第5話
文字数 1,930文字
調査 三日目
近頃、学校内で奇妙な噂が流れていた。
『美術教師が理科の太斉をストーカーしている』
学校にとって、全く好ましくない噂である。こっそり噂の出所を探ると複数もの目撃者が出てしまい、より好ましくない結果となってしまった。
ある生徒は美術教師が太斉に言い寄っているところを目撃し、ある生徒は太斉と話をしていただけなのに、その関係を疑われたとのことである。さらには太斉の家にまで押しかけているのを、同じ学校の教師がたまたま見てしまったらしい。
太斉は妻子持ちの既婚者であるため、独身の美術教師との仲がこじれ不倫ストーカー事件に発展したのだと思われた。ただ、これらはどれだけ目撃情報があろうと、あくまで噂として片付けられている。事実であろうとなかろうと、学校で波風を立てたくない校長により、調査が行われないからだ。
未成年の生徒ではなく、成人した教師なのだから学校がわざわざ首を突っ込む必要はない。あくまで個人的なことであるとし、校長は見て見ぬふりをすることにした。校長がそう決めたのだから、学校もその方針に従うまでである。何も対処をしないため噂は広まり続けるが、それでも校長は学校に沈黙を守らせた。生徒のため、他の教師のため、学校のため――では、もちろんなく。自己保身のためである。
そしてこの思惑が、後に逮捕者を出すことになるのを校長は知らない。
◇
「大丈夫ですか?」
「ちょっと……人数が多いよね。聞き込みすればするほど、関係者が増えていく。きりがない」
お風呂から上がった若宮さんはソファに仰向けで寝そべり、両指を交互に組み合わせてお腹の上に置いている。どことなく棺に入った人を連想させる格好なので、ボクはあまり好みではない。ボクはというと、同じソファで若宮さんの足下側に座り、膝の上に若宮さんの両足を乗せてマッサージをしていた。
若宮さんは、今日も一日出かけていたらしい。夕食までには帰ってきたが、調査以外で自分から外に出る人ではないため、体力はあまりない。いつもなら、ボクの休日に合わせて一緒に聞き込みに行ったりするので、ボクは心配になった。
「ボクも手伝いますよ」
「いや、大丈夫です」
若宮さんは間髪入れずに敬語で断ってきたので、わかりやすく、あやしい。
「若宮さん、何かボクにいえないことしてますよね?」
ボクは断定するように言う。
若宮さんはマッサージが気持ちいいのか、目を閉じたままだ。
「いや……そうだね。言えないこともないんだけど、まだ時期じゃないかな」
「時期って何ですか? 何かイケナイことしてませんか?」
何がおかしいのか突然、若宮さんは右腕で顔を覆い「してない、してないよ」と、笑いながら否定した。
「時期じゃないってのは、まだ材料がそろっていなくて、何もできないってだけだよ」
ボクは若宮さんの言い分に納得した。確かに、まだ依頼を受けて三日しかたっていない。ある程度、聞き込みをして証言を集めなければ、整合性に欠けた調査結果になってしまうだろう。
「今わかっているのは……人の弱みを握って脅す、という行為はとても有効的で、相手にとっては悲惨以外何物でもないということだね」
ボクは『おば様は脅されていた』と言う、若宮さんの言葉を思い出した。
「やっぱり、脅されていたんですか?」
「あぁ、間違いない」
若宮さんは右腕を降ろし、お腹の上でまた指を組み合わせた。聞き込みは真面目にしているんだなと、ボクは勝手に感心する。
「ねぇ、君。もし誰かに脅されたら、脅されたその日のうちに、僕に言うんだよ。けして悪いようにはしないから。早ければ早いほど、対処の選択肢が増えるんだ。遅いと、警察沙汰になるような方法しか選べなくなる」
若宮さんは、穏やかな笑みを浮かべながらボクに言う。
「……はい」
誰かに脅された経験のないボクは、どこか他人事のように返事をした。
若宮さんのマッサージを終え、ボクはお風呂へ向かった。
脱衣所で服を脱いでいると、ふと若宮さんが笑っていたことを思い出す。
『何かイケナイことしてませんか?』
ボクがそう言ったあとに、若宮さんは笑ったはずだ。「イケナイ」って何だ。いや、何が「イケナイ」だ。まるで子供に言い聞かせるような言葉じゃないか。だから、若宮さんは笑っていたのか。もう少しちゃんとした言い方をすれば良かったと反省したが、さらにその数時間後、頭を抱える羽目になる。
ボクが眠ろうとベッドに片膝を乗せた、その時――。
大人に……あの若宮さんに「イケナイ」なんて言葉、どう考えてもあやしい意味になってしまうことに気がついたのだ。ボクは自分の過ちに気づき、ベッドに顔を沈ませた。そして言葉にならないうめき声を出しながら、頭を抱えたのだった。
近頃、学校内で奇妙な噂が流れていた。
『美術教師が理科の太斉をストーカーしている』
学校にとって、全く好ましくない噂である。こっそり噂の出所を探ると複数もの目撃者が出てしまい、より好ましくない結果となってしまった。
ある生徒は美術教師が太斉に言い寄っているところを目撃し、ある生徒は太斉と話をしていただけなのに、その関係を疑われたとのことである。さらには太斉の家にまで押しかけているのを、同じ学校の教師がたまたま見てしまったらしい。
太斉は妻子持ちの既婚者であるため、独身の美術教師との仲がこじれ不倫ストーカー事件に発展したのだと思われた。ただ、これらはどれだけ目撃情報があろうと、あくまで噂として片付けられている。事実であろうとなかろうと、学校で波風を立てたくない校長により、調査が行われないからだ。
未成年の生徒ではなく、成人した教師なのだから学校がわざわざ首を突っ込む必要はない。あくまで個人的なことであるとし、校長は見て見ぬふりをすることにした。校長がそう決めたのだから、学校もその方針に従うまでである。何も対処をしないため噂は広まり続けるが、それでも校長は学校に沈黙を守らせた。生徒のため、他の教師のため、学校のため――では、もちろんなく。自己保身のためである。
そしてこの思惑が、後に逮捕者を出すことになるのを校長は知らない。
◇
「大丈夫ですか?」
「ちょっと……人数が多いよね。聞き込みすればするほど、関係者が増えていく。きりがない」
お風呂から上がった若宮さんはソファに仰向けで寝そべり、両指を交互に組み合わせてお腹の上に置いている。どことなく棺に入った人を連想させる格好なので、ボクはあまり好みではない。ボクはというと、同じソファで若宮さんの足下側に座り、膝の上に若宮さんの両足を乗せてマッサージをしていた。
若宮さんは、今日も一日出かけていたらしい。夕食までには帰ってきたが、調査以外で自分から外に出る人ではないため、体力はあまりない。いつもなら、ボクの休日に合わせて一緒に聞き込みに行ったりするので、ボクは心配になった。
「ボクも手伝いますよ」
「いや、大丈夫です」
若宮さんは間髪入れずに敬語で断ってきたので、わかりやすく、あやしい。
「若宮さん、何かボクにいえないことしてますよね?」
ボクは断定するように言う。
若宮さんはマッサージが気持ちいいのか、目を閉じたままだ。
「いや……そうだね。言えないこともないんだけど、まだ時期じゃないかな」
「時期って何ですか? 何かイケナイことしてませんか?」
何がおかしいのか突然、若宮さんは右腕で顔を覆い「してない、してないよ」と、笑いながら否定した。
「時期じゃないってのは、まだ材料がそろっていなくて、何もできないってだけだよ」
ボクは若宮さんの言い分に納得した。確かに、まだ依頼を受けて三日しかたっていない。ある程度、聞き込みをして証言を集めなければ、整合性に欠けた調査結果になってしまうだろう。
「今わかっているのは……人の弱みを握って脅す、という行為はとても有効的で、相手にとっては悲惨以外何物でもないということだね」
ボクは『おば様は脅されていた』と言う、若宮さんの言葉を思い出した。
「やっぱり、脅されていたんですか?」
「あぁ、間違いない」
若宮さんは右腕を降ろし、お腹の上でまた指を組み合わせた。聞き込みは真面目にしているんだなと、ボクは勝手に感心する。
「ねぇ、君。もし誰かに脅されたら、脅されたその日のうちに、僕に言うんだよ。けして悪いようにはしないから。早ければ早いほど、対処の選択肢が増えるんだ。遅いと、警察沙汰になるような方法しか選べなくなる」
若宮さんは、穏やかな笑みを浮かべながらボクに言う。
「……はい」
誰かに脅された経験のないボクは、どこか他人事のように返事をした。
若宮さんのマッサージを終え、ボクはお風呂へ向かった。
脱衣所で服を脱いでいると、ふと若宮さんが笑っていたことを思い出す。
『何かイケナイことしてませんか?』
ボクがそう言ったあとに、若宮さんは笑ったはずだ。「イケナイ」って何だ。いや、何が「イケナイ」だ。まるで子供に言い聞かせるような言葉じゃないか。だから、若宮さんは笑っていたのか。もう少しちゃんとした言い方をすれば良かったと反省したが、さらにその数時間後、頭を抱える羽目になる。
ボクが眠ろうとベッドに片膝を乗せた、その時――。
大人に……あの若宮さんに「イケナイ」なんて言葉、どう考えてもあやしい意味になってしまうことに気がついたのだ。ボクは自分の過ちに気づき、ベッドに顔を沈ませた。そして言葉にならないうめき声を出しながら、頭を抱えたのだった。
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