巣落ちの雛鳥・Ⅱ
文字数 3,355文字
上昇気流に乗って、ナーガは風露の谷へ馬を向けた。
前のシンリィは大人しく、彼専用に鞍の前に付けたベルトに掴まっている。
この子も最近は落ち着いて来たし、先方で迷惑をかける事もあるまい。
それよりもこの子がいれば、フウリと二人きりの気づまりから解放されそうだ。
いや、週に一度楽器を習いに行くのは間違いなく楽しみなのだが、いざ二人になると何を話していいやら分からない。
子供がチョロチョロしていてくれたら話題に出来るし、場が和やかになるだろう。
それに、シンリィならフウリの事がバレる心配がない。
とにかくあの執務室コンビにはだけは絶対に知られたくない。
どう転んだって確実に面倒くさい事になる。
「今日は一段と綺麗だな」
風露の集落の向かいの山に馬を繋いで、ナーガは何気なく呟いた。
普段から幻想的な谷なのだが、今日は霧が深く、谷に沈むミルクの海から塔がニョキニョキ突き出た光景は、まことに美しかった。
「ありがとうございます」
山から塔の入り口に掛かる梯子の向こうに、本日の関の番人フウリが立っていた。
「い、いや、風景の事で……」
ナーガがいらん言い訳をしている間に、フウリはニッコリ笑って道を開けてくれた。
ノスリかホルズがこの場に居たら、後頭部をはたかれていた事だろう。
風露の娘の藤色の衣装はいつもと同じだが、髪の結位置が心持ち高く、しかも鮮やかな牡丹色の紐が結ばれている。
(本当に一段と綺麗だ……)
そのささやかなお洒落が自分の為だと嬉しいんだけれど……心の中で呟いてすぐつぐんだ。
自惚れてロクな目に遭った事はない。
「今日は連れも一緒させて下さい。甥っ子のシンリィ・ファ、もうすぐ八つです」
「あら、じゃあフウヤと二つ違いかしら。あとで仲良くしてあげてくださいね。さ、こちらへ」
フウリは珍しそうににシンリィの羽根を見つめたが、特に話題にはしなかった。
関の小屋の中の小卓に、二胡と譜面が置かれている。
「前回の続き、三段目から始めましょう」
ナーガが席に着くとシンリィも来て、神妙に譜面を覗き込んだ。
「シンリィ、これに音楽が書いてあるんだって。分からないだろ、僕にもさっぱり分からない」
「はい、貴方にはこれ」
フウリが部屋の奥から、手の平ほどの長さの竹を割った棒を持って来た。
真ん中に長いコの字型の切れ込みがあり、その部分を弾(はじ)くとビンと音がする。
そこを口にくわえて弾くと音がビォンと大きくなって、シンリィの目をまん丸に見開かせた。
「口の中で共鳴させるの。口琴(こうきん)っていうのよ。練習すれば色んな音が出せるようになるわ」
羽根の子供は外の椅子に腰かけて、熱心に竹を弾き始めた。
音を鳴らすにはコツが要るようで、絶妙に鳴ったり鳴らなかったりする。
子供を夢中にさせておくにはもってこいな代物だな。
「あれも風露の楽器ですか?」
「いえ、フウヤが作った玩具です。ああいうのを作るのが好きな子で」
「ほお、将来有望ですね」
「そうですね……」
フウリが何となく話を切って二胡を構えたので、ナーガも本日の課題に没頭した。
ロクに譜面の読めないナーガは、フウリの指を見て目で覚えているのだが、これがなかなか頭に入らない。論語や経書は幾らでも暗唱出来るのに、何でだろう?
「ナーガ様は音楽を理屈で考えようとしているんです。音を浮かべて指が動くようになれば、何でも弾けるようになりますよ」
「遠い道のりです」
「でも最初よりとても良い音が出せるようになりました。お母上にお聞かせするのが楽しみですね」
「ああ、ハハ‥…」
老師、そんな事喋っちゃったのか……
ふと気付くと、外の口琴の音色が格段に上手になっている。
いや、よく聞くと、音が二重になっている。
いつの間にやって来たのか、フウヤがシンリィと差し向かいで口琴を奏でていた。
シンリィはフウヤの見よう見まねで、なかなか綺麗な音を出せるようになっている。
二人でビォンビォンと調子を合わせて揺れていると、子鬼のダンスのようだった。
「お前、めっちゃ上達早いな。よし、僕の一番弟子にしてやる」
「フウヤ、ナーガ様の連れの方なのよ」
「お姉ちゃん、お昼ご飯!」
フウヤは唇を尖らせて、背負っていた布袋をズイと突き出した。
「いいじゃん、ナーガさまは偉い大人だけれど、こいつは僕と同じ子供でしょ」
「フウヤ・・」
「いや、いいんです、フウリ」
ナーガは実はちょっと感動している。
フウヤと向かい合っているシンリィは、まるで普通の子供みたいなのだ。
言葉を発しないのは変わらないが、修練所のどの子供の前でも、こんな頬を上気させた解(ほど)けた表情はしなかった。
(馬が合うって奴なんだろうか。友達って無理に作ろうとしなくても、こんな風にひょんと出逢う物なんだろうな)
「この子はシンリィ・ファっていうんだ。すまないけれど、言葉をまだ覚えていなくて……」
「ふうん、うん、オッケー」
フウヤはサクッと受け入れた。羽根にも興味はあるだろうけれど、聞かない。
様々な者が訪れる風露の関では、ヒトの『変わった所』や『変わった事情』を気にしない嗜(たしな)みが染み付いているんだろう。
四人で輪になってお昼を済ませた後、小さな事件が起きた。
シンリィの弾き損ねた口琴が、思いのほか飛んで、塔の外へ落っこちてしまったのだ。
「はぅ……」
大層ショックを受けた様子で崖っぷちから覗き込む。
下は霧に阻まれて何も見えない。
「気にしなくていいわよ、フウヤ、他にも沢山あるんでしょ」
「うん……でもお姉ちゃん、初めて音を出した楽器って、他のとは違うんじゃないかな」
「…………」
フウリが黙らされた。
このフウヤって子なかなか面白いなと、ナーガは改めて彼を見た。
他の風露の民と違って髪は真っ白、いたずらっ子らしい釣り目も色があるかないかのグレーだ。
(混血なのかな)とも思うが、風露の民に習って深く聞くのはやめておこう。
「この下ならイワタケの岩場だよ。案外すぐに見付けられるかも。ひとっ走り行って来るよ」
フウヤは身軽に駆け出し、梯子を二段飛ばしに渡って行った。
向かいの山で山菜やキノコ採りをするのは、職人になる前の子供達の仕事だ。
「あっ?」
シンリィが止める間もなく、フウヤの後を追った。
「お、一緒に行くってのかい? よし、ちゃんと着いて来いよ」
霧の向こうの山の斜面から声だけ聞こえる。
「フウヤ、その子はお客様なのよ」
「こいつが来たいんだからいいじゃん。こっちだ、行くぞぉ」
霧の向こうの声が遠ざかってさら、口元を押さえて黙っているナーガを、フウリは不思議そうに覗き込んだ。
「いえ、シンリィが、あんなに積極的に他の子供に着いて行きたがるなんて……初めてなんです。めめしいですよね、これしきの事で感極まるなんて」
「まあ、フウヤのどこを気に入ってくれたのでしょう。でも、あの子もきっと嬉しいと思いますよ」
二人は二胡を持ち直して稽古に戻った。
下手くそなナーガが何とか六段目まで弾き通せるようになった頃、太陽はかなり傾いていた。
しかし子供達が戻らない。
「そんなに遠くはないんですが」
「子供二人だし、山遊びに夢中になっているんじゃないですか」
「いえ、遊びながら歩くような道ではないですし」
「え・・?」
「かなり急な角度ですから、這いずって歩くような」
「えっ、えっ?」
「崖を降りて、最後の急な所は飛び降りて、イワタケを取って崖に張ったツタを登って帰って来る道なんです」
「えええっ!」
「??」
のんびり構えていたフウリも、ナーガの様子で、何か行き違いがあった事に気付いた。
「でも、あの子飛べるんでしょう? 羽根があるし……」
「!!」
ナーガは真っ青になって立ち上がった。
トンでもない勘違いだ。いや羽根があったら普通にそう思うのか?
だとしたらフウヤもそう思って油断しているのか?
とにかく運動神経ゼロに近いシンリィが、険しい崖を這いずってツタ登りしなきゃならない羽目になっているなんて!
不安な顔のフウリに気を配る余裕もなく、ナーガは関の小屋を飛び出した。
梯子の所で息せききったフウヤと鉢合わせする。
「ナーガさまぁ!!」
フウヤ一人だ。背筋に冷や水が流れる。
「シ、シンリィが、落ちた!!」
心臓が凍り付いた。
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