欲しいモノ、あげたいモノ・Ⅰ
文字数 5,314文字
シンリィにとって、この世は複雑で分からない記号だらけだ。
だけれど、それらの隙間に、さまざまな仕掛けがひっそりと隠されている。
それは、とっても、不思議な事だ……
***
蒼の長の執務室は、坂の上の一段高い所に建っている。
里では珍しい石造りで、獣皮で造られた他の住居パオよりふたまわり大きい。
昼間は長の手足として働く者達が忙しく出入りする玄関デッキも、朝露に濡れる今はひっそりしたものだ。
ホルズの朝一番の仕事は、外部から届く手紙に目を通して本日の依頼を振り分ける作業だ。
依頼というのは、里の外、草原に点在する他種族から送られて来る、あれやこれやの頼まれ事。
蒼の里が……というより蒼の長が、考え方も習慣も違う多くの種族に、『規範』として頼られているのだ。
争いの調停・住み分けの取り決め等、第三者が介入した方が丸く収まりそうな事は真っ先に「じゃ、蒼の長様に伺いを立ててみよう」となる。
その他に、知識の伝授、ルールの制定、鬼が出た魔物が出た、井戸が枯れた呪われた、うちのシャーマンがこんな事言ってるんですけど等、もろもろの依頼・問い合わせが、文書やその他の伝達方法に乗ってやって来る。
税を取って治めている訳ではない。感謝の礼くらいはあるが、確約された見返りは無い。
何でこんな面倒な図式になっちまってるんだよと愚痴ったら、「昔っからこうなんだよ」と、父が身も蓋もない答えを返してくれた。
父のノスリはその面倒な長をやっている。三人でやっていたのが、二人に先立たれてしまって、今、目の下に隈を作って上を下へのおおわらわだ。
「子供の疳(かん)の虫が治まらないって、それは蒼の長に訴えるような案件か?」
頭をかきむしりながら手紙を整理し終え、一息付くつもりで玄関デッキに出た。
今日は春霞が薄く、草原の地平に遠くの山々が青くけぶって見える。美しい土地だと思った。
父が言うには、『本物』の蒼の長さえいれば、この図式でも全然大変じゃないらしい。
そもそも『本物』の蒼の長がいてこその制度なのだ。
『本物』とは、長の血筋とその能力『内なる目』を受け継いだ人物だ。
血筋にその能力の者が生まれなかった時代は、父のように複数人で話し合いながら長を務める。要するに、制度を継続させる為の代替え長だ。
(若い頃は、親父が貧乏くじを引かされている気がして、不満に思ったものだが)
成人して草原の外まで足を伸ばすようになり、里の力の及ばぬ場所の惨状を見ると、自分が当たり前に思っていた草原の平和は奇跡のような物だと知った。
多種多様な種族をまとめあげるのが如何に難儀な離れ業か。『内なる目』って奴は、バラバラの価値観を持つ異種族みなを納得させる『正しい答え』を導き出せるらしい。
確かに凄い。それが『信仰』なる物の糖衣を被っていたとしても。
昔っからその図式でバランスを保てて来たこの奇跡は、確かに守っていかねばならぬ物なんだろう。だから自分も、この美しい土地の平和を維持継続させる為に助力惜しまぬ一員になろうと……
「シンリィ、シーーンリィ――」
いい感じで決意を固めている所に、間延びしたのどかな声が聞こえて来た。
例の、自覚の無い『本物』野郎だ。ホルズはうんざりとそちらを見た。
坂の反対側から、群青色の長い髪のひょろひょろした青年が、周囲を見回しながら歩いて来る。
「また居なくなったのか? まったく首に縄でも付けときゃいい」
ホルズにとってこの青年は幼い頃から面倒を見た弟のような者なので、次期長だろうと口に遠慮はしない。
「まさか、山羊の仔じゃあるまいし。昨日お腹をこわして苦い薬を飲ませたから、ヘソを曲げたのかもしれません」
すぐに居なくなる目の離せない子供を捜して歩くナーガの声は、里の朝の風物詩になっていた。
「お前、『内なる目』が使えるようになったんだから、そいつで捜しゃいいじゃないか」
「簡単に言わないでください、あれ使ったら目が回ってしばらく起き上がれなくなるんですよ。それに里では同じ血の者が多すぎて、僕の能力じゃシンリィだけを判別するなんて無理です」
「情けねぇ次期長様だな」
「そんなにいっぺんに色々出来るようにはなりませんよ。いいじゃないですか、そんな事。それより今はシンリィを……」
(こいつが長になっても、全然大変じゃなくならない気がする……)
ホルズは溜め息して、デッキの柵に頬杖付いた。
「なあナーガ、お前さん、あの子に手間を取られ過ぎてやしないか?」
「はあ、言葉を覚えれば、修練所に通わせる事も出来るんですが」
里へ来て一ヶ月。
あの羽根の子供は、いまだ迷い込んだ雛鳥のように、ビクビクと落ち着かない。
正直ここまで馴染まないとは思わなかった。ナーガが七つで里へ来た時、さして苦労していた記憶はないし、ユーフィなんか来た瞬間我が物顔だった。
言葉だって、もっと気楽に考えていた。
皆で話しかけている内に自然に覚えるだろうぐらいに思っていたのだ。
しかし大人がいくら教えようとしても、まずガンと口を開かない。
身振り手振りのコミュニケーションには反応するものの、言葉は頑なに受け付けない。
言葉で自分の意思をヒトに伝える事をしないのは、七つにもなる子供としては、とっても困る。
本人は意外と困らないのだが、周囲が困る。
「七年間言葉なく育ったとしても、この一ヶ月はナーガが話し掛けながら暮らしたんだろう?」
地声の大きなホルズは、ちょっと声を潜めた。
「ナーガ、あの子は七つにしては、ちょっと、その……頼りない。仮にも七つっていうと、修練所に通い始めて、秋には人生を共にする馬を宛がわれる。お前さんは長になろうと決意した。そんな歳だ」
ナーガは口を結んで目をそらした。
ホルズが遠回しに言いたい事、里の皆も何となく囁いている事だ。
悪魔は子供の脳ミソも喰い潰してしまったんだろう……と。
「なあ、ナーガ。お前さん、長になるまでまだまだやっとく事が山積みだ。何度も言うが、シンリィはノスリ家で引き取ってもいいんだぞ」
最初はホルズの末妹がシンリィの面倒を見に通ってくれていた。
しかしすぐに引き受けた事を後悔し始め、子供はしょっちゅういなくなるしで、気まずくなって自然消滅的に来なくなってしまった。
そういうゴタゴタもナーガの悩みの種なのだが、ホルズはあまり気にしていない。
「その、アイツの事だが」
悩めるナーガにお構いなしに、ホルズはズイッと迫った。
「ちっとやそっとでよく知りもしない子供の世話なんぞ引き受けないぞ。あいつそれだけお前さんを憎からず思っているってコトで……」
「あ――! あっちを捜して来ます!」
ぶっち切ってダッシュで逃げる青年を、ホルズはもう一度溜め息を吐きながら見送るのだった。
***
「冗談じゃない」
執務室から放牧地に向かう坂を駆け下りながら、ナーガは口の中で呟いた。
昔は大勢いたらしい長の血筋の能力者も、血が薄まって、今じゃ滅多に生まれなくなった。
貴重な男子がもうそろ年頃だぞとばかりに里の老人達が持って来る山のような縁談にも辟易しているのに、最近はノスリ長やホルズまで、隙あらば話を差し込んでくる。
ノスリ長の「なんだったら後宮作ってもいいんだぞ」発言も、冗談に聞こえなくて怖い。
「でかい羽根を持った小悪魔だけでも持て余しているのに」
これ以上ヒトの面倒を見る余裕なんかあるもんか。
女性なんて、なんだかんだ言って、結局面倒をかける権化なんだ……
坂を下った所に山茶花(さざんか)の灌木帯があり、その奥に踏み入ると、地面にパオの形の大きな焦げ跡がある。
表の居住区の焦げ跡はほとんど塗りつぶされているが、ここはポツンと手つかずだ。
焦げた円の真ん中に立ってみた。
七年前、カワセミとユーフィはここに暮らしていた。
所帯を持ったんだから新しい住まいを建てればいいのにと言う周囲に、二人は笑いながら首を振って、古い小さなパオに住み続けた。
あの日、予定よりかなり早く産気づいたユーフィは、医療院へ移動する余裕もなく、産婆と助産師を呼んで、ここで出産した。
結末は、里の者ほぼ全員が知っている。
「ナーガ様……?」
細いかすかな声がした。
振り向くと、一人の少女が大きな洗濯カゴを抱え、山茶花の中に立っていた。
まだ色の薄い前髪をきれいに切り揃え、そばかすだらけの、鼻より頬が高いまん丸顔は、見覚えがある。
「あ――えっと……」
「エノシラです。先月名前を頂いたばかりの」
「ああ、エノシラ」
ノスリ家の親戚筋の、何度か見掛けた事はある娘だ。
「何か?」
「いえ……」
少女は口ごもった。
用事もないのに声を掛けられるのは昔っから慣れているが、余裕のある時だけにして欲しい。
「シンリィ、見ませんでした?」
「ああ、あの子供? ごめんなさい、今日は見ていないです」
「そう、ありがとう」
立ち去ろうとするナーガに、少女は凄く勇気を振り絞った感じで声を掛けた。
「あっ、あの、あの」
「はい?」
「今、ちょっとだけ、お話していいですか?」
「……いいですよ」
ナーガはなるべく穏やかな顔を作って少女に向いた。どんな些細な、ナーガにとって脱力するような事でも、きちんと向き合って聞くのは彼の生業(なりわい)だ。
少女は長いおさげを後ろに垂らしてナーガを見上げ、姿勢を正して息を吸った。
「あの、あたし、助産師になる事にしたんです。春から医療師のオウネお婆さんに弟子入りして、色々習っていて、その……」
ナーガが黙って話の核心はまだかと待っているので、少女はしどろもどろになって来た。
「今日もこれからオウネお婆さんの所へ行って、まだ雑用しかやらせて貰えないけれど、毎日叱られてばかりで……あのあの、えっと……」
ああ、この少女は、将来の道を決めたのを次期長殿に報告して、何か弾みをつける事を言って貰いたいんだな。彼女にしたら大切な事なんだろう。
「険しいが、良き道を選びましたね。今はこつこつ頑張りなさい。何事も近道はありません。頑張るヒトの前には必ず道が開けますからね」
ナーガは判で押した台詞を優しく言った。
しかし少女は瞳を大きく開いて、ブルブル震えだした。
「本当? 本当にあたし、助産師になってもいいんですか?」
「??」
「お怒りを貰うかと思って、ずっと心配で……」
「?? 貴女の目指す物に、口を差し挟める者などいないでしょう?」
よく分からずありきたりな事を言うナーガに、少女は瞳を潤ませて手を合わせた。
「あ、ありがとう……ありがとうございます。今日、ここへ来てよかった」
「??」
その時、朝一番の鐘が鳴り、少女は慌ててカゴを抱え直した。
「大変、遅れちゃう!」
身を翻しながら、もう一度ナーガを振り向く。
「挫けそうになった時ここへ来て、自分の行き先を確かめるんです。母さんの出来なかった続きを出来るようになろうと。お会い出来てよかったです」
ナーガは雷に撃たれたみたいに茫然と少女を見送った。
彼女の母親が誰だったか、今やっと思い出したのだ。
ユーフィがシンリィを産み落とした時……悪魔の黒斑を持って生まれた赤子を見て一番パニックを起こしたのは、助産師の一人、エノシラの母親だった。
とても妹には聞かせられない言葉を泣き叫ぶ彼女を抱きかかえて産屋から遠ざけ、パニックが伝染して悲鳴を上げる他の女性達をなだめている間に、妹と赤子は姿を消した。
考えたってどうしようもない、時間は戻せない。彼女達を責めるのは筋違いだ。悪魔の病が怖いのは当たり前だ。
頭で分かってはいるのだが、ナーガは出産に立ち会った女性達によそよそしくなった。
それどころか女性全般に……何というか、幻滅してしまったのだ。
そう言うと大袈裟なのか? しかし元々あまり接しなかった女性って奴と、全く関わりたくなくなった。
出産という、男性には立ち入れない厳粛な現場であんな修羅場に遭遇してしまったんだから、心の外傷の一つでも負ったんだろうと自己分析してみたが、分かっていてもどうしようもなかった。
エノシラの母親もまた、悪魔の犠牲になった。
ユーフィの出産の時ではない。あの時は結局、産婆も助産師も、誰も感染しなかった。
里に悪魔が降りたのは、それから二年近く後。人間界の病禍が下火になって、油断が出た隙だった。
里の端からいきなり広がった災厄は、炎が舐めるように多くの命を削り取って行った。
羅患者を隔離する場所に、どうしても、病人を世話する覚悟を擁した看護人が必要だった。
ノスリ長の妻のフィフィが先頭で名乗り出た。ずっと修練所の教官をしていた彼女は、患者の中の大切な教え子達を放っておけなかった。
エノシラの母親も進んで看護に加わった。彼女もまた、戻せない時間に苦しんでいた一人だったのかもしれない。
その娘のエノシラが、母と同じ助産師になると言う。隔離場所に向かう母親は、小さい娘に何を伝えたのだろう?
何ともいえない気持ちになった。
あんな少女ですら、傷を乗り越え、前を向いて歩き出している。
自分はいつまで足踏みしているんだろう。
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