第7話 大事な一歩

文字数 3,058文字

 この日、僕は駒込に住む叔父の家に引っ越しの手伝いに来ていた。叔父が、今迄住んでいた家の隣に新居を建てたのだが、今日中に引っ越しを終わらせないと明日から古い家の建て壊しが始まってしまうという理由からだった。

「悪いね、哲也君」
「いえいえ、いいですよ。この程度」
「今日中に、荷物の引っ越しを終わらせなきゃいけないっていうのに、腰痛めちゃってね。もっと早くに片付けとけば良かったよ」
 叔父は、腰をさすりながら申し訳なさそうに話した。
 しかし、最近出費の多かった僕にとってはアルバイト代が貰えるのでありがたかった。

「今日はありがとうね、哲也君」
 荷物の引っ越しがあらかた終わると、叔父からお礼を言われて封筒を手渡たされた。
「えっ! こんなにいいんですか?」
 封筒に入っている1万円札を見た僕は、嬉しさの余り声を上げた。
「貰っといて。哲也君が来てくれなかったらどうなっていたか。それに引っ越し業者に頼んだら、もっとかかってたよ」
「ありがとうございます。叔父さん……、また何かあったら言ってくださいね」
「あっはは、うん、またよろしくね」
 叔父は笑いながらそう言うと、前かがみになりながら僕を玄関先まで見送ってくれた。

 叔父の家を出ると、僕は駒込駅から南北線に乗り、乗り換えの王子駅で降りてホームに立っていた。
 すると、トントンと肩を叩かれて僕は振り返った。
「こんにちは」
「あ……っ、えっと」
「後藤です。橋本さん、こないだはありがとう」
 後ろに立っていたのは幸恵だった。隣には、見知らぬ男性がいた。

 僕はこの時、幸恵の彼氏かと思い、どう接してよいか途惑っていた。
「――あっ、お兄ちゃんなの」
 僕の様子を察した幸恵は、すぐに紹介してくれた。
「あ……っ、どうもこんにちは」
 妙な恥ずかしさを感じながら挨拶すると、幸恵の兄は僕に微笑んで軽くお辞儀をした。

「じゃあ、俺はもう行くわ。これから友達と約束があるから。もう、荷物いいよな」
 そう言うと、幸恵の兄は僕に軽く会釈をして足早に去っていってしまった。

「あ……っ、ちょっとお兄ちゃ……」

 幸恵は、兄の素早い動きに呆気にとられながら僕を見て言った。
「なんか勘違いしてたみたいだな」
「勘違い? あ……っ、そっか」
「今日、買い物に付き合ってくれてたの。明日、大学の実習で使う小道具をたくさん買わなくちゃいけなかったから」
「なるほど」
「気を使っていなくなっちゃったのはいいけど、お兄ちゃん荷物置いていっちゃったわ。まぁ、しょうがないか」
「家の近くまで持っていこうか? 用事済んでるから、俺はもう帰るだけだし」
「えっ、いいの? 一人じゃちょっと重いかなって思ってたの」
 そう言って、彼女の表情は瞬時に明るくなった。
 そして、幸恵の荷物を持って王子駅の北口を出た。この時、空はどんよりとした雲で覆われて今にも雨が降りそうになっていた。

 彼女のアパートまでの道中、音無親水公園を超えたあたりから、長い坂道になっている。幸恵は坂道の手前で立ち止まると、突然怒り出した。
「本当は荷物を持ってくれる代わりが来たと思って逃げたのよ。昔からずる賢いの。あれでよく警察官になれるわね」
「いいよ、代わりが来たのは事実なんだから」
 僕が慰めると、幸恵は表情を緩めた。
「ほんとごめんね、助かったわ。ちょっとここの公園で休憩しない? これから上るこの坂道は根性いるのよ」
「うん、そうだね」
 僕もこの時、坂道を見ながら女性一人では確かに荷物を持ってこれは厳しいなと思った。

 そうして、公園のベンチに荷物を置くと幸恵は僕の正面に立って言った。
「改めまして、私は後藤幸恵です。新潟から先月来ました。橋本さんは名古屋の人で、昔南魚沼市に住んでたんだよね。橋本さんは、私の事余り覚えてないみたいだけど」
「あ……、いや」
「ふふふ、冗談よ」
 この時、僕は彼女が笑った時、二重の目の形が綺麗な三日月型になっている事に気づいた。僕が好きな女性の顔の特徴だった。

 しばらく話をしていると、ぽつぽつと雨が降り始めた。
「あ……っ、そろそろ行こっか。ごめんね、付き合わせて」
「いや、いいよ」
 そして公園を出ると、僕と幸恵は坂道を上り始めた。
「でも、すごい偶然ね。私あの人混みの中で、橋本君見つけちゃうんだから」
「今日は駒込に用事があってさ、それが終わって帰る途中だったんだ」
「そうだったのね。学校は休みだったの?」
「うん、休講。でも、一つはサボり」
 僕がそう言って口元に笑みを浮かべると、あらっ、と言って幸恵は笑った。

「橋本君はアルバイトとかやっているの? 私もそろそろ始めようかと思って」
「うん、今月から始めたんだ。上野のアメ横にある靴屋さんで働いてる」
「ヘえ……」
「名古屋にも、大須って場所にアメ横があってね、高校の頃同じチェーン店の靴屋さんの倉庫でバイトしてたから、あっちの店長に紹介してもらったんだ」
「そっか」

 この時僕は、今日の彼女との再会に何か運命的なものを感じ、好意を持ち始めていた。幸恵の横顔を時折見ながらそんなことを考えていると、彼女が急に僕の方を振り返ったので、慌てて目を逸らした。
「――そういえば、上野って私まだ行ったことないな」
「そ、そうなんだ。もし良ければ今度行く? 案内するよ」

 この時、僕は人生で初めて女性をデートに誘った。しかも、割と自然に言えた。
「上野動物園でパンダを見てもいいし、アメ横で買い物でも……」
「あっ、パンダ見たいな。私、まだ見たことないの」
「じゃあ、パンダを見に行こうか」

 僕は思わぬ展開に、内心小躍りするような気持ちになっていた。
「うん、でも二人で行くの?」
 しかし、幸恵にそう訊かれた時、僕は急に弱気になった。
「どうしようか。永田でも誘う?」
「じゃあ、こっちは絵里にでも訊いてみるかな。じゃあ、後で私のメアド教えるね」

 それから僕たちは、小雨の降る坂道をしばらく歩き幸恵のアパートに到着した。女性が好みそうな白いお城をイメージした3階建ての洋風の建物だ。しばらくすると、僕はこのアパートに何度も通うことになる。

 女性専用のアパートなので、入り口で暗証番号を打たないと扉が開かないようになっていたり、防犯カメラも何ヵ所か設置されている。彼女の部屋は1階の一番奥だった。
 アパートの入り口まで行くと、扉を開けたところで幸恵に荷物を手渡した。
「今日はありがとう」
 荷物を受け取ると幸恵は笑顔で僕を見た。その瞬間、僕は彼女の三日月型の目にときめきを覚えた。

「う、うん、じゃあ」
 僕は手を挙げて別れの挨拶をすると、背を向けて歩き出そうとした。
「あ……っ」
「ん?」
 僕は幸恵の声で振り返った。
「ちょっと寄ってく? 雨やむかもだし」
「え……っ?」
「ご、ごめん、うそうそ。じゃあ今日はありがとう」
「う、うん。じゃあ上野の件はメールするね」
 僕が幸恵のアパートから離れると、彼女は僕が見えなくなるまで手を振って見送ってくれていた。

 そして僕はこの時、自分の中の幸恵の存在が、少しずつ大きくなっている事に気づいていた。今日、公園で話してから坂道を二人で歩いた時、僕はもう少し幸恵と一緒にいたいと思った。
 そして、彼女の部屋に誘われた時、僕は早鐘を打ったように心臓がドキドキした。
(もちろん、高校を卒業したばかりの僕は、女性の部屋に入るという事は、ひょっとしたらそういう展開になることも期待してしまったのだが)
 
 そして帰り道、雨で濡れた坂を歩きながら、僕は自分にとってすごく大事な一歩を踏み出したような気がしていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み