第13話 学生生活

文字数 3,820文字

 僕と幸恵との付き合い始めてから3か月ほどすると、お互いのアパートを行き来しながら半同棲生活のようになっていた。そして、この頃になると近藤が僕の家に入り浸る事も当然なくなった。
 

 2007年7月、大学2年生になり、幸恵と付き合ってから間もなく1年になろうかという時期に、僕は自転車に乗っている時に後ろから車に轢かれて救急車で運ばれた。そして、左腕の骨折と頭に5センチ程の傷を負って10日間程の入院生活となった。
 しかし、不幸中の幸いというか大学の前期試験も終わり、夏休みに入っていたので学業に影響はなかった。

 事故をした日の夕方には、実家の名古屋から母がやってきて、入院の手続きとか色々準備をしてくれた。病院の検査が終わり、僕が無事と分かると母は僕のベッドの横でグチグチと説教を始めていた。
 そうして、夜になると大学の前期試験が終わった幸恵がやってきた。彼女の試験が終わるタイミングでメールで事故を知らせ、重傷ではないから大丈夫と送った。
 母には随分前から幸恵の存在は知らせていたので、彼女が来た時も特に驚くことはなかった。

「幸恵さんごめんなさいね、試験の忙しい時期に。あ……っ、私は哲也の母です」
「哲也さんとお付き合いさせていただいております後藤幸恵と申します」
「哲也からお話はかねがね」
 母は優しい笑顔を幸恵に向けながらお辞儀をした。
「え……っ?」
「哲也からメールで写真も見せてもらってるのよ」
「――こらっ、余計な事言うなてぇ」
 この時、僕は焦って名古屋弁が出てしまった。

 しかし、僕の言葉も無視して母は話を続けた。
「だから、初めてって感じはしないのよ。それにしても、写真も可愛いかったけど、実物はもっと可愛いじゃない。目もパチクリして……。ねっ、哲也」
「いえいえ」
 幸恵は顔の前で手を横に振り、恥ずかしそうにした。

「幸恵さんは試験は大丈夫だったの?」
 母はお構いなしにどんどんと幸恵に話しかける。母は僕と真逆でよくしゃべる人だ。
「今日で終わりました。すいません、遅くなっちゃって」
 幸恵は申し訳なさそうに言った。
「いいのよ、いいのよ。たいしたことないって分かってたから」
 母はややオーバーアクションで横に手を振りながら話すと、自分の腕時計に目をやった。
「あっ、そろそろ2人きりになりたいわね。ごめんね、おじゃま虫で」
 母はそう言って、僕に向けて威嚇するように目を大きくした。

「じゃあ、今日は哲也の家に泊まって明日の朝、顔出したらもう帰るね。明後日から友達とバス旅行なの。よかったわ、バス旅行は関東じゃなくて関西方面で」
 そして、幸恵の方を振り返って言った。
「幸恵さんごめんね。後はよろしく頼みますね」
「はい。任せといてください」
 幸恵は胸の前で小さくこぶしを作ってみせた。
「まぁなんて頼もしい子。……末永くよろしくお願いします」
 母は幸恵の両手を握って言った。
「ありがとうね、母さん」
 僕は怪我をしてない右手を上げて手を振った。
「はい、はい」
 そうして、母は僕のアパートへ向かって出て行った。


 元気な(騒がしい)母がいなくなり、一気に静かな空間になった病室に幸恵と2人きりになった。
 ――と言っても相部屋の為、カーテンの向こうには他の患者さんが3人いるので小声で話をした。
「騒がしいだろ? 俺の母親」
「優しいお母さんじゃん」
「……ごめんな、心配かけて」
 僕がそう言うと、幸恵は首を横に振った。
「ううん。良かった無事で」
 二人きりになって安心したのか、幸恵は僕に潤んだ目を向けながら言った。

 それから、幸恵は丸いパイプ椅子に座り、僕の骨折してない右手に優しく手を触れてそれからギュッと握りしめた。その彼女の手のぬくもりが僕を安心させた。
 事故のショックというのは知らず知らずに、僕の心の中に潜んでいたのだろう。それから、僕たちは手を握り合ったまま眠ってしまった。
 
 翌朝早くに母がやってきて、もう一度幸恵に僕の看病を頼んでから名古屋に帰って行った。幸恵も昨晩は着替えもしてないので、一旦家に帰っていった。そして、いろいろと準備をしてから昼過ぎに病院に戻ってきた。

「あれ? どうしたのその花」
「うん、これ覚えてない?」
 幸恵はそう言うと、持ってきた花瓶に赤い花を挿した。
「あ……っ、確か椿だね、それ」
「うん、これは雪椿なの。造花で私が作ったんだよ」
「へえ、すごいね。やっぱ幸恵は器用だわ」
「なんか、この花が守ってくれる気がしてね」

 それからは、幸恵は毎日、夜になって僕が眠りにつくのを見届けるまで病院にいて、翌朝は早くから病院に来てくれた。
 そして10日が経ち、僕は退院してアパートへ帰った。幸恵も大学の夏休みに入っていたが、帰省もせずに不自由な僕をずっと看病してくれていた。その時の僕は十分に彼女の愛情を感じることが出来たので、不便さを感じる事よりもとても幸せだった。


 2008年4月、僕は大学生活も3年目になり、幸恵は短大を卒業して東京都北区の保育園の保育士になっていた。この頃には彼女は今まで住んでいた王子のアパートから同じ王子にある、区の職員寮に引っ越しをした。

 僕は建築学科のゼミも始まり、設計課題も一気に増えてきたので研究室に籠ってしまうことも多くなっていたのだが、お互い忙しい中でも交際は順調に続いていた。ただ幸恵が寮に入ってからは、さすがに泊りで彼女の家に行くことはなくなり、次第に僕の家で泊まる事も少なくなっていった。


 ある日、幸恵が先に社会人になり、お互いの生活環境の変化が原因で、一度だけ彼女に怒ってしまったことがあった。
 それは、4月26日という二人が出会った記念日の出来事であった。記念日の中では一番大切な日だと幸恵は言っていた。僕自身は、付き合い始めた7月26日の方が一番大切な記念日としては相応しいと思っていたが、幸恵は、この日僕と初めて出会った瞬間に、何か不思議な運命を感じたそうだ。 

 この日は土曜日で、渋谷で買い物をしてから、レストランで食事をしようと約束をしていた。僕はフランス料理の店を予約していたのだが、当日になって幸恵から仕事で来れないと電話が入った。
 理由としては、保育園の園長先生に頼まれた急な仕事のためであった。今になって思えば社会人としては当然のことであったが、当時まだ大学生だった僕は理解できずに、強い口調で言ってしまった。
「ごめんね」
 電話の向こうで幸恵は申し訳なさそうに話している。
「せっかく……、まぁいいや、分かった。じゃあ」
 この時、僕は怒ったように電話を切ってしまった。

 実は、僕がこうした態度をとったのには伏線があった。この頃、幸恵が保育園の先輩の誘いで、区の職員同士のテニスサークルに入ってから、会う時間が減っていた。他の男性との関係を疑ったりした訳ではないが、――心の中では、そういう気持ちもあったのだが、寂しさを感じていた。

 電話を切った後、少し時間をおいて冷静になると、自分の態度を反省して謝ろうと思い電話をした。しかしその時、彼女は園長先生と打ち合わせをしていたらしく電話に出る事が出来なかったらしい。そういった行き違いもあって、この日はギクシャクしたまま終わろうとしていた。

 夜になっても幸恵からの電話はなく、僕は家の中でモヤモヤした気持ちになりながらゼミの提出課題の作成をしていると、携帯電話が鳴った。
「はい」
「……哲也君」
「幸恵ごめんね、昼間は」
「ううん、私もごめんね」
「今、どこ?」
 電話の向こうから、聞き覚えのある駅のアナウンスの音が聞こえてきたので、僕は幸恵に訊いた。
「大岡山……」
 僕が時計を見ると23時を回っていた。
「駅にいるの? 今から行くから待ってて」
 僕は急いで服を着替え、駅に向かって走った。

 すると、彼女は駅を出て僕の家に向かった先にある、あの時の薄暗い街灯の下に立っていた。
「この場所なんだか分かる?」
 幸恵は僕が歩いてくるのを見つめながら、話しかけてきた。
「うん、覚えてるよ」
「あれから私たち、何回ここを歩いたんだろうね」
 幸恵はぽつりと言った。
「うん、そうだね」

「あの時さ、哲也君が私に告白してくれた時、私がなんて言ったか覚えてる?」
「うん、覚えてる」
 幸恵は僕に背を向けてから少し俯いた。そして僕に「言ってみて」と言った。
「だめだと思いますか? って言ったよね」
「うん、そう」
 そう言って、彼女は僕の方に振り返った。
「その意味はね、私の哲也君への想いがなんで伝わらないのかな? って、あの時ずっと悩んでたの」

 僕は幸恵が発する言葉の意味を、今度はしっかり理解しようと話を聞いていた。
「今日こっちに向かってくる電車の中でも、ずっとこの事を考えてた。私の気持ちって、あの時から何にも変わってないのにな、って」
「ごめん……」
「――違う、違うのよ。哲也君、そういうことじゃないの。ただ、あれから2年経って私も哲也君の事を分かってきた事いっぱいあるからね。もう少し自分に自信を持ってもいいんじゃないかなって思ったの」
 そう言って幸恵は優しく微笑んだ。
「うん、分かったよ」
 僕も微笑みながら頷いた。

「ずっと……愛してんだよ、哲也君のこと」
 幸恵はそう言って僕を見つめた。
「ありがとう、俺も愛してる」
 暗闇の中に照らされた街灯の下で僕たちはキスをした。

 そして、僕は2年前に言えなかった『ありがとう』を、この時ようやく幸恵に言う事が出来た。




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