第2話 火事

文字数 1,490文字

 予ものの心をしれりしより、四十あまりの春秋をおくれるあいだに、世の不思議を
見る事、ややたびたびになりぬ。
 安元三年四月八日かとよ、風はげしく吹きて、しずかならざりし夜、戌の時
ばかり、都の東南より火出で来て、西北にいたる。はてには朱雀門、大極殿、大学寮、
民部省などまで移りて、一夜のうちに塵灰となりき。
 火元は樋口富の小路とかや、舞人をやどせる仮屋より出で来りけるなん。吹き
まよう風にとかく移りゆくほどに、扇をひろげたるがごとく、すえひろになりぬ。遠
き家は煙にむせび、近きあたりはひたすら焔を地に吹きつけたり。空にははひを吹き
たてたれば、火のひかりにえいじてあまねくくれないなる中に、風に堪えず、吹き
きられたるほのおは、飛ぶがごとくして一二町を越えつつ移りゆく。其の中の人うつし
心あらむや。或いは煙にむせて倒れふし、或いはほのほにまぐれてたちまちに死ぬ。
或いは身ひとつからうじてのがるるも、資材を取出るにおよばず。七珍万宝、さながら
灰燼となりにき。其の費えいくそばくぞ。其のたび、公卿の家十六やけたり。ま
して其の外かぞへしるにおよばず。すべて都のうち、三分が一におよべりとぞ。男女死ぬるもの
数十人、馬牛のたぐひ、辺際を不知。
人のいとなみ皆おろかなるなかに、さしもあやふき京中の家をつくるとて、たからをつひやし、
心をなやます事は、すぐれてあじきなくぞ侍る。
 ※安元三年の大火は、1177年4月28日後10時頃、樋口富小路付近で発生。火は南東からの強風にあおられて北西方向へ燃え広がり、西は朱雀大路(幅約84m)を越えて右京にあった藤原俊盛邸が焼失。北は大内裏にまで達した。皇居(里内裏)だった閑院(二条南、西洞院西)にも火が迫ったため、高倉天皇と中宮・平徳子は正親町東洞院にある藤原邦綱邸に避難した。火は翌日午前8時頃になっても鎮火しなかった。焼失範囲は東が富小路、南が六条、西が朱雀以西、北が大内裏で、京の三分の一が灰燼となる。
 ※藤原俊盛(1120年生)は、鳥羽上皇の寵愛を受ける叔母・得子(後の美福門院)の庇護を受ける。美福門院の側近として奉仕し、1147年(26歳)従四位下、1150年(30歳)正四位下と順調に昇進している。1160年に美福門院が没すると、俊盛は後白河上皇の側近に転じ、上皇の信頼を得て年預別当に任ぜられて院の雑事を担当した。1164年(44歳)従三位に叙せられて公卿に列す。1166年(46歳)太皇太后・藤原多子に仕え、1167年(47歳)正三位に至った。その後、1177年に出家した。火事で出家したのだろう。
 ※藤原邦綱(1122年生)は、下級官人だったが、文章生から蔵人になる。藤原忠通の家司として頭角を現わす。和泉・越後・伊予・播磨の受領を歴任して財力を蓄え、昇進し、1165年(42歳)破格の蔵人頭になる。4人の娘を六条・高倉・安徳の三天皇及び高倉天皇中宮・平徳子の乳母とし、豊かな財力を活用してその養育に力を尽くした。平家の白河殿盛子(関白・近衛基実室)の後見をつとめたが、1166年に基実が没すると多くの摂関家領を盛子に相続させた。邦綱は権大納言まで昇進した。邸宅も数多く有し、土御門東洞院邸宅は後白河院の御所及び六条・高倉両天皇の里内裏として、五条邸宅は高倉天皇の里内裏に用いられた。世渡り上手の、金持ちだった。
 ※高倉天皇は、1161年生、 1181年没。第80代天皇(在位: 1168年- 1180年。後白河天皇の第7皇子。母は皇太后平滋子(建春門院)。安徳天皇・後鳥羽天皇らの父。
 ※1155年生まれだから、長英22歳の頃火事である。
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