第1話 ゆく河の流れ

文字数 1,403文字

 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみにに浮かぶうたかたは、
かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世中にある人と住処と、又かくのごとし。
 たましきの都のうちに、棟を並べ、いらかをあらそへる、高き、いやしき人の住まいは、
世世を経てつきせぬ物なれど、是をまことかと尋ねれば、昔しありし家はまれなり。
 或いは大家ほろびて小家となる。すむ人も是に同じ。
 ところも変わらず、人もおほかれど、いにしえ見し人は、二三十人が中に、わずか
にひとりふたりなり。朝に死に、夕べに生まれるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
 不知、生まれ死ぬる人、いづかたより来りて、いづかたへか去る。又、不知、仮の
やどり、たがためにか心を悩まし、なにによりてか目をよろこばしむる。
 そのあるじと住処と、無常をあらそうさま、いはば朝顔の露に異ならず。或いは
露落ちて花のこれり、のこるといへどもあさ日に枯れぬ。或いは花しぼみて、露なお消
えず。消えずといえども、夕べをまつ事なし。
※日本三大随筆の一つは方丈記である。他に徒然草がある。吉田兼好は出家した法師であり、世の中を鋭い眼で観察し、人間行動の心理を説いたような文である。生きているうちには、この随筆は発表されていなかった。京都の公家の目には留まらなかった。百年以上過ぎ、臨済宗の法師によりこの随筆は発見され、公表された。その後、武家社会でも賛同する部分が多く。現在まで不滅の随筆となっている。当時は、兼好法師は短歌の詠み手で、四天王の一人とされており、その作品は多くの人に知られていた。
片や鴨長明は生きている時でも、神官として著名人だったのだろう。彼の住んでいた、移動式東屋のレプリカが、下鴨神社の参道に展示されていたのを見た。私が、兼好法師の足跡を辿って京都を旅行したとき、拝見した。京都人は鴨長明は認めているが、兼好法師はその足跡で残っている物はほとんどない。吉田神社では兼好法師は当神社と無関係ですと冷たく言われ、がっかりした。
鴨長明の履歴を調べてみた。1155年生まれ、1216年没。59歳まで生きた。下鴨神社の禰宜の鴨長継の次男として京都で生まれた。1161年(6歳)に従五位下に叙爵された。1172年(16歳)頃に父・長継が没した後は後ろ盾を失った。1175年(19歳)、長継の後を継いだ禰宜・鴨祐季と延暦寺との間で土地争いが発生して祐季が失脚。長明は鴨祐兼とその後任を争うが敗北。1204年(48歳)、かねてより望んでいた河合社の禰宜の職に欠員が生じたことから長明は就任を望み、後鳥羽院から推挙の内意も得る。しかし、賀茂御祖神社禰宜の鴨祐兼が長男の祐頼を推して強硬に反対したことから、長明の希望は叶わず、神職としての出世の道を閉ざされる。そのため、後鳥羽院のとりなしにもかかわらず長明は近江国甲賀郡大岡寺で出家し、東山、次いで大原、後に日野(現・京都市伏見区醍醐)に閑居生活を行った。
1212年(56歳)『方丈記』を和漢混淆文により書く。勅撰和歌集に25首が入集している。
日野には庵跡とされる地や方丈石がある。また下鴨神社摂社の河合神社には、方丈の庵が復元されている。琴や琵琶などの管絃の名手。
吉田兼好は 1283年生誕で1352年(68歳)没であるから、鴨長明より70年後に誕生した。
これを読むと兼好法師より鴨長明の方が、身分として格上だったのか。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み