第18話 アプリ

文字数 3,229文字

 2015年4月、新潟のスキー旅行から帰ってきてから3か月が経ち、僕もいつもの生活に戻っていた。
 会社では重要な仕事を任されて、やる気になっていた時期でもあったので、加奈に会いに行こうと思っていた事も少しずつ忘れ始めていた。

「橋本君、これちょっとこのX4から5通り、Y2通りから4通りの部分を図面修正して川崎の現場送っといてくれない?」
「はい。……でも課長、この梁の所は直した図面に部分詳細図付けて、今度の定例会議で説明しておいてもらったほうが良くないですか?」
「そうだな、じゃあ現場の岡部所長に先に説明しておいてくれる?」
「はい、分かりました」
「じゃあ、加藤設計の島津さんにも一緒にメールしときますね」
「あー、頼む」

 その日の夕方、部内のミーティングを終えて戻ってくると、いきなり僕のデスクの社内電話が鳴った。

「橋もっちゃん、今日は金曜だし飲みに行かない?」
 まるで、僕が戻ってくるのを見ていたかのようなタイミングでの田中さんからの電話だった。
「女の子とデートとか予定入ってるの?」
「そんなんある訳ないじゃないですか」
「だよなぁ、じゃあ行くか」
 彼の「だよなぁ」に少し引っかかったが、特に用事はないので行く事にした。


 仕事を終えた僕は、会社から5分程歩いた先の路地裏にある『居酒屋大吉』に向かった。ここにはうるさ型の上司も来ないので、田中さんの大のお気に入りの店だ。
 僕が歩いてくるのに気づくと、店の外の喫煙スペースで煙草を吸っていた田中さんが、急いで煙草を消してから一緒に店に入った。

「ハイボール二つと、キャベツの塩昆布あえ、串盛り、和風焼きそば」

 いつもの奥の指定席に座ると、田中さんはまるで何かの呪文のようにスラスラと注文した。特にこの店の和風焼きそばは絶品なのだが、料理に手間がかかり出てくるのが遅いので、最初に頼むのがお約束である。
 用意されていたかのように、店員はすぐにハイボールの入ったジョッキ2杯をテーブルに置くと、田中さんは、よしよし、と嬉しそうに手に取り、僕と軽く乾杯をして一気にジョッキの半分くらいまで飲んだ。

「あー、美味い」
 心の底から声を発すると、田中さんは急に声を潜めて真面目な顔で話し始めた。
「そういえば……聞いた? 総務部の話」
「いや、知らないですよ。なんでした?」
「宇野とすずちゃん、喧嘩して別れるらしいぞ」
 彼の話を聞いて、始め少し緊張して聞いていた僕は拍子抜けした。
「ああ、そうですか。まだ3、4ヵ月ですよね、付き合ってから」
「うん……、でも同じ部署だと居づらいだろうなあ」

 田中さんは、そう言うと美味そうにハイボールを飲み干して、店員に空のジョッキを見せて追加をお願いした。
 僕の周りはみんな気づいていることだが、田中さんは総務部の島野すずさんが大好きである。そして、島野さんのタイプでは全くないことも周りは知っていた。
 しかし、僕は今日の田中さんからの飲みの誘いの理由を完全に理解した。

「それにしても、お前なんで彼女つくんないの? まぁ、俺の飲みの誘い断らない奴は、貴重だから嬉しいけどさ」
「うーん、分かんないですね。タイミングですかね」
 僕は小鉢の長芋に箸を付けながら、はぐらかした。
「そんな事言ってると、お前も30前になってんだから、いつのまにか遅れるぞ」
「――40歳独身の方に、言われたくないですけどね」
「それ言うなやぁ」
 ……このやり取りは、彼と飲んでる時のいつもの定番だ。

 それから少し経ってから、安田と吉宗さんも合流し、いつものようにしばらく上司の陰口やら会社内の噂話(特に総務部の話)で盛り上がってから、場所を変えようと店を出た。すると、突然安田が用事があるから帰ると言い出した。

「あやしいな。やすだぁ、お前ひょっとして……」

 田中さんは、背の高い安田の正面に立つと、顔を下から睨んだ形になる。
「な、何にもありませんよ」
 安田は、明らかに動揺していた。
「俺たち、アローン会から抜けようとしてんじゃないのか?」
「いっ……いや、始めからそんな会には入ってないですよ」
「――まぁ、いいじゃないですか。今日は帰らせてあげましょうよ。じゃあな、安田」
 いつものように、吉宗さんが助け船をだすと「ちぇっ、つまらん奴だ」と言って、田中さんは毒づいた。
 そして安田は帰り、残された三人で最終電車の時間までこの日は飲んだ。


 ちょっと今日は飲みすぎたな、そう思いながら、僕は大岡山の駅からフラフラしながら、10分程かけてアパートに着くと、ちょうど以前は近藤が住んでいた部屋から大学生らしき男女が出てきた。僕は軽くお辞儀をすると、部屋の鍵を開けて中に入る。

 リビングの中央に座って携帯電話のチェックをしていると、着信履歴が1件入っていたので、何気なしに確認をした。

「もしもし後藤加奈です。ごめんない、急な電話で……」

 電話の向こうから突然聞こえてきた女性の声に、僕は酔いが一気に冷めた。そして、気持ちを落ち着かせようと冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して一口飲む。
 そして、加奈に電話をしようと、履歴から発信ボタンに手がいきかけたが、時計を見ると0時を回っていた。さすがにこの時間は迷惑だな、と思い直して翌朝電話をすることにした。

 翌朝、二日酔いで少し頭の重さを感じながら、加奈に電話を入れた。
「橋本ですが……」
「――あっ、ごめんなさい。昨日は突然電話して」
「こっちもごねんね、手紙までもらってたのに」
「良いのよ、哲也さんも忙しいだろうから。でも1月は、駅で久しぶりに会って驚いたわ」
「ほんと、加奈ちゃん大人びてびっくりしたよ」
「もう社会人だよ、私」
「まあ、そうだよね」

 そして、少しの沈黙の後に加奈が口を開いた。僕はこのタイミングで幸恵の亡くなった原因を訊こうとしたが、躊躇してしまった。
「それでね、一つお願いがあるの」
「うん、どうしたの?」
「実はお姉ちゃんが亡くなる直前まで使ってたスマホがあって」
「多分、俺といた時に使ってたやつだよね」
「うん、こっちで変えてないからそうだと思うよ」

「それでね、スマホで日記をつけてたみたいなの」
「日記?」
「うん、スマホのアプリに『Diary』ってのがあってね。私一度、お姉ちゃんがやってるとこ覗いちゃった事があったの」
「そっか」
「お母さんとも話して、見てみようかと思ったんだけど、暗証番号を入れないと開けないアプリだったの。それで、哲也さんなら分かるんじゃないかなって」
「どうだろうね」
「もし開ければ、日記の内容を哲也さんには見てほしいなと思って」
「え……っ、俺だけに?」
「うん、そう」 

「……分かった。一度幸恵のお墓参りもしたいなって思ってたんだ。今度新潟に行くから、その時に寄るよ」
「えっ、いいの? 何か無理言っちゃったみたいで」
「大丈夫だよ。色々と訊きたい事もあるから、5月になってから行こうと思うけどいい? 4月はちょっと忙しくて」
「うん、いいよ。じゃあ来た時にスマホ渡すから、日時決まったら連絡してね」
「わかった、じゃあね」
「うん、じゃあ」

 そういえば、昔スマホで日記をつけてるって言ってたな……。結局いつか見せてあげるって言われてたけど、見る機会がなく別れてしまった。
 暗証番号か……、昔幸恵との会話の中で、忘れてしまうから決まった数字の組み合わせにしてると話していたのが記憶に残っている。

 決まった数字とは、僕と幸恵の誕生日だった。

 しかし、それは新しい彼氏の誕生日の数字に変わっているだろうと思った。その時は、その彼氏の誕生日を当てはめれば良いだけだ。

 この時の僕はまだ、例え幸恵の日記を読んでも、もう取り乱すことはないだろうと思っていた。もう5年という年月が経過しているのだから。
 それにしても、加奈はなぜ幸恵と最後に付き合っていた彼氏ではなく僕に頼むのだろうか……。それだけが気になっていた。

 とにかく一度新潟に行ってみなければと、僕は思った。
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