白蓬・Ⅲ
文字数 4,076文字
「そっちか!」
昨日まで優しかった男達の怒号。
灌木を踏みしだく蹄音。
殺気が伝染した馬たちの荒々しいいななき。
それらが通り過ぎて……
「もういいか」
本道のすぐ脇、それこそ今彼らが通り過ぎて行った地面真下の崖の窪みに、ヤンは馬と共に身を潜めていた。
逃げた者を探す視線は遠くに行きがちで、すぐ側に子供と馬が隠れていられるとは、ゆめゆめ思わなかったろう。
「お前もよく辛抱したな」
鼻面を撫でてやると愛馬は得意そうに目を細めた。
これだけこちら側に引き付けたら、フウヤは大丈夫だろう。あの道は五つ森では知られていない直登道(ちょくとうみち)だし、黒砂糖は登りが得意だ。多分逃げ切れている筈。
そのまま道に上がらずに、ヤンは谷へ下った。三峰に背を向ける形になる。
山を巻いて反対側から三峰に向かうルートで、丸一日かかってしまう遠回りだが、途中に九ノ沢(ここのさわ)という大きな集落がある。この辺りで一番勢力のある山岳部族だが、普段から三峰とは懇意にしてくれている。いざとなったらそこに逃げ込めると思ったのだ。
沢を一つ横切って斜面を登り、小尾根に出ると、向こうの山肌で松明がうろうろしているのが見える。上手く離れられたようだ。
この先は九ノ沢の縄張り。
狩猟民族は猟場の線引きに厳しく、イフルート族長も常に気を配っていた。
あのヒト達だって、武闘派と名高い九ノ沢の縄張りで、余計な騒ぎは起こしたくないだろう。
用心深いヤンも、さすがに気が抜けた。
「お腹空いたな……」
夕べの晩餐は豪華だったけれど、何が入っているか分からないので、お喋りに夢中な振りをしてほとんど手を付けなかった。
「鶏肉をバターで揚げたのなんて初めて見た。贅沢品なんだろうな。いい匂いだったなぁ」
きっと元々はいいヒト達だった筈。なのに何でこんな事になっちゃったんだろう。
フウヤには言えなかったけれど、あのヒト達の『おかしな執着』は、本当に危険だった。そうでなければ、イフルート族長の紹介だし、多少嫌な事があっても我慢するつもりだったのだ。
(子供が欲しいだけなら、幾らでも日陰のルートがあるじゃないか。僕でも知っている位なんだから)
彼らは違う、子供が欲しい訳ではない。
草の馬モドキの動物が閉じ込められた、窓のない馬房を思い出した。
あのヒト達は『他人の羨ましい部分』が欲しいんだ。頼んで譲り受けるんじゃなく、奪って抱え込んで我が物にするという行為に、執着している。それで、偉くなった、強くなった気分になって、安心したいのだ。
ヤンには分かる。三峰だって一時そうなりかけたんだ。
ただその時、自分達には鷲羽のイフルートが帰って来てくれた。
『悪魔が通り過ぎた後が大切なのだ。自棄(やけ)を起こして我を忘れ、滅びに向かった部族をいくつも知っている。我らは誇りを失くさずしっかり生きよう。日々を真っ当に積み重ねれば、少しずつでも必ず立て直して行ける』
そう言って皆を鼓舞し、先頭に立って昼夜惜しまず働いてくれた。そんな彼を三峰の民は信頼し、家系の途切れていた族長に推した。そうして愚痴を呑み込み励まし合って、ここ何年かでようよう立ち直ったのだ。外から見ると分からないのだろうが。
「自分達だけ痛かったと思うなよ・・僕が何人兄弟だったかも知らないくせに」
道々採った木の実を馬と分け合いながら、ヤンは谷へ下って行った。
フウヤは尾根に出た頃かな。
あの子はこんな濁った怒りなど抱かず、澄んだ明るい笑顔でいて欲しい。
――チャプ――
重みのある水音。
ヤンは立ち止まった。この先の川に何かがいる。
下馬して馬を待機させ、徒歩で身を潜めながら降りて行った。
五つ森の騎馬だったら静かにUターンしよう。
梢から延びる月明かりの下、浅い流れに脚を浸け、一頭の動物が佇んでいる。
(さっき逃がした妖獣!)
暗い厩内では分からなかったが、こうしてよく見ると本当に奇妙な動物だ。
ベースは馬なのだが、首と足が細く長く、枯れ草を丸めたような身体は、所々向こうが透けて見えている。
長いタテガミと尻尾は、絡まってグシャグシャ。伏せた瞳は赤、身体色は……高山植物のような、白濁した銀鼠色(ぎんねずいろ)。
知らないヒトが見たら、誰かがイタズラで置いた作り物かと思うだろう。
(あっ・・!)
妖獣の前方から、ゆっくり近寄る影がある。
子供だ。
フウヤよりちょっと下くらいの、やせっぽちで裸足の男の子。
水色の髪、はなだ色の瞳、背中に大きな緋い羽根。
(羽根があるって、もしかして蒼の一族の子?)
獣は近寄る者に警戒して筋肉を縮めている。
子供は獣の赤い瞳を見つめながら、ゆっくりゆっくり近付いて行く。
―― !! ――
獣の筋肉が一気に緊張した。
ヤンは考える前に身体が動いた。
考えられない早さとしなやかさで、妖獣はその場で飛び上がって身体をひねり、子供に向かって両後肢を蹴り上げた。
身体の柔らかさはやっぱり馬じゃない、どちらかというと豹(ひょう)か山猫。
頭があった場所を後蹄が薙いだが、走って来たヤンに押し伏せられて子供は難を逃れた。
それでも蹄先がかすめた前髪数本が、そこに舞っていた。
着地した妖獣は、次の一歩で水を散らせて山側に登り、次の一歩で灌木の中へ消えた。
「大丈夫かっ」
ヤンが身を起こして叫んだが、羽根の子供は仰向けに水に浸かったまま妖獣が駆け去った方向を見つめ、そして首を動かして、恨めしそうな表情を向けて来た。
「いや野生動物に安易に近付くなよ、頭吹っ飛んでたぞ」
と言うヤンを通り越して、子供の恨めし気な視線は後ろの藪に注がれている。
***
「動くな!!」
夜闇に冷徹に響く男の声。
動物が駆け去ったのと反対方向の藪が揺れ、数人の足音がバラバラと降りて来た。
しまった、追い付かれたか?
「あれ?」
身構えて振り向いたヤンは、ホッと肩を降ろした。
「えっと、九ノ沢の方々ですよね、僕、ヤンです、三峰のヤン」
そこには、よく見知った緑の狩猟装束の男達が、石弓をつがえて立っていた。
「三峰・・鷲羽のイフルートの所か」
「はい、事情があって迷い込んでしまいました、ごめんなさい。……あの、弓を下ろしてください?」
名乗ったのに表情を柔らげず、むしろ弓を引き絞る男達に、ヤンは焦った。
九ノ沢は五つ森と違って、たまに縁談を結んだりする、三峰とは親しい間柄な筈。
「ごまかすな、今、狩りをしようとしていただろう。我が縄張りで夜中にこっそりと。あちらの山が騒がしいから偵察に出てみたら案の定だ」
男の声は、大人が子供のイタズラを叱る程度の物ではなく、心底の侮蔑が込められている。
「イフルートはこんな子供にまで悪事を働かせているのか。ガキだからって甘く見て貰えると思ったら大間違いだ」
思いもしない言葉を投げ付けられ、ヤンは混乱した。
「ち、違います、本当に迷い込んだだけで……五つ森の集落から帰る途中で……」
「見え透いた言い訳をするな。五つ森から三峰に帰るのなら、こちらは反対方向だろうが」
頭から喧嘩腰だ。全部話したって信じて貰えるかどうか。
切羽詰まっている所へ、男達の後方から声がした。
「ちょっと待て、ヤンだって?」
灌木をかき分けて出て来た男は、ヤンのよく知った人物だった。近所に住んでいる九ノ沢から嫁いだ女性の兄で、訪ねて来る度に菓子をくれたり、小さい頃は遊んで貰ったりもした。
「おう、久しぶりだな」
「おじさん・・」
馴染みのある顔に出会えて、膝の力が抜けそうになった。
やれ果物が採れたキノコが採れたと理由を付けてはしょっちゅう妹宅を訪れる、シスコン気味だけれど優しいヒトだ。
「この子の事は俺が保証する。嘘は付かない真っ直ぐな良い子だ。馬が好きと言っていたので、五つ森にいたと言うのも本当だろう。なあ、我らの事情は差し置き、子供は大切に扱おうではないか。山の恵みと同じく天からの授かりものなのだから」
男性に弁護して貰い、ヤンはすっかり安心した。
「猟場破りなんかやる訳ないです。本当にそんな事やらかしたら、イフルート族長にめちゃめちゃ怒られます」
男性が怪訝な表情になった。
「お前……ヤン、その五つ森に、どのくらい滞在していた?」
「一ヶ月くらいです」
「そんなに長くか、では知らないのだな」
「??」
「我が部族と三峰は、今、決裂しているんだ」
「ええっ!」
ヤンの驚愕の声は、別の男の叫びでかき消された。
「羽根だ! その子供、羽根がある、蒼の一族の有翼人だ!」
ヤンの隣で子供が立ち上がろうと身体を回し、水に浸かっていた羽根がザブッと跳ねあがった所だった。
「捕まえろ!」
「えっ、えっ?」
正面の男性の優しかった顔が、さぁっと冷たくなった。
「そうか、三峰は蒼の一族と懇意にしていたのだな。だからいきなりあんなに強気になったのか」
「い、いいえっ、この子は今初めて偶然ここで出会ったんです。え、三峰は今どうなって……」
「そんな事は後だ!」
言い終わる前に、後ろから来た男の太い腕に薙ぎ払われた。
「足を狙え! 羽根は傷付けるな、死なせなければ後はどうでもいい!」
弓をつがえた男達が駆け降りて来る。本気だ。
「や、やめろ!」
ヤンは先頭で弓を放とうとする男に体当たりした。足場が悪いので相手は簡単に転んだ。
「お前、逃げろ、早く!!」
子供は後ずさろうともがくが、水を含んだ羽根に邪魔されてジタバタしている。
駆け寄ろうとしたヤンは、今転ばせた男に首を掴まれ、水中に沈められた。
一切手加減のない大人の力。
――ゴボガボゴボ・・
鼻と耳から凄い勢いで水が入って来る。
どうしたって抵抗出来ない。力が違い過ぎる。
ダメだ、頭の芯が熱い、破裂しそう・・
不意に男の手が離れた。いきなり自由になった勢いで、ヤンはひっくり返った。
頭が水から出ると、周囲の喧騒が一気に入って来た。
「うわあっ」という男の悲鳴、灌木の折れる音、土を引っ掻くけたたましい足音。
びっくりした。目の前でさっきの妖獣が暴れている。
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