第4話 家の存亡

文字数 1,333文字

家の損亡せるものみにあらず、是をとりつくろうあいだに身をそこない、片輪づける人数もしらず。この風ひつじの方にうつりゆきて、おほくのの人のなげきなせり。つじ風はつねに吹くものなれど、かかることやある。ただ事にあらず。さるべきもの、諭かなどぞうたがいはべりし。
 又、治承四年みな月の頃、にはかに都うつり侍りき。いとおもいのほかなりし事なり。おおかた此の京のはじめをきける事は、嵯峨の天皇の御時、都とさだまりにけるよりのち、すでに四百年余敏を経たり、ことなる故なくて、たやすくあらたまるべくもあらねば、これを世の人、やすからず憂えあえる、実に事わりにもすぎたり。されど、とかくいうかいなくて、帝よりはじめたてまつりて、大臣公卿みな悉くうつろい給いぬ。
世につかうるほどの人、たれかひとりふるさとにのこりをらしむ。つかさくらいに思いをかけ、主君のかげをたのむほどの人は、一日なりとも疾く移ろわむとはげみ、時をうしない世にあまされて、ごする所なきものは、憂えながらとまりをり。
 軒をあらそいし人の住まい、日をへつつ荒れゆく。家はこぼたれて、淀川に浮かび、地はめのまえに畠となる。人の心みなあらたまりて、ただうまくらをのみおもくす。うしくるまをようする人なし。西南海の領所をねがいて、東北の荘園をこのまず。
 ※1180年6月、平清盛により兵庫福原へ遷都試みるが失敗し、京都に都が戻った。清盛は翌年62歳で生涯を閉じた。平清盛は、伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた。平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、病没した。 
 ※嵯峨天皇は第52代天皇である。(786年生ー842年没58歳)天皇在位809年(23歳)ー827年(41歳)17年間在位。唐文化を好み、神事以外での天皇の服装を唐風に改め、儀式や作法にも唐風を取り入れた。貴族を中心に唐風の宮廷儀礼と詩文に彩られた。諸氏族の系譜書である『新撰姓氏録(しょうじろく)』や、年中行事の次第を定めた『内裏式』の編纂も行う。嵯峨天皇」に譲位した平城上皇だが、翌年、平城京遷都の命令を出しクーデター『薬子の変』を起す。「嵯峨天皇」は機内から東国へのルートを封鎖し、クーデターの共謀者である藤原仲成を監禁・射殺。平成上皇は平城京に戻って出家、愛妾の藤原薬子は服毒自殺。勅撰漢詩集の『凌雲集』『文華秀麗集』に自らの漢詩を多く残す。律令制を強化して国を安定させました。律令法典の『弘仁格式(こうにんきゃくしき)』の編纂をはじめ、朝廷の機密保持機関としての『蔵人所』や、京内外の治安維持のための『検非違使』を設け、桓武天皇から引き継いだ律令制の再建を行う。
※平城京から京都へ嵯峨天皇が確定された。それが400年前。優秀な天皇だったのですね。
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