第10話 ある夏の日

文字数 2,524文字

 幸恵との初めてのデートの後、彼女は僕と同じで時給の高い土曜日、日曜日にファミリーレストランでアルバイトを始めた。その為、お互いに時間の都合がつきやすい木曜日の午後からデートをするようになった。この頃になると2人とも会うたびに、親密さがどんどん増していった。

 そして、お互いの大学の夏休み前の前期試験が終わり、ちょうど7月も終わりになろうかといった時期の渋谷でのデートの時、別れ際に幸恵に言われた。
「橋本君のアパートを一度見てみたいな」

 彼女にそう言われた瞬間、いよいよきたか、と思い、僕の心臓の鼓動は早くなった。
「うん、いいよ」と僕はその時、何とか動揺が顔に出ないように彼女に言った。


 幸恵の来る日の前の晩は部屋の掃除はもちろんの事、僕の部屋を我が家のように振る舞っている近藤には絶対来ないように強く念を押しておいた。はじめ、近藤は意地悪そうに笑いながら「それは約束できんな」と言っていたが、僕の真剣な眼差しに最後は了承した。

 そして幸恵が僕の家に来る7月26日は午前10時に大岡山駅の改札で彼女と待ち合わせをした。ちょうど夏休みに入った子供連れやまだ前期試験中の東工大生で改札前の人手も多かった。
 僕は改札から少し離れた場所で、落ち着きなく幸恵を待っていた。
「こんにちは、橋本君」

 この日の幸恵はストライブのシャツにサスペンダーの付いたロングスカートで夏っぽいさわやかな服装だった。しかし、10代真っ盛りの僕は、この時は幸恵を見ても、これから起こるかもしれない出来事に性的なことばかり考えていた。

「電車混んでた?」
「いや、そうでもなかったよ」
 この日、幸恵は手に大きな手提げ袋を持っていた。僕はそれを指差して幸恵に尋ねた。
「あれ? 何? その手荷物」
「へへ、橋本君の家にキッチンあったよね?」
「うん、そんなに大きくないけど、一応あるよ。電子レンジもね」
「よし、よし。今日は手料理御馳走しようかと思って、途中買ってきたんだ」
 幸恵は、自分の手提げ袋を僕の目の前に持ってきて、中身を見せた。
「うれしいな、母さんの料理以外で女性の作る料理なんて始めてだよ」
「ほんとにー? 過去に作ってくれる人いたんじゃないの?」
 そう言って、幸恵は顔を斜めにして下から僕をのぞくような仕草をした。
「いない、いないよ」
 僕は慌てて右手を左右に振った。そして幸恵に持つよ、と言って手提げ袋を受け取った。

 駅を出ると、この日は夏の日差しが頭の芯に突き刺さってくるような感じだった。
「暑いね、今日は。夏真っ盛り」
 そう言うと、幸恵は持ってきた日傘を差した。
「今日、部屋に入るから、帽子を被ってくるのを止めたの。髪の毛に巻きついちゃって大変だから」
 この間、幸恵が髪を伸ばしているというのはデートの時に聞いていた。
「日傘、一緒に入る?」
 幸恵は傘を少し僕の方に傾けながら言ってくれたが「いや、いいよ。ありがとう」と、この時の僕はそういうことに、まだ気恥ずかしさがあった。

 そうして、すぐ近くに見える東邦工業大学のキャンパスの事や、周辺のお店の事などの話をしながら、車1台分に歩道がある程度の幅の狭い道をアパートまでゆっくり歩いた。僕にはいつもの景色だが、幸恵は初めての場所だったので、興味津々の様子だった。
 
 僕の部屋は4階建てのアパートの2階にあり、ちょうど階段を上がって直ぐの部屋である。そして片方の端が近藤の部屋だった。
 幸恵はアパートの入り口にあるアーチ状の門の上にエミネンスと文字が書かれたサインを見ながら
「ここが、橋本君と近藤君の愛の巣ね」と言って僕を見た。
「愛の巣なんて、気持ち悪い事言うなよ」
 僕は幸恵の冗談に苦笑いした。
 
 そして階段を上がり、アパートの2階の僕の部屋の前に立つと、幸恵に近藤の部屋を指を差した。
「あっちの奥が近藤の部屋だよ」
「ふふーん、確かにこのシチュエーションなら仲良くなるね、嫌でもね!」
 以前、カラオケボックスで僕が使ったフレーズを、幸恵は笑いながら言った。
「うん、そうだね」
 僕も笑って応えた。
 
 僕は緊張しながらドアの鍵を開けてノブを握ると、緊張で手が少し汗ばんでいた。そして、そのままドアを開けて幸恵を部屋の中に招き入れた。
 この時、近藤の部屋の扉を横目で見て、あいつ今絶対、扉の前で耳を澄ましているだろうな、と思った。

 僕の部屋の間取りは六畳一間でトイレとお風呂は別れている。扉を開けて玄関に立つと、奥のリビングまでの短い廊下に右手にトイレと風呂、左手にキッチンといった感じだ。
 僕はベッドではなく布団派だったので、普段は折り畳んである布団を寝るときにを敷く感じだ。なので、今は畳んだ布団が部屋の奥にあった。
 ちなみに、テレビはデスクトップのパソコンのモニターと兼用していたが、ほとんどテレビは観ていなかったので切り替えた事がなかった。

「どうぞ、狭いけど入って」
「おじゃまします」
 幸恵はあまりかかとの高くない、茶色のローファーの靴を脱いで中に入った。そして奥のリビングに続く廊下で左手にあるキッチンの上に袋を置くと、そこから部屋を見回した。

「男性の部屋って、もっときたないと思ってたけどきれいじゃない」
 幸恵は驚いた様子で言った。
「そうかな」
「私のお兄ちゃんの部屋なんてすごく汚いよ。動物の小屋みたいなの」
「昨日掃除したんだよ、一応さ」
「そうか、そうか。それはありがとう」
 そう言って幸恵がお辞儀をすると、僕は「いえ、どういたしまして」と言って、お辞儀を返した。
  
 リビングに入り、僕は部屋の中央に座布団を置き幸恵を座らせ、彼女に訊いた。
「何か冷たいものでも飲む? 紅茶、お茶、水、ファンタがあるよ」
「へえー、すごい品揃えじゃん。じゃあ冷たい紅茶ください、店員さん」
「はい、承りました」
 僕はそう言うと、グラスに氷を入れて紅茶を注いで彼女に手渡した。

 そして、自分の紅茶を注いだグラスを持って、彼女と反対側の壁にもたれ掛りながら座ると、渇いたのどを潤しながらしばらくの間話をした。
 この間行ったイタリア料理店のどの料理が美味しかったとか、アルバイト先の先輩で変わった人がいる話とか、永田と林さんの近況など話は尽きなかった。
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