欲しいモノ あげたいモノ・Ⅶ
文字数 3,685文字
夏草の香りにむせかえる。
ここは里の裏の放牧地。彼方の空が僅かに白み始めている。
薄明かりの中、エノシラはただ突っ立っている。
五感はあるが、地に足が付いている感じがしない。
去年壊れた筈の水車がちゃんと動いている。
(狼さんは願いを叶えてくれたんだ)
背後の気配に振り向く。
羽根の子供が所在なさげにそこに立っていた。
(こちらの術は出来るかどうか保証しかねるって言われたけれど、成功したみたいね、よかった)
エノシラは子供の手を取った。どちらの手も半透明だ。
ここは七年前の『地の記憶』。自分達は存在しない者。
「あんたにとって、これは夢。今頃おうちでスヤスヤ眠っている筈。さ、行こう」
言いながら手を引いて、草の中のある一点を目指して歩いた。
そこにうずくまる人影がある。
今しがた、あちらの灯りの付いているパオからよろけながら歩いて来た影だ。
近寄ると血のにおいがする。
空色の前髪は巻いた形で額に張り付き、荒い呼吸の懐で、小さな小さな赤子が息づいている。
(何も出来ない。虚しくなるだけって狼さんは言った。本当にそうだ)
それを聞く前は、子供の自分が赤子をひったくってカワセミ長に届けに行くつもりでいた。
それでも結局は沢山のヒトを悲しませる。母さんもナーガ様も苦しむだろう。あたしの自分勝手な自己満足だから、私利私欲にまみれたお願いという条件は満たしていると思った。
(でもそれが叶わないのなら、いっそ……)
お願いの内容をちょっと変えて貰った。
羽根の子供も連れて行ってあげたいと言ったら、狼さんは思いっきり眉間にシワを入れた。
それでもこうやって叶えてくれたんだから、いいヒトだ。
「ね、あんたのお母さんよ、お・か・あ・さ・ん……わかる?」
繋いだ手を離してやったけれど、子供はただ突っ立っている。
母親に一目逢わせてあげたいなんて、それこそあたしの傲慢な自己満足だったのか。
(だとしたら、このヒトが苦しみながら厩まで這って行くのを見せるだけになってしまう……)
「シンリィ」
小鳥のような声に、エノシラと、そして子供もビクンと揺れた。
「金鈴花(シンリィ・ファ)だわ。ねぇ、あたし、この花が一番好きなのよ」
女性の目の前の草の中に、咲き遅れた黄色い花が、一輪だけ残っていた。
「カワセミ様に持って行ってあげようね」
手折った花を赤子の包(くる)みの懐に差して、彼女は顔を上げた。
エノシラは我が目を疑った。
笑っているのだ。こんな状況で、この女性は微笑んでいるのだ。
「大丈夫だよ、カワセミ様がきっと何とかしてくれる。もし、何とかならなくても……」
女性は勢いを付けて、よろけながら立ち上がった。
「あたしがあんたを護るから。何があってもどんな事をしてでも護るから」
赤子を抱いて、一歩一歩厩に向かう。
それでも、少し歩いて、またうずくまってしまった。
当たり前だ。一晩かかったお産の直後なのだ。
何の手助けも出来ない拳を握りしめるエノシラの横で、羽根の子供がスッと動いた。
歩きながら両手で背中の羽根をブチブチむしり、女性の正面に立って……掌(てのひら)一杯のそれを、腕を伸ばして差し出した。
(あんた……)
欲望の赤い狼に対しても、この子は同じ事をした。
それは狼を苦しめた。彼の炎がみるみる小さくなって行ったのだ。
だからって、この子が狼に対して攻撃している風には見えなかった。
ではこれは、この行為は、この子にとって何なのだろう。
一度羽根を受け取ったエノシラには、何となく分かるような気がする。
ヒトの生きる原動力は『欲望』だけではない。
(あんたは欲しがる事をしない代わりに、ただあげたい気持ちだけを持って生まれて来たんだね)
遠くの雲の切れ間から、一筋の朝陽が射した。
温まった風が羽根を舞い上げ、女性の前にハラハラと落とす。
陽光をたたえた彼女の瞳に緋い色が映るのを、エノシラは確かに見ていた。
女性はもう一度立ち上がって踏ん張った。
「頑張らなきゃね。あんたもあんなに頑張って生まれてくれたのに」
そして正面の何もない空間に向けて、最上の笑顔を見せる。
「そう、生まれて来てくれてありがと。あたし、こんなに、嬉しい」
あたりが白いもやに包まれて来た。術が切れるんだ。
エノシラはさっきから、子供の後ろから腕を回して抱きしめている。
自分の頬から滴(したた)る涙が自分の腕を濡らしている。
そこに自分のじゃない涙も混じっていた。
明日の朝一番に、桃色の衣装を着てナーガ様の所へ行こう。
この子が何も欲しがらないのなら、こちらがただあげたい物をあげればいい。
エノシラはハッと顔を上げた。
氷の神殿の長椅子の上。
隣の女性の白い指が、自分の指にギュッと絡まっている。
「ごめんなさいね、強引に覗いてしまって、重い記憶を繰り返させて」
女性は顔をそむけながら、丁寧に指を離した。心持ち声が上ずっている。
「あ、いえ……」
強引に覗かれたのは構わない。これは誰も知り得なかった筈の記憶で、現在(いま)を生きるヒトに話していい物かどうか、自分には判断出来なかったから。でも、この方にはきっと必要だったのだろう。
それにしても、ナーガ様は自分の母は大した術は使えないと仰っていたけれど、これは大した術ではないのだろうか。長様基準って分からない。
「先に居間へ行ってナーガの相手をしていて下さいな。私(わたくし)もすぐに行きますから。ほら、滅多に来てくれない息子の前で、湿っぽい顔をしていたくないでしょ。本当にごめんなさいね」
女性の声がだんだん繕(つくろ)えなくなって来ているのに気付いたエノシラは、慌てて立ち上がった。
居間では、ふてくされたナーガが所在なさ気にお茶のスプーンをかき回していた。
エノシラが一人なのを知ると、ひとしきり母親の愚痴を話し出した。
とりとめのないそれを聞きながら、エノシラはぼぉっと考える。
狼さんは、欲望の強い者ほど自分が恐ろしい姿に見えると言った。
ではあの羽根の子供の目に、彼はどう映っていたのだろう。
離れた山の凍った頂、背中を反らせて伸びをする赤い狼。
(本当に、嫌な所ばっかり似やがって、あの空色の巻き髪の娘に)
『願い? あたしの願いは特に無いわ。術なんかいらない、ナナを困らせるもの』
『カワセミ様の心が欲しかろうって? バカね、自力で振り向かせなきゃ意味ないじゃない』
『どうしてそう度々あたしの前に現れるの? そうだ、ならあたしがあんたのお願いを聞いてあげるよ。だってあんた、そんなに儚(はかな)げで、いつもとっても苦しそう。ね、あたし、あんたの為に何が出来る?』
「冗談じゃねえ。あの言葉にどれだけ魔力を吸われた事か。炎が消えちまって何年も動けなくなって……くそ! 肝心の時に現れてやれなかったんだ……!」
***
「はぅあっ! 遅刻よぉお――!」
胸に子供の手形のある服を着たそばかす娘が、里の奥の道を全力疾走している。
その手には、手形の主の小さい手がしっかり繋がれていた。
途中、執務室を出て仕事に向かう髪の毛一本隙のないナーガとすれ違う。
「また寝坊ですか?」
「起こしてくれるって言ったじゃないですか!」
エノシラはその場足踏みし、シンリィも楽しそうにチョコチョコ真似をしている。
「起こしましたよ、パオの外から。返事しましたよ、確かに」
「耳元で優し~く起こしてやんなきゃ」
ノスリが混ぜっ返して追い越して行った。
「今の家族から独立して住む家が欲しいんです」
そう言ってエノシラは、山茶花(さざんか)林の円の焼け跡の場所に住みたいと願い出た。
中古のパオでいいと言ったのに、ノスリ長は新品の小綺麗なパオを設えてくれた。
そうして、ナーガは今まで通り長の家を守り、シンリィは二つの家を行き来して、意外と上手く収まっている。基本『お母さん』と寝起きし、たまにナーガの側にもいるって感じだ。
「この子はバカじゃあない。やっちゃイケナイ事はやらないさ」
オウネ婆さんはそう言って、弟子がコブ付きで修行に通うのを、あっさり認めてくれた。
お陰で執務室も遠慮なくナーガをコキ使えて、ホルズもホクホクだった。
先日驚いた事に、あの厩で出会った子供達の中に、シンリィが居た。ごく自然に当たりに、輪っかの端っこに加わっていたのだ。
子供の方が余計な算段をしない分、話が早いのかもしれない。修練所に通える日もそう遠くないだろう。
二人を見送って、ナーガは馬繋ぎ場でノスリに追い付いた。
「危なっかしい二人だな。『お母さん』どころか、子供が二人で暮らしているみたいだぞ」
言っている事と裏腹に、ノスリの口調は穏やかで楽しそうだ。
そう、完璧主義のナーガが世話しているより、今のシンリィの方が、安心して見ていられるのだ。
「元来『お母さん』ってそんなモンじゃないか? フィフィも毎日上を下への大騒ぎだった。多分……」
ユーフィが生きていてもそんな感じだったんじゃないか……という言葉は口にしなかった。
~欲しいモノ あげたいモノ・了~
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