第16話 別れ

文字数 2,979文字

 冷たい風が吹き始める11月になると、僕は大学の課題作成の他に、卒業に向けて色々とお金が必要になるので、集中的にアルバイトを始めていた。幸恵も保育園の行事が重なり忙しくなったので、お互いに会える時間は少なくなっていた。

 そんなある日の夜、僕が体調を崩したので、幸恵が食料を買い込んで僕の家にやってきた。
「どう? 熱は下がった?」
「うん……、あんまり変わんない」
 僕は辛そうに玄関の扉を開けると、布団の上に座った。
「いいよ、哲也君。寝てなよ」
「ありがとう……」

 幸恵は、持ってきた買い物袋から食材を取り出すと、うどんを茹でてネギを切り始めた。
「風邪引いてるのに夜遅くまで残業して……哲也君は真面目過ぎるよ」
「幸恵に言われたくないよ。先月無理しすぎて、ずっと体調悪かったじゃん」
「はは、まあそうだね。ところで来週新潟に帰るから、また野沢菜漬け買ってくるね」
「珍しいね、こんな時期に帰るなんて」
「うん……」

 この日、幸恵はうどんと雑炊を僕に食べさせてから一通りの家事を済ますと、最終電車に乗って自分のアパートへと帰っていった。

 それからしばらくして、彼女が前から行きたいと言っていた12月7日にパシフィコ横浜で行われる絵本のイベントを見に行こうと誘いの電話を入れた。
「パシフィコでやる絵本のイベントに行かない?」
「あ……っ、そっか。うん、行く」
「じゃあ予定決めとくね」
「ありがとう」
 この日の幸恵の電話の声は、少し元気がなかった。

 そしてイベントに行く前日、彼女から電話が入った。
「どうしたの?」
「う……うん。悪いけど、明日はやめとく。ちょっと用事が出来ちゃって」
「そ、そっか……」 
「――ごめん、本当にごめんね」
 僕の落胆した声を聞いて、幸恵は少し早口で謝ると、そのまま沈黙した。
「いや……、全然いいよ、俺も課題あるし」
 僕は、幸恵の様子に少し慌てた。
「本当にごめんね」
「うん、いいよ。でも……、なんか悩み事があれば聞くから、……そっちに行こうか?」
「ありがとう。でも大丈夫、哲也君は課題を頑張って卒業しっかりしてよね」
「うん、分かったよ。まぁ、毎年やってるイベントだし、来年また行こうね。でも、あんまり仕事無理すんなよ、体壊しちゃどうしようもないよ」
「うん。来年いこうね」


 2009年12月24日、幸恵と付き合い始めてから4回目のクリスマスイブの夜だった。この時期になると保育園はいろいろなイベントの準備があり、僕もバイトと大学の課題で忙しかったのだが、せめて駅近くのファミリーレストランで食事でもしようと幸恵を誘い、夕方に王子駅で待ち合わせをした。

 この時期は、どこもクリスマスのイルミネーションが綺麗で、街中を歩くだけでも十分に雰囲気を味わうことができた。ただ、僕たち二人は特に着飾る訳でもなく、普段着にコートを羽織っただけの恰好で街中を歩いていた。

「雪降るって天気予報で言ってたから、ホワイトクリスマスかなって思ったけど、晴れたね」
「そうだね」
 この時、僕が話しかけても幸恵はどこかぼんやりとした様子だった。
「予約いっぱいだったから、今日はファミレスでごめんな」
「うん、いいよ」
「どうしたの?」
 僕は心配そうに幸恵の顔を覗き込んだ。

「哲也君、あの……」

 一瞬、彼女は真剣な眼差しで、何か僕に話を切り出そうとした。
「ん? どうしたの?」
「――いや、なんでもない」
 そう言うと、彼女は僕から目を逸らして首を小さく横に振った。

「今日はこれからどうする? まだ時間あるの?」
 僕は食事を済ませると、店を出た所で幸恵に訊いた。
「なんか今日仕事で疲れちゃって……、もう帰るね」
「うん、わかった。じゃあ俺も帰って課題やるよ」

 この時、僕にもう少し余裕があれば良かったのだろうか。そして、幸恵とゆっくり話をすれば何かが変わっていたのだろうか。
 今思えば、明らかにこの時の彼女は僕に何かを話そうとしていた。

 クリスマスのイルミネーションの光の関係なのか、帰り際に見た彼女の顔は元々の色白の顔がまるで雪のように真っ白に感じた。

「じゃあね、哲也君」
「うん、じゃあ……また」

 そして、この日はそのまま王子駅で別れた。


 2010年1月5日、この日は朝から雨だった。世間は正月も終わり、少し落ち着いてきた頃だった。僕は課題作成の為、年末も正月も特に関係なく、パソコンに向かっていた。ただ、幸恵の誕生日が近いので、昨日は彼女の好きな花柄のスマホケースをプレゼント用に買いに行った。

 そして、昼過ぎに突然幸恵が訪ねてきた。そのこと自体、以前は当たり前の事だったので特に驚きでもなかった。
 部屋の中で、インターホンの甲高い音が鳴り響いた。

 僕は始め、昨日の晩に母親に電話で言われていた、食べ切れなかった正月の餅と食材を詰め合わせたダンボール箱の宅配便が届いたと思い、何気なしに扉に向かった。
「はーい」

「……私」

 扉の向こうから聞こえる声は、幸恵だった。
「あれ? 鍵持ってなかったの? 勝手に開けて入ってこればいいのに」
 僕が、扉を開けながら言うと「……そうだね」と言って幸恵は部屋の中に入った。

 しかし、彼女は玄関に立ったまま俯いている。
「どうしたの? 入ってこれば?」
「――哲也君」
 突然、幸恵は何かを決意したように僕の名を呼んだ。
「うん、なに?」
「ごめんね……」
 幸恵が顔を上げた時、目には涙を溜めていた。
「――何? なんで急に謝ってるの?」
「あの……」
 そして、幸恵は少し沈黙してから、一言一言を絞り出すように言った。

「別れて……ほしい」

「え……っ」

 この言葉を、幸恵の口から聞いた瞬間の衝撃は、今までの人生で味わったことのないものだった。この時まで別れるなんてことは全く考えてもみなかったし、彼女を疑ってもいなかった。確かに、最近会っても口数が少なくて様子もおかしかったけど、仕事の疲れだと言う彼女の言葉を信じて、一時的なものだと思っていた。


 その後、僕は彼女に何をしゃべったのかあまり覚えていない。もう少し落ち着いてゆっくり考えようみたいな、ありきたりな事を言ったのだと思う。

 ただ、理由を訊いたのだけはしっかり覚えていた。

「どうして?」
「地元に好きな人が出来たの。それで……今日、新潟へ帰る」

 その後の彼女は、ただ泣いてごめんなさいを繰り返すばかりだった。

 幸恵の帰った玄関に立ったままの僕は、崖の先端に突っ立ったような感覚に襲われ、自分の大学生活の全てが無意味なものに感じられていた。

 それから、僕は全身の力が抜けてしまったような放心状態からなかなか立ち直れず、大学の卒業課題や卒業試験にも手がつけられなくなった。それでも、近藤や永田の助けもあり、何とか留年は免れ、大学を卒業することが出来た。

 そして、僕は大学を卒業して社会人として今の竹岡建設に入社した。傷はすごく深かったけどいろいろな事が目まぐるしく変わる時期だったので、時間が解決してくれた感じだった。それと……、僕にも人並みな理性があったのが良かったのかもしれない。

 途中一度だけ、幸恵が住んでいた社員寮に行き、同じ寮に住んでいた林さんに彼女の事を尋ねた。林さんによると、幸恵は12月で保育園を辞めて、1月の初めには実家に帰ってしまったとのことだった。
 最後は凄く慌てた感じで、挨拶もそこそこに帰っていったらしい。
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