故で失ったのは、片足の自由。でも、それは、すべてを失ったのと同義。

 イヤになるのは、自分が健康だということ。
 日常生活を送るには、なんの支障もない。ただ、もはや競技者には戻れないだけだ。

 これから、自分は何十年、生きるんだろう?
 この喪失感とともに?

 だから、自分を知る者がいない場所へ行きたかった。
 日本の果てのこの島で、望みどおり、孤独にひたれた。

 なのに、なぜだろう?
 あの人に、そばにいてほしい。
 ただ歌声を聞いただけの、幻のような存在に。

 砂浜で泣いていると、青白く月光を反射する水面がゆれた。しぶきをあげて、人魚の頭が現れる。

「そんなところで泣かれると、迷惑なんだけど」
「帰ってきてくれたんだね」
「わたしが泣かせたみたいじゃない」

 ツンデレな人魚だなぁ。
 でも、言葉と裏腹に、心配そうな目をしている。

「歌ってくれる?」

 しかたなさそうに、人魚は歌いだした。

 ラブソングだとわかった。
 遠くへ行ってしまった人への、切ない恋唄。

 また涙が、あふれた。

「泣き虫なのね」
「これは、しかたないんだ。今だけだよ」
「どうして?」
「夢を失ったんだ。子どものころからの、一生をかけた夢だった。もう少しで手が届くはずだった。でも、終わった。なにもかも、終わったんだ。おれは、もう翔べない!」

 なぐさめてほしかった。
 つい、甘えていた。
 ここが、あまりにも美しく、すべてが幻想のなかのような出来事で。この人魚も、自分の想像の産物のような気がして。

「死にたい」

 そう言った瞬間に、パチンと、ほおをたたかれた。
「あなたは、まだ生きてるくせに!」

 おどろいて見なおすと、人魚が泣いていた。
 そのまま、海に、もぐっていく。

「待って——!」

 夢中で追った。
 水のなかでは、自由を失った足もかるい。

 夜の海にもぐると、水面が青白い。
 まるで、宇宙をただよっているようだ。

 人魚は、ものすごい速さで海底へむかっている。
 優美なドルフィンキックで、ぐんぐん差をつけられる。

(待って——もう二度と失いたくない)

 彼女を失うことは、今度こそ、すべてが終わることのような気がする。
 夢を失ってから、やっと見つけた、何か。

 今、見失えば、二度と会えない。それは確信だ。
 必死に水をかくが、思うように進まない。
 やはり、片足の不自由な自分では、潜水にはムリがある。

 前方に何かが見えた。
 海底に沈む……遺跡か?
 船?

 彼女が、そこへ向かっていることは、わかった。

 あれが、人魚の都なのか……?

 でも、もう息が続かない。
 やけに潮流が速い。
 自分は、ここで溺れて死ぬのか。
 それもいい。
 死に場所をさがしてたんだ。

 意識が、もうろうとしてくる。
 青い、青い、海底に沈んでいく……。
 人魚の歌声を聴きながら。



 *

 気づいたときには、砂浜に倒れていた。朝になっていた。

 まだ、生きている……。
 でも、なぜ?
 ぐうぜん、波が運んでくれたのか?
 まだ生きろというのか。
 死にたかったのに。
 死ぬのが、こんなに難しいなんて。

 砂の上によこたわったまま、消えかけた明けの明星をながめた。

 涙が静かに目尻から髪のあいだをつたっていく。ぬぐおうとして、手に何かがあたった。かたい。

 起きあがってみると、それは貝がらだった。
 純白の大きな巻貝。
 誰かが置いていったようだ。
 近くに足あとがある。

(足あと……?)

 小さな足あとは、女のものだ。
 ドキドキしながら追っていった。

 変だぞ。このまま行くと、町じゃないか?

 やっぱり、そうだ。
 ホテルの建ちならぶリゾート地。
 町なかのカフェは、もう開店している。
 そこにいる人を見て、歓喜がこみあげてきた。
 人魚は白いエプロンをつけ、長い髪をポニーテールにしていた。忙しそうに働いている。

 アロハを着た店員に聞いてみた。
「あの人は、ここの従業員ですか?」

 店員は妙な笑いかたをした。
「ああ。あの子はね。美人だから、みんな、そう言うけどね。ムダですよ。恋人を海で亡くしてね。ずっと、その人を忘れられないでいるから」

 だから、怒ったのか。
 生きているのに、死にたいなんて言ったことを。

 丸いテーブルセットにすわり、人魚が近づいてくるのを待った。彼女と目があうと、自分のほおに笑みが広がるのを感じた。

「その貝がら、めずらしいですね」と、彼女は言った。

「これは人魚がくれたんです。海の底のおみやげに。でも、これは返します」

 そっと、彼女の手に貝をわたす。

「今度は人として出会いたい。ゆるされると思いますか?」

 かさなる手は、あたたかい。

    
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