第15話 変調

文字数 2,275文字

 2009年4月、僕は大学4年生になり、大手の建築会社を中心に就職活動を始めていた。名古屋へは帰る気はなかったので、小さいながらも建築会社を営み、将来は僕に継がせようと考えていた父親とは一時期、口も利かないほどにもめた。

 この頃の僕は、このまま大学を卒業して、数年したら幸恵と結婚して東京に住むつもりだった。幸恵も保育士になって1年が経ち、仕事にも慣れてきて順調そうだった。

 9月に入ると、就職活動をしていた竹岡建設から内定通知書が届き、僕は幸恵に知らせようと電話した。
「就職決まったよ。大手ゼネコンの竹岡建設」
「あーそう、よかったじゃん。テレビでもたまにコマーシャルに出ている会社だよね」
 電話の声でも、幸恵はかなり喜んでくれているようだった。
「それでさ、今日の夜外食でもしない?」
「うん、就職内定祝いだね。今日は大丈夫だよ、どこ行く?」
「そうだな……、池袋西口のいつものイタリア料理でどう? あのチーズのおいしい店、確かこないだ行った時に一品サービスチケットもらってたし」
「イルオオスね、うん、いいよ」
「6時でいい? 予約入れておく」
「うん、それなら間に合うと思う」
「じゃあ、西口のいつものとこで」
 
 そして、僕は池袋西口の待ち合わせ場所に先に着いて待っていた。しかし、いつもは時間通りに来る幸恵が今日は珍しく遅刻していた。
 しばらくすると、背後から幸恵の声がした。
「……お待たせ、ごめんね」
 振り返ると幸恵が立っていた。しかし、今日はいつもと彼女の様子は違っていた。
 僕は異変に直ぐに気付いて幸恵に尋ねた。

「どうしたの? 大丈夫?」
「ここに来る途中で少しふらふらっとしてね。ベンチに座ってたの」
 この時の幸恵は、普段より少し青白い顔をしていた。
「大丈夫か? 少し顔も青白いよ、汗もかいてるし」
「うん、多分大丈夫。イタリア料理食べれば元気になるよ」
 彼女は少し無理をしている感じがした。
「今日は帰ろうか、幸恵の家まで送るよ」と言って、僕は幸恵の肩に手を回した。
「――大丈夫だよ、行こう」
 結局、幸恵に逆に腕を引っ張られながらお店に入った。

  イタリアの大衆食堂をイメージした店内は開放的で、この辺りの料理店からしたら珍しくテーブルの間隔も広くて、居心地が良い感じだった。何気なく入った日から二人のお気に入りの店になった。
 店に入ると、店員に入り口に近い窓際の二人用のテーブル席を勧められたのでそこに座り、幸恵の為に水を先に注文した。

 そして、店員が持ってきた水で鞄から取り出した薬を飲むと、幸恵も幾分落ち着いたようだった。
「なんか薬飲んでるの?」
「うん、風邪薬。最近、秋のお遊戯会の準備とで夜遅いから治りが悪くて……。」
「そっか、あんまり無理するなよ」
「はい、分かりました」
 幸恵はそう言って、おどけたように手を上げた。

 そして僕は、店員を呼んで、幸恵の好きな魚介料理がメインのセットに一品追加のサービスチケットはイタリアンオムレツを頼んだ。ワインは今日はやめておいた。


「――そうだ、哲也君」
 幸恵は、思い出したように両手を合わせてから、鞄を手元に寄せた。
「うん?」
「就職おめでとう」
 幸恵はそう言うと、鞄の中からプレゼントを出して僕に手渡した。
「ありがとう、開けていい?」
「うん、どうぞ」
 箱を開けると、濃い青にグレーの斜めのラインが入ったブランド物のネクタイで、値段もそこそこしそうな物だった。
「これからいるでしょ」
「いいね、お洒落だわ」
 僕がそう言って胸の前で着けて見せると、幸恵は満足したように頷いた。

「そういえば、お父さんは大丈夫だったの? 結局、東京の会社にしちゃったけど」
 前菜の枝豆とじゃがいもの料理を食べながら、幸恵は心配そうに訊いてきた。
「う……、うん」
「……だめそうね、その様子だと」
 幸恵は、小さく首を左右に振った。
「厳しいね、まあ、時間をかけて説明するよ」
「うん」

 彼女も口には出さないが、この頃は、僕とのこれからを意識していたんだと思う。だから、僕がどの場所で就職するかは気になっていたのだろう。
 区の保育士になるというのは難関だったと以前、彼女から聞いていた。短大を卒業して国家資格の保育士になり、北区の採用試験に受かったとの知らせを聞いた時は二人ですごく喜んだものだった。

 僕が名古屋で就職するとなると、そういった事も幸恵の中では問題だった。彼女は言わなかったが、僕もその気持ちは十分に分かっていたので、東京での就職にこだわっていた。
 その後、僕たちはしばらく会話をしながらイタリア料理を食べ終わると満足して店を出た。

「ねえ、哲也君。少し付き合ってくれない?」
 店を出ると、幸恵は僕の腕に手を回して頼んできた。
 そして僕たちは、イタリア料理店から5分程歩いた先にある、腕時計の専門店の前に立った。
「自分用? 誰かに?」
 店に入る時、僕が幸恵に訊くと「ひ・み・つ」とおどけるように言って店内に入った。

 色々な種類の腕時計を見ながら、僕に感想を訊き、一通り見て回ると、満足したように店の外に出た。
「ありがとう、付き合ってくれて」
「どういたしまして。お父さんへのプレゼントかなんか?」
「うん、まあそんなところかな」
「なに? 他の男?」
 僕が心配そうな顔をすると「そうだよ」と言って、右手の人差し指を僕に向けた。
 ちぇっ、と言って僕が不貞腐れた顔になると、その様子を見て楽しそうに微笑んでいた。

「じゃあ、今日は家まで送っていくわ」
「いいのに……」
 幸恵は、申し訳なさそうな顔をしていたが、この日は彼女を家まで送っていった。





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