第9話 帰り道

文字数 2,122文字

 幸恵と上野にある国際こども図書館へと向かう間、彼女は事前に調べてきた事を僕に説明してくれた。
 それによると、この国際こども図書館は元々あった帝国図書館を改修したもので、2000年に日本初の児童書専門の国立図書館として設立されたとの事だった。

 上野の森を抜けて図書館に着くと、大学の建築学科で学んでいる僕としては、まず建物に興味を持った。幸恵とレンガ棟の外壁に沿って歩いていくと、何となく新旧の違いがある事に気づいて、僕はその写真を撮ったり眺めてたりしていたが、館内に入る事を待ち切れなくなった幸恵に「早く行こうよ」と誘われ、袖を引っ張られながら、中に入っていった。
 幸恵に袖を引っ張られている間、僕は今まで経験したことのない幸せな気持ちになった。

 しかし、図書館の中に入ると、彼女は先にどんどんと行ってしまい、児童本や紙芝居に夢中になっていた。
「ねぇねぇ、私がこの絵本読んでみるから、子供の気持ちで聞いてみて」
 1万冊の児童書がある『子どもの部屋』に入ると、幸恵に言われた。

 そして、部屋の中央の読み聞かせ用の大型円形机に一緒に座ると、僕の隣で彼女は持ってきた絵本を読み始めた。この時、始めは周りの視線が気になったが、次第に子供に話すような優しい口調で読む幸恵の絵本に、とても心地良さを感じた。

 絵本を読み終わると、幸恵はそれを書架に戻しながら「小学校の頃、絵本とか紙芝居を作るのが好きだったの」と言った。
「へえ……」
「地元の小学生の絵本コンクールで、賞を貰った事もあるのよ」
「すごいね」
「それ以来、賞なんて貰ったことないけどね」

 そして、二人でレンガ棟の3階のホールを歩いていくと、南側の窓にガラスが張り出した場所があった。
「あっ、この張り出した窓から、外壁の石のレリーフ彫刻を触れるみたいだよ」
 僕がそう言うと「え……っ、触りたい」と言って、幸恵は嬉しそうに一緒に外壁に付いたメダリオンのレリーフ彫刻に触れた。
 それから、彼女は本や子供向けの遊具を、僕は明治時代からある大階段の手摺や大きなシャンデリアを見ながら、館内を見て回った。


 そしてこの後、二人にとってこの上野の国際こども図書館は、大のお気に入りの場所となって何度も訪れることになる。そして、僕はこの国際こども図書館の改修についての研究・調査を、大学4年生の時の卒業課題とするのである。

 図書館を出ると、すでに太陽が沈み始めていた。
「楽しかったね」
 幸恵は、満足そうな様子で僕に言った。
「うん、いい場所だったね」
「これで明日、学校の先生にも自慢できるわ」
 幸恵は嬉しそうに言い、僕はそんな彼女を見ながら笑顔で頷いた。

「さて……、そろそろ帰ろうか」
 僕がそう言うと、彼女は嬉しそうな顔から寂しげな顔に変わって「うん、そうだね」と言って頷いた。

 始めの予定では、この日は上野駅で別れて帰るつもりだったが、王子駅まで行くことにした。そして王子駅に着いたのだが、結局幸恵のアパートまで送っていくことにした。

 途中、音無親水公園まで来ると幸恵が言った。
「ここまででいいよ、橋本君。疲れてるでしょ」
「うん、いや……、ちょっと公園で話さない?」
 この頃になると、僕にも少し積極性が出始めていた。
「あ……っ、うん」
 そして、僕と幸恵はこの間と同じベンチに座った。
「楽しかったね……」
 幸恵がぽつりと言った。
「うん、すごく楽しかった」

「あ……っ、この花。私この花が大好きなの。この公園に咲いてたんだ」
「なんて花なの?」
「椿だよ」
「へえ、これが椿か」
「新潟県の県花は椿の一種の雪椿なの。だから、近所の野原に行くとたくさん咲いてたんだ」
「そうなんだ」
「でも、この季節に咲く椿って珍しいな。どんな種だろ? 今度調べよ」
 そう言うと、幸恵は公園の端っこに咲いていた椿の写真をスマートフォンで撮った。
「さて、じゃあ行こっか」
「うん」

 そして、僕たちは坂道を二人で歩いた。もう、道に映る影も薄くなり始めていた。僕はこの時、彼女と少しでも長くいたいという思いから、ゆっくりと歩いた。この時の彼女の気持ちはどうだったのだろうか、僕と歩幅を合わせるようにゆっくりと歩いていた。

 アパートに着いた頃には、辺りは暗くなっていた。
「じゃあ、ここで。今日はありがとう」
「こちらこそ。とっても楽しかったよ、気をつけて帰ってね」
 明かりの点いたエントランスの扉の前に立つと、僕は笑顔で挨拶をしてから幸恵に背を向けて歩き出した。
 ……数歩歩いてから、ふと立ち止まって後ろを向くと、幸恵はまだ僕の背中を見つめていた。この時の彼女の顔は、影になっていて見えなかったが、なんとなく寂しげに感じた。

 そして僕は、彼女に勇気を出して尋ねた。
「また遊びに行ってくれる? 今度は、始めから二人きりで」

「え……っ。うーん、どうしよっかな?」

「だめ?」

「うそ……。いいよ」
 最後に彼女は白い歯を見せ、優しい声で僕に言った。

 この日の出来事を、後に幸恵から聞いたことがある。彼女も、今日のデートが終わってしまうという寂しさと、また僕と会えるのかという不安を感じて帰りの坂道を歩いていたらしい。

 最後の僕の言葉に、本当は涙が出るくらい嬉しかったそうだ。
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