海に降る雪・Ⅱ

文字数 4,545文字

 

「要件はそれだけか?」

 木枯らしの浜辺。
 無機質なカワセミの声に、心を呼び戻された。

「いえ」
 一拍息を呑み込んで、ナーガはザッと頭を下げた。
「まず謝らなければなりません。貴方と、そしてユーフィに」
「…………」

 ピクとも表情を動かさない相手に、ナーガは波打つ鼓動を抑えて顔を上げた。
 ここからが本題だ。このヒト相手に話を通せるか……だが。
「里へ戻って下さい。シンリィ・ファと共に。彼は、蒼の里の大切な子供です」

 カワセミは無表情が崩れた。目を見開いて口を半開きにした。

「今更何をと呆れられるのは分かっています。でもそういうのは横へやって、今はシンリィの事を考えませんか?」
「…………」
「貴方だっていろいろ教えられるでしょうけれど、こんな辺境の海辺で二人きりで育つのが、あの子の為になるとは思えません」

「・・長の血筋が欲しいか」
 カワセミの半開きの口が冷ややかな声を出した。
「そんな!」
 今度はナーガが頬をはたかれたような顔をした。
 子供の為という薄っぺらい大義名分など、やはりこのヒトには通用しない。

「少し、離れませんか?」
 小屋の中を気にしながら、ナーガは浜の方を促した。粗末な板壁と茅の戸口は、何の遮(さえぎ)りにもならない。

「気遣い無用」
「いえ、あの子にあまり聞かせるべきではないと」
「気遣い無用と言っている」
「でも……」
「シンリィには言葉を教えていない」
「えっ・・!?」

「この世の言葉はあの子を傷付ける事しかしない。だから教えない」

「だ、だけど……」
「誰がどんな会話をして、うっかりそれを耳にするような事があっても、シンリィは傷付かない。そういう風に育てた」
 そう話す白い髪の下の唇は、あくまで淡々と無表情だった。

 ナーガは身体中から力が抜けた。
 膝を折って、それから項垂(うなだ)れて、手を砂の地面に付いた。
「そん……そんな……」
 パタパタと浜昼顔に滴が落ちる。

 カワセミは静かにそれを見ていた。

 長い沈黙があった。

「シンリィの為と言うのなら」
 沈黙はカワセミが破った。
「忘れてくれないか。キミ達はキミ達で、忘れて、前を向いて生きていてくれないか」

「僕は……確かに、里の為にシンリィを連れに来ました。だけれど……!
ただ……シンリィに逢いたかった。これは本当です。あの子が生きていると知って、いても立ってもいられなかった」

「そうだな、ボクの結界を破ったもんな」
 カワセミの無色だった声に、少しだけ色が付いた。
 高い崖に囲まれたこの湾にはずっと霧が立ち込めていて、外界の全てを拒絶していた。

 ナーガは堰が切れたように続ける。
「シンリィ・・! 本当なら友達と草原を駆け回っているような幼子(おさなご)が、こんな木枯らしの砂の上で、ひとりぼっちで・・! お願いです、里へ戻って下さい!」

「無理だ」
 
「無理じゃないです!」
 顔を上げてナーガは逆らった。
「シンリィは生まれて七年も生きています。貴方の力でしょう? 貴方の術かその羽根の力かで悪魔は追い祓えたって事でしょう? なら僕が、里の民に向けて、大丈夫だと宣言をします。次期長の僕が!」

 相手はただ静かに無言を貫いている。
 それでナーガは少しイラついた。
「シンリィは貴方の『モノ』じゃない! あの子にだって色んな権利があるんだ!」

「…………」
 カワセミは踵を返して、小屋の御簾をくぐって、七つにしては小さ過ぎる子供を連れて出て来た。
 子供はちょっとビクついたが、両肩に手を置かれて、すぐ安心の表情になった。

 不意にカワセミは子供の衣服を開けて、胸を曝(さら)した。
 ナーガは息が止まる。
 カワセミが抑えた声で呟く。
「悪魔は去っていない。ずっとここに居るんだ」

 キョトンとする子供の胸から下、小さな身体は、真黒い斑点に覆われていた。

「シンリィが何故生きながらえているのか、ボクには分からない。ユユが散り際に何かの術を施したのかもしれないが、今更そんな事を知ったって何の意味もない。はっきりしているのは、悪魔は去っていないって事だけだ。そしてこの子の側に居られるのは、羽根に護られているボクだけ」

 思わず後ずさりしそうになって、ナーガはハッとして踏み留まる。
 しかしそれを見逃すカワセミではなかった。
「分かっただろ。キミでさえ恐れる。当然だ」

 返す言葉のないナーガに、カワセミはほんの少し情の入った声で言う。
「この子はボクが育てる。平穏な安堵だけに包んで。この子に権利が有るとすれば、誰からも何からも傷付けられない権利だ」

 何も言えない。どうしようもない。ナーガは凍りついた表情で立ち尽くす。

「分かっていると思うが、里へは直に帰るなよ。何処か生き物の居ない場所で、時間をおいて様子を見るんだ。悪魔を貰っていないか」

「……はい」
 
「蒼の里の次期長をこんな風に心配したくない。だから、もう来るな」
 色褪せた羽根を揺らして、カワセミは背中を向けた。

 後ずさりしながら、ナーガはもう一度子供を見る。
 里に居た頃のカワセミと同じ、水色の細い髪。
 はなだ色の大きな瞳は、妹の幼い頃に切ないくらいそっくりだ。
 だけれど近付く事も出来ないこの子供に、ナーガは辛うじて微笑みかけた。
 シンリィは無反応だった。言葉だけでなく、ヒトとの交わりも教えていないのだろう。

 この子がこんな風に育つなんて、誰が望んだっていうんだ。


  ***


 七年前。

 遥か西の大陸から草原に、黒い悪魔が忍び寄った。目に見える侵略ではない。
 今から考えると、目に見える相手の方が、まだどれだけかマシだった。
 悪魔は黒い斑点と共に、生き物すべてを根絶やしにせんばかりの勢いで、瞬(またた)く間に広がった。
 弱体化していた人間の草原の帝国は、これでとどめを刺された。

 黒い疫病は人外だろうと区別なく襲い掛かり、無防備な妖精の部族が幾つか壊滅した。
 蒼の里では、術者達が何重にも結界を作って、外から入る風を塞いだ。
 けして隙間は作らなかった。……作らなかった、筈なんだ……

 悪魔の侵攻が明らかになった時期、カワセミは深山に居て情報が遅れ、里へ戻り損ねていた。
 折しもその数年前に大長が行方知れずになっていた。
 不明になった場所が、後々、黒い影が最も濃かった地域だと分かり、皆はある程度の覚悟はしていたが、カワセミだけは最愛の師匠の行方を、事ある毎に捜索し、帰りが遅れてしまう事がままあった。
 執務室の者達は慌てた。一筋の風も通せない今、通信用の鷹すら使えない。
 ツバクロが高空を飛んで迎えに行くと言ったが、ノスリは長を二人も欠く危険は冒せないと止める。

 言い合っている面々の前に、ユーフィが緑の石版を抱えて入って来た。
「カワセミ様は大丈夫だわ」

「大丈夫って、どうしてそんな事が言える?」
 問いただすナーガの前で、彼女は石版を大机に置いて、蝋石を構えて目を閉じた。
「見ていて」
「??」

――ボクは大丈夫――

 書いてから、手を開いて見せてくれたのは、空豆大のピンクの石。
「この護り石と石版には、カワセミ様の術が掛けられているの。弟子だった時代に通信用に掛けて貰ったんだけれど、役に立ってよかった」

 そうして遠くから送られて来るカワセミの意思は、妻を通して皆に伝えられた。
 里から彼への返信は、やはりユーフィが、石を握った手で蝋石を持って文字を書く。
 それが消えたら『伝わった』合図。
 文字は書いた先から消える事もあれば、翌日消えている事もあった。

 カワセミは冷静だった。何となく確信はあったらしい。
――ボクの背中の羽根の守護は、悪魔に対しても効くみたい。だからボクは感染しない――

「あいつ、文字だけになってもいつもと変わらんな。物凄い事をサラッと報告しやがって」
 ノスリが言って、皆を笑わせた。

――知識があったら、ある程度は悪魔に対抗出来る。ボクは、弱い種族に防疫の知識を伝布して回る――

――無理するなよ――

――ボクは、蒼の長だから――

 執務室の皆は、文章でカワセミを励ます事しか出来ないのが歯痒かったが、それすら度々は躊躇(ためら)われた。
 石の通信はユーフィの体力を消耗させたからだ。彼女は臨月だった。


 そしてあの朝……眠れない男性陣の耳に響いたのは、元気な産声ではなく、産婆と女性達の金切声だった。

「ああ、あ、悪魔が・・!!」
 生まれたばかりの赤子の全身に悪魔の斑点があるというのだ。

「外と交信する事で悪魔を呼び入れてしまったのよ! 早く、早く『それ』をどうにかして!」
 パニックに陥りとても妹には聞かせられない言葉を叫ぶ女性を、慌てて抱えて遠ざけた。

 他の女性たちも落ち着かせ、身を浄めさせるのに手間を割いて、母親と赤子に対する注意が遅れた。
 一瞬の遅れを後悔する暇もなく、産屋はもぬけの殻だった。
 産褥の中動けるとは誰も思っていなかった。
 厩からはユーフィの馬が消えていた。

 追い駆けようとするナーガをぶん殴ってノスリに託し、ツバクロが自分の馬で飛び出した。

 が、そう時間を置かずに、唇を噛みしめながら戻って来た。
 『空の色が変わる所』までは、彼にも昇る事が出来なかったのだ。

 勿論、その後も捜しに行こうとした。行きたかった。
 だけれど、悪魔は明らかに里に狙いを付けている。もう風を通す訳には行かない。
 長達は辛い判断を下さねばならなかった。


 数日後、執務室の机に置かれた石版が、蜘蛛の巣状に割れていた。

 それきり、カワセミも、消息を、絶った。


 蒼の里は、じっと耐えるしかなかった。
 黒い悪魔が草原を蹂躙し尽くし、やっと下火になった頃には、二年の歳月が流れていた。
 草原の様相は大きく変わり、かつての生命溢れる豊穣の地は窶(やつ)れ荒れ果て、多くの大切な物が失われていた。

 外へ出られるようになり、ナーガは一番にユーフィとカワセミの行方を捜した。
 消息を絶つ直前に滞在していた山の民の村までは、簡単に割り出せた。
 そして、疲れ果てた生き残りの話を聞いて、また胸を潰す事となる。

 ユーフィはピンクの石を頼りに、カワセミの元へ辿(たど)り着けていた。
 しかしその時はもう、彼女も悪魔の手の内で、子供は虫の息だった。

 悪魔に憑かれた妻子を抱え、カワセミはその村から身を引いた。
 山の民が俯(うつむ)いて教えてくれたのは、そこまでだった。
 身を引いた、という言い方をしたが、現実がどうだったのかは、ワカラナイ……

 その後、子供は不思議に命を取り留め、ユーフィは海の灰となった。
 命を搾って何らかの力を我が子に与えたのだろうか? 
 カワセミにも分からない事が他者に分かる筈もなく、推測で語るような物でもないのだろう。
 
 山の民は最後に、俯(うつむ)いたまま教えてくれた。
 赤子には、父母二人で名を授けていたと。
 小さな額に二人の手を重ねて、『シンリィ・ファ(金鈴花)』と名付けていたと。



 里より遥か北の果ての海辺の二人を見つけたのは、殆どその為だけに必死で修行を積んだナーガの『内なる目』だった。
 世界から忘れ去られた小さな湾で、カワセミは干からびた羽根と共に、シンリィを包み込むように生きていた。


 里への高空気流の中で、ナーガは涙を凍らせながら叫ぶ。
「あの子ひとり救えなくて、何のための長だ……!!」










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登場人物紹介

ナーガ・ラクシャ:♂ 蒼の妖精

蒼の里の次期長。幼名ナナ。

書物の知識は豊富だが、実は知らない事だらけ。

シンリィ・ファ:♂ 蒼の妖精

カワセミとユーフィの一粒種。ナーガの甥っ子。

何も欲しがらないのは、生まれながらに母親からすべてを貰っているから。

カワセミ:♂ 蒼の妖精

前の代の蒼の長だったが、放棄している。シンリィの父。

天啓のまま生きる。

ユーフィ:♀ 蒼の妖精

成長したユユ。カワセミの妻。シンリィの母。故人。

自分の生まれて来た意味を考えながら、風みたいに駆け抜けた。

ユユ:♀ 蒼の妖精

ユーフィの幼名時代。ナナ(ナーガ)の双子の妹。

天真爛漫、自由に我が道を行く子供だった、外見は。

ナナ:♂ 蒼の妖精

ナーガの幼名時代。

次期長として申し分のない、放っておいても大丈夫な子供だった、外見は。

ノスリ:♂ 蒼の妖精

当代の蒼の長。近々ナーガに譲る予定。

同僚達と妻をいっぺんに失くした中、災厄で被害を受けた里を立て直さねばならず、余裕がない。

ホルズ:♂ 蒼の妖精

ノスリの長男。執務室の統括者。ナーガの兄貴分。

前任者が引き継ぎをしないまま災厄で全滅した執務室を、五里霧中で回す新人管理職。


エノシラ:♀ 蒼の妖精

ノスリ家の遠縁。両親を災厄で失くす。助産師見習い。

癒し系でふわふわしているが、芯は強く石のように頑固。

赤い狼:?? ???

ヒトの欲望を糧に生きる戦神(いくさがみ)。

イイヒト呼ばわりは大嫌い。

アイスレディ:♀ 蒼の妖精

ナーガとユーフィの母。先先代の蒼の長の妹。

遠方の雪山の、風の神を祀る神殿の守り人。

ジュジュ:♂ 蒼の妖精

親兄弟すべて災厄で失くしてハウスで育つ。

身の丈に合った堅実な暮らしがしたいのに、何だかトラブルに巻き込まれる。

フウリ:♀ 風露の民

風露の職人。二胡造りの名手。ナーガの気になる相手。

狭い世界で生きている割に、視野は広い。

フウヤ:♂ 風露の民

フウリの弟。二つ年下のシンリィと、初対面でウマが合う。

自信満々なのは、自分から自信を取ったら何も残らないと知っているから。

ヤン:♂ 三峰の民

蒼の里の統括地から外れた三峰山に住む、狩猟民族の子供。父弟を災厄で失くし、母と二人暮らし。

ややナーバスな母に育てられ、嫌でもしっかりしてしまう。

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