海に降る雪・Ⅲ
文字数 6,169文字
里から出てすぐ側の、ハイマツに覆われた小高い丘。
肩に大きな手を置いて、父は遠くを指して教えてくれた。
「ええっ、こんなに広いの? 蒼の長って、蒼の里だけの王様かと思ってた」
山で母に、「蒼の長様は偉大な存在なのだから、お父様にもきちんと礼儀を尽くすのですよ」と言われていたが、『イダイ』って何なのか、いまいち実感がわいていなかった。
「統括といっても、税を取って治めている訳じゃない。『規範』ってやつかな。誰かと誰かがケンカした、仲直りさせなきゃならない、それには皆を納得させる『正しさ』が必要なんだ」
「う――んと・・?」
「まあまだ分からなくてもいい。そんな感じで昔っから、蒼の長は周辺の者に頼られているんだ。誰だって本当はケンカなんかしたくないだろ? 『正しい』者がいてくれるだけで、皆、安心出来るの」
そういうのを『信仰』とも呼ぶ……ってのは、後から知った。
「父上も『正しさ』が分かるの?」
「うーん、残念ながら、僕は違う。長の一人だけれど、『内なる目』の力は無い」
「ウチナル、メ?」
「『この世の流れを見据えて正しき方向へ風を流す力』……蒼の長の血筋にだけ継承される能力だよ。血筋にその能力を持つ者がいない時は、判断を『間違えない』ように、複数人で話し合いながら長を務めるんだ」
「ふうん……」
あの時は分からなかった。実は今もあんまり分かっていない。
精神集中の修行を繰り返す事によって、確かに他では誰も出来ない術が使えるようになった。
シンリィを見付けたのは、『同じ血を持つ者を捜す術』だ。ノスリ長はそれも『内なる目』のひとつだと教えてくれた。でも、こういうのが『正しさ』に繋がるのかどうかは、ピンと来ない。
里の皆を不安にさせるから言えないけれど。
見慣れた草原が眼下に広がり、ナーガは高空気流から飛び出して、馬を降下させた。
父とユーフィにしか出来なかった『高空飛行』だが、吐くような思いをして無理やり会得した。
飛ぶのは苦手だなんて言っていられなかった。これが出来なきゃシンリィを捜せなかったのだ。
ハイマツの丘を過ぎ、そこから旋回して結界を越えると、それまで見えなかった蒼の里の全景が、いきなり現れる。
手前に馬繋ぎ場と厩舎群、そこから扇状に居住区、奥に修練所と放牧地。
昔は外から帰るとホッとしたものだが、今は目をそらすのが癖になっている。
大好きだった里の変わりようが空から見えてしまうのが、辛かったからだ。
そう、蒼の里も結局悪魔の侵入を許した。
シンリィが生まれた時ではない。その二年後、外界の病渦が下火になって油断が出た頃だった。
里の端からいきなり始まった災厄は、瞬く間に多くの命を削り取って行った。
馬繋ぎ場の中心に降り立ち、係の者に馬を託す。
ここから見上げる風景も変わった。
居住区の斜面にひしめいていた獣皮で造られた住居(パオ)は、今は往時の半分以下だ。
その分、地面に焼け焦げた跡がある。悪魔の侵入した家は焼いて清めるしかなかった。
ナーガが幼い頃育った家も、無い。
ガランとしたメインストリートを登り、坂の上にある石造りの執務室を目指す。
入り口の二重の御簾を開けて中に入ると、奥の長椅子に横たわる人影があった。
ナーガは足音を忍ばせてそっと大机に向かったが、人影はすぐに起き上った。
「ナーガか? ああ、寝ちまってたようだ。おかえり」
「あ、あの、すみません、ノスリ長」
ノスリは大きな身体を揺らして、椅子に座り直した。
ガタイは大きいが、頬は痩けて目の下に隈が出来ている。
「何、構わん。寝食惜しんで捜していたんだ、見付けたのなら速攻飛び出しちまうのはしようがない。だが今度からは置手紙じゃなく、ひとこと断ってから行ってくれな、夜中でも構わんから」
「……すみません」
「で、逢えたのか? 奴に」
「はい、一応」
「そうか、元気にしとったか?」
「…………」
「んん?」
「羽根が」
「??」
「見事な翡翠色だった羽根が、緋(あか)く干からびてバサバサで」
ノスリは眉間にシワを入れた。
「ユーフィは?」
「…………」
「駄目だったのか?」
「はい」
「子供は?」
「…………」
ナーガは何をどう言っていいのか、言葉が出て来なかった。
察したノスリも質問は止め、彼を座らせ、茶を飲ませて落ち着かせた。
「そうか、悪魔は憑いたまま……」
一通り聞いたノスリも言葉に詰まり、額に手を当てた。
「それで奴は、全て捨てて、子供の側にいる事だけを選んだのか。……そうだろうな」
「納得するんですか?」
古くからの親友である彼の方が、カワセミの事を解るのだろうが、しかし……
「納得してやるしかないだろう。俺たちがユユに、ユーフィに、どんな仕打ちをしちまったか」
ナーガ達兄妹にとって、幼い頃から面倒を見てくれたこのノスリは、もう一人の父親のような存在だ。だが、昔は頼もしかった大きな背中が、今はとても心許なく見える。
「本来なら、お産が終わって、祝福されて誉められて、ホッと休めるべき時に。あの子が外から聞こえる喧騒にどんな思いをしたか。ナーガ、俺はそれを考えると、消えてしまいたくなる」
ナーガだって同じだ。
喧騒の中には、その場を収めようとする自分の事務的な声も混じっていた筈だ。何故そんなのを放り出してすぐ、妹の元へ行ってやらなかったのか。その後悔がずっと胸を押し潰している。
でもノスリには言えない。言うと彼を慰め役に回してしまうからだ。
「ね、シンリィの事をどうにかしてやれませんか。あれでいい筈がありません」
「うむ……」
「せめて言葉くらい教えてやるべきです。あの浜から出られないにしても、工夫すればもっと豊かに生きられる筈。文字を知れば書物も読めるし。あのままじゃあんまり……」
「ナーガ、奴は『忘れてくれ』と言ったんだろう?」
「でも、でも」
ナーガは食い下がる。
「子供ってのは、笑ったり泣いたり、失敗したり誉められたり、歓びを積み重ねて大きくなって行く物なのに、あの子にはそんなの、何にも無いんです」
「知識を与えて苦しんだらどうする? しまったと思っても後戻り出来ないんだぞ」
「…………」
「それに、何も無いって事はないだろう? 父親の愛を一身に受けている」
「でも、他に、何も……」
「その愛さえ受けられずに育つ子もいる。どちらがより不幸かなんて、他者には分からないだろう?」
「…………」
「なあナーガ、肝心なのは俺たちが、その子を不幸だと決めつけて、憐れんで見下ろしちゃいかんって事だ。その子の事は、その子と、七年二人きりで暮したカワセミにしか分からんと思うぞ」
海辺で子供が流木を拾っている。
今日は空から草の馬が降りて来ても、前ほどには驚かなかった。
一度見慣れたモノ。自分の信頼するヒトが追い払わなかったヒト。
シンリィの中で、『コワクないモノ』に分類されたんだろう。
それでもこの子供にとっては、波打ち際の割れた巻き貝と同じくらいどうでもいい存在だった。
「こ・ん・に・ち・は」
離れた所で、ナーガは下馬して話し掛けた。
「僕はナーガ。ナ・ア・ガ・だよ、シンリィ」
子供は流木を抱えたまま、首をすぼめて後退りする。
「そう、これを君にあげようと思ったんだ。お・み・や・げ」
ナーガは鞍袋から小さなフェルトの靴を取り出した。
シンリィはそれを見もしないで、サッと横へ駆けた。
そちら方向、浜と林の間に、いつの間にカワセミが立っていた。
「来るな、と言った筈だ」
「裸足の甥っ子に靴をあげるくらい、いいでしょう」
「この子は……」
カワセミは、しがみ付いて来る子供の頭を撫でながら言った。
「裸足が好きなんだ。ボクがこの子に靴を履かせようとしなかった、とでも思ったか?」
「……いえ」
ナーガは出過ぎた事に恥じ入って俯(うつむ)いた。
だが、これくらいで引き下がれない。
ノスリ長の言う事は分かる。だけれどやっぱり放っておけない。
この子の事が分からないのなら、これから知って行けばいい。
***
「ノスリ長は、貴方の言う通り、シンリィはそっとしておく考えです」
浜を歩く二人と距離を取りつつ、ナーガは喋りながら着いて行った。
シンリィはカワセミにぴったり寄り添っている。
「・・ツバクロは?」
カワセミがぽそりと聞いた。つい会話に乗ってしまった、という感じだ。
「父は……生きていれば、僕より先に此処へ来たでしょうね」
後ろ姿のカワセミがピタリと止まった。
「里も結局、悪魔の侵入を許してしまいました。シンリィが生まれた時じゃなく、ほとんど終息した二年後に。大勢命を落としました、子供がたくさん……」
「……そうか」
時間をかけて呑み込んで、カワセミはまた歩き出した。
シンリィも慌てて着いて行く。
「ノスリは……」
珍しくカワセミから喋り出した。
「子供の頃からボクの言うことは、文句を言いながらも通してくれた。ボクとツバクロはいつもケンカしていた。だけれど、何かをやらかすのはいつもツバクロとで、ノスリは止める役回りだった」
カワセミが立ち止まって空を仰いだ。ナーガも距離を保って立ち止まった。
「夕まづめだ」
「え?」
「風が止まる。湾に澱んだ気が溜まる。もう、帰った方がいい」
「はい」
ナーガは素直に従って、馬を引き寄せた。
「また来ます」
「もう来るなと……」
「来ます」
蒼い妖精は群青の髪を翻して、上昇しながら叫んだ。
「シンリィ、またね!」
蒼の里の執務室は、ノスリの長男を補佐に据えて、何とか回っていた。
早い内に草原全体を立て直さねば取り返しがつかなくなるし、力の弱った里を狙う外からの侵入者もある。気は抜けなかった。
生き残った術者達は一長一短で、オールマイティのナーガに負担が掛かる事が多かったが、ノスリがなんだかんだ言いながらもフォローして、彼に時間を作ってくれた。
僅かな時間を割いては、ナーガは高空気流に乗って、小さな湾に足を運んだ。
「・・しつこいな」
すっかり枯れ野になった浜昼顔の中で、カワセミは眉間に縦線を入れて振り向いた。
しかし最初の錆びた無表情はなくなっている。
相変わらず距離は取っていたが、シンリィは『群青色の髪のヒトがそこにいるコト』に慣れて、独りで浜を歩いている。
「シンリィの風下に立つな」という言いつけと一定の距離さえ守っていれば、カワセミはいちいち「来るな」とは言わなくなった。
「そんなに度々草原を留守にしていていいのか。次期長だろ、キミは」
「はい、次期長なのに、まだほとんど『内なる目』の術が使えないんです。ねえ、ご指導願えませんか」
「キミがここへ来る理由をこじつけようとしても無駄だ。ボクは長の術なんか知らん。とっとと自力で一人前になってノスリに楽をさせてやれ」
最初に比べたら随分と雑談してくれるようになった。
思えば里に居た頃は、このヒトとこんなに沢山喋るなんて、夢にも思っていなかった。
「そんなあ……だいたい、僕が母のお腹にいる時に早々(はやばや)と、この子は次期長だって宣言しちゃったのは、貴方でしょう?」
カワセミの顔がこわばった。
「・・知っていたのか?」
一瞬(しくじったか?)と焦ったナーガだが、頑張って話を続けた。
「父が教えてくれました。隔離場所に運ばれる直前に」
「…………」
「『今度、山の神殿で生まれる双子の男の子の方が、長の資質を持っている』。父とノスリ長と、限られたヒトだけの秘密だったらしいですね、貴方に『預言者』の能力もあるって事」
「ツバクロのお喋りめ……」
カワセミは羽根を後ろに払って、浜昼顔の中にドサリと胡坐をかいた。
ナーガも離れた砂浜に座った。
「『預言者』なんて大層な物じゃない。もともとあった小さい予知や透視能力の延長で、たまに意識もせずに閃くだけだ。そんなハンパな力があるって知れ渡ってもロクな事にならない。大長がそう言って、ノスリとツバクロも同意して、黙っていてくれたんだ」
「父は青年時代、何度も貴方の予知に救われたと言っていました」
「あれらは運がよかっただけだ。肝心の時に役に立たねば何の意味もない。それに……」
骨ばった指が浜昼顔の枯れ葉をパキパキとむしる。
「後悔している。生まれる前の赤子の未来を決めつけてしまうような事、予言があっても、報せるべきじゃなかったんだ」
「ええ? 僕は気にしていませんよ。子供の頃から目標を与えられて、頑張れたし……」
「阿呆か、キミは」
カワセミは、むしった枯れ葉を地面に投げつけた。
「『双子の片方が長の資質を持っている』って予知は、『もう片方はそうじゃない』って言っているような物なんだぞ」
「・・!!」
「ボクも阿呆だった。七年経って、その片方が山から下りて来るまで気付かなかったんだ。自分がどれだけ残酷な宣告をしたか」
***
「誰も言わない、でも分かるの。母様はあたしにだけ優しい、父様はあたしだけ叱らない。ナナは要る子で、あたしは要らない子だから」
弟子にしてくれと捻じ込んで来た娘は、『要る子』になりたいと唇を噛んだ。
見込みがあったわけじゃない。ただ、修行と称して自分にくっ付いて来る時だけ、この娘(こ)の瞳は希望に満ちていた。『血筋に関係なく最高の術者になれた者』を、間近に感じていたかったんだと思う。
最初は罪滅ぼしのつもりだった。見栄えのいい術のひとつふたつ覚えさせてやったら、自信を持って生きられるようになるだろう……ぐらいに思っていた。
しかし驚いた事に、教えても教えても教えても、何ひとつ出来ないのだ。
「ある意味すごいぞ。あのそら恐ろしい飛行術のエネルギーを、何故手元の術に変換出来んのだ」
「あたしにだって分からないわ。あーあ、いつになったら『要る子』になれるのかしら」
そう言いながらこの娘はいつの間にか、『要る子要らない子』にこだわる事をやめていた。
そして逆に、術を習得する事を無意識に拒んでいた。
理由は……まあ、うっすら分かる。兄の為だ。
この娘の臆病で神経質な兄が、彼女の成長を怖がっていたからだ。
馬鹿馬鹿しい……と思っても、指摘はしなかった。
そんな彼女がいつも隣にいる事に、自分が馴染んでしまっていたからだ。
山の民の村で、赤子を抱いて馬から崩れ落ちた彼女を抱き止めた時は、さすがに心が凍った。
言われなくても何があったか想像出来た。
だが彼女は、残して来た兄や父親や、出産に立ち会ってくれた女性達の心配ばかりしていた。
それでも自分は何を犠牲にしてでもこの子供を護りたいとも。
なら、ボクがやる事はひとつだ。彼女の遺志を守り通すだけ。
カラカラと乾いた音が響く。
浜辺でシンリィが、抱え過ぎた流木をぶちまけてしゃがみこんでいた。
カワセミは立ってそちらへ向かい、散らばった流木を共に拾う。
二人並んで杣家(そまや)まで歩き、板壁に立て掛けられた流木にそれを重ねる。
ナーガは黙って眺めていた。
白い骨を思わせる色の抜けた木々は、重なり合って、何かの生き物の残骸のようだった。
「分かったか。最初に残酷な『この世の言葉』を吐いたのは、ボクだったんだ。だからキミもノスリも、もうこれ以上傷付いていないでくれ」
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