草原の子・Ⅰ
文字数 3,044文字
息の出来ないノスリが長椅子に転がっている。
大机でもホルズがうつ伏せて、ヒクヒクと呼吸困難になっている。
入り口に突っ立っている不機嫌なナーガ。
「そんなに笑わなくったっていいじゃないですか」
「だ、だって、食い逃げの代金払わされて、ヒト買い呼ばわりされた挙句、その子供に逃げられたって?」
「全く、歴代長の中で多分一番愉快な長様になれるぞ、お前さんは!」
「はいはい、全然威厳のない次期長だって言いたいんでしょ? しょうがないですよ、僕は僕でしかないんだから」
「まあそうだ。だがその『僕』ってのもやめて、『我』とか『儂(わし)』とか、そろそろ権力者らしくしたらどうだ?」
「嫌ですよ。さすがに白髪のお爺さんになったら考えるでしょうけれど」
「ただいまぁ! あっ、ナーガ様、おかえりなさい。フウヤって子は? 俺、案内しますよ」
元気よく入って来た明るい髪色の少年は、小間使いのジュジュだ。
まだ修練所に通う学生で、放課後雑用を手伝いに来てくれているのだが、働き者で機転も利くので、ホルズに大いに気に入られている。
学業をやりながらでも正式な『見習い』に格上げしてもいいんじゃないかという話も出ているくらいだ。
「フウヤは来ない事になったんだ。まあ色々あって」
ホルズが適当に濁した。
「えっ、そうなんですか、楽しみにしていたのに」
「楽しみにしていてくれたんだ?」
「はい、俺らの世代って人数が少ないじゃないですか。何をするにもずっと同じ面子(メンツ)だったから、新しい子が来るって聞いたら、みんな大喜びしちゃって」
ジュジュは両手を上に向けてがっかりを表現した。
「そうなんだ。すまなかったね」
「それと、上級生の女子達がめっちゃ盛り上がっていましたよ。あの女嫌いのナーガ様を射止めた絶世の美女の弟なんだから、さぞかし美少年だろうって」
「……えっ、ちょっ、待っ……!」
ナーガは泡喰って後ろを睨んだが、執務室コンビはあさっての方向を見てシラをきっている。
どこから漏れるんだ、まったく油断も隙も……
まあ、こんなんじゃ、硬派に独り立ちしたがっていたフウヤには三峰の方がよかったのかもしれないな。物事って成るように転がる物だ。
「そういえば、シンリィは?」
最近のシンリィは、修練所に通ったり子供達の輪の中にいたりと、ナーガにとって喜ばしい進化を遂げている。
相変わらず言葉を使わず、しつこく構うと逃げてしまうような所はあるが、最初に比べたら全然安心して見ていられるようになった。
「ああ、あいつ、今日は居残り」
「おっ、何かやらかしたか?」
ナーガよりもホルズが先に、ワクワク顔で身を乗り出した。
「罰当番じゃないですよ。ほら、秋には乗馬教習が始まるでしょ、あいつの学年」
「おっ、いよいよだな」
空飛ぶ草の馬は、蒼の妖精の象徴と言ってもいい。
子供達は修練所に入った七歳の秋に、生涯を共にする自分の馬を宛がわれる。
その瞬間、馬に対する責任が生まれる。
馬は主の資質に沿って成長し、みっともない馬に育ったら主にとってとても恥ずかしい事だ。
だから蒼の妖精は馬の為に自分を磨く。
草の馬と共に在り、草の馬と共に生きる。
別名『風の末裔の一族』と言われる由縁だ。
草の馬を造る技術は里内の特定の家系にだけ伝えられ、彼らによって生産されているのだが、実は草で編まれた馬型に命が宿る理屈は誰にも分かっていない。
ただ太古より伝えられた様式通りに祝詞を唱え編み上げると、『風の末裔(生身の肉体を終えた名馬)の魂』が引き込まれる……らしい。
この世の知識を蓄えた蒼の一族にだって、分からない事は分からない。
「シンリィ、羽根が重くていつもヨタヨタしているでしょ。馬選びも慎重にしなきゃならいだろうって、馬事係の頭領を呼んで、見て貰うんだって」
「そうか」
生涯を共にするのだから子供の馬選びは大切だ。一人一人の子供に合った馬を、馬事係と教職員で夏頃から何度も擦り合わせる。シンリィにもちゃんと気を配ってくれているんだなあ、ありがたい事だと、ナーガは単純に感謝した。
その頃修練所でどんな話になっているのかも知らないで。
夜も更けてから、サォ教官が重い面持ちで執務室にやって来た。
馬事係の頭領も一緒だ。
「の、乗せられないって、シンリィを? どうして!」
「今はまだ乗せられないって事です」
サォ教官は慌てて訂正した。
「羽根が重過ぎるんです。しかも自分の思い通りにならない。ある程度開いたり閉じたりは出来るんですが、閉じている力が弱いみたいです」
ナーガは思い返した。
確かにシンリィの羽根は、いつもだらしなく半開きだ。
鷹のようにきっちりたたまれていたカワセミ長の羽根とは大分違う。
馬に乗せる時は自分の前に羽根をクロスさせて乗せていたので、気にした事がなかった。
「一人で馬に乗せてみると、速足程度でも、風をはらんだ羽根に引っ張られて、転げ落ちてしまうんです」
馬事係の頭領が、その先を継いだ。
「ただの馬と違うんだ、空飛ぶ馬だ。馬事を仕切る者として、そんな子供に馬を配する訳にはいかねぇ」
「カ、カワセミ長はどうしていたんです?」
ナーガは動揺してノスリを振り返った。
「カワセミは、普通の鳥並みに羽根を自由に操れた。固くたたんでいる事も出来たし、そもそも七つの頃なんて羽根はあんなに大きくなかった……」
ノスリも声が上ずっていた。
考えてみれば当然の事なのに、気付いてやれなかった自分に悔んでいる。
「大きくなって風圧に負けない体力が身に着いてからだな。それしかないと思いますぜ」
頭領の言葉に、誰も反論する余地はなかった。
二人が去った執務室。黙っていたホルズが口を開いた。
「あのやせっぽちが大きくなるって、いったい何年先だってんだ。なあ親父、『長の決め事は絶対』の強権発動して、シンリィに馬をくれてやれんのか」
「無茶いうな。頭領の判断は筋が通っている。長が自分勝手な権力行使に走ったら『長の決め事は絶対』って掟その物が危うくなるんだぞ」
「分かってるよ、言ってみただけだよ」
ナーガは二人のやり取りをぼぉっと遠くに聞いていた。
シンリィがどんなに馬が好きかって事は、普段から分かっていた。
自分だってあの子がユーフィのように自由に飛び回れる日を楽しみにしていたのだ。
(同い年の子供が皆馬を貰える横で、どんな思いをする事だろう……)
悲痛な面持ちの大人達の脇で、書類綴じを終えたジュジュがそろっと言った。
「あの、終わりました。他には……」
「お、おう、今日はもういいぞ、ご苦労だったな」
執務室を出て少年は、坂を登って居住地の反対側、放牧地方面に向かった。
下宿は放牧地を通り越して修練所の地続きにあるのだが、最近、帰り道によく会う奴がいる。
(今日もいた)
「よお、羽根っ子、執務室はお前のせいでお通夜みたいになっていたぞ」
月明かりに照らされる土手の上、羽根を揺らして子供が振り向いた。
最初の頃の危うい感じは薄れているが、相変わらずこうやって独りでいる事が多い。
「今日はもう帰った方がいいぞ。エノシラさんにだって話は行っているんだろうし、きっと心配しているぞ」
子供は土手を下りて、ジュジュに小さく手を振り、自宅のある山茶花(さざんか)林の方へ歩いて行った。
あの子は毎日ここで何を考え事をしているんだろうな。
少なくとも、大人達があれこれ心配している事とは、まったく別方面な事を考えているような気がする。
少年は何となくそう思った。
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