山の子谷の子・Ⅰ
文字数 3,175文字
「いいなあ、鳶は」
初夏の三峰の岩尾根で、スラリと手足の長い少年が、空を見上げて呟いた。
赤っぽい黒髪に鮮やかな絹織りのバンダナ、髪の両側に垂れる派手なビーズ飾りは、この辺りの山岳部族(ハイランダー)特有の物だ。
「ヤン!!」
尾根の下から狩猟化粧の男が叫んだ。
「呆けているんじゃない! 鹿はどっちへ行った!」
「あ、えと……」
少年は慌てて谷を見渡す。自慢の視力が灌木の僅かな揺れを見止めた。
――ヒュ――ピピピピ――
指笛の音色と長さで、獲物の居場所を谷の仲間に知らせる。目のいい自分の役割だ。
これが出来るから、まだ成人の歳ではないけれど、狩猟に同道させて貰えている。
大きな獲物を担いで、男達が集落に帰還する。
出迎えの女達が労い、巫女が祝詞(のりと)をあげて厄落としの儀式を行う。
若者が極端に少ない。
ヤンが幼児の頃流行った疫病で、同年代の子供が根こそぎ失われたからだ。
「族長、イフルート族長! ねえったら!」
賑々(にぎにぎ)しい人混みをかき分け、男達の中心の鷲羽飾りの逞しい男性に、ヤンはやっと辿り着いた。
「今日の牡鹿の角は僕が貰う順番だ。この間約束してくれたでしょう!」
「ああ、ヤン、今日はよくやった」
イフルートと呼ばれた男性は、包容力のある優しい瞳を少年に向けた。
「しかしずっと追い続けていたあの牡鹿が『たまたま』今日仕留められたのは、『偶然』かい?」
「…………」
「まあ、約束は約束だ。角を手に入れてどうする?」
「麓の街の市の立つ日に持って行って、馬と交換するんだ」
「お前、まだそんな事を……」
三峰の集落は、幾重もの尾根と切り立った崖で構成された、大きな洗濯板みたいな地形にある。
狩猟に馬は役に立たない。
家畜は乳を出す山羊と毛を採るヤクが主だ。馬を養う習慣はない。
「僕は、自分の乗用馬が欲しいんだ。家畜小屋の端も確保してあるし」
「……やれやれ」
族長もそうだが、この集落の大人は数の少ない子供に甘い。
「乗用馬は猫のような愛玩動物とは違う。きちんと自分で管理するんだぞ」
「うん、勿論! ああっ、その角、僕の! 僕の――っ」
少年は解体される鹿に向かって、また人混みをかき分けて走って行った。
「いいのか族長。馬なんか持たせたら、外の世界に憧れてここを出て行ってしまうかもしれんぞ」
側近らしい男が、横から渋い顔で進言した。
「それはそれで構わんさ。見分を広めて戻って来てくれれば」
「戻って来るとは限らんぞ」
「来るさ、俺はちゃんと戻ったろ?」
鷲羽のイフルートは若い頃、放浪癖があった。だけれど、どこに何年出掛けても必ず戻って来た。
そして帰って来る度に、新しい便利な知識をこの集落にもたらした。
今でも彼の豊富な知識は度々皆の役に立っている。
だから若い者はどんどん外に出て世界を見て来るべきだと、彼は考えている。
「それに外に出てこそ分かるのさ。三峰のこの山がどれだけ掛け替えのない物かって事がな」
側近の男は首をすくめて苦笑いをし、族長は角を掲げて満面の笑みの少年を目を細めて眺めていた。
角と肉を抱えて自宅に戻る途中、桑畑の小高い所で、ヤンはまた空を見上げた。
夕焼けに色付く雲の間、数頭の騎馬のシルエットが見え隠れしている。
あちらの草原地帯を統べる、蒼の一族の空飛ぶ騎馬だ。
どこかへの通り道になっているのだろう。この時間によく見られる。
「カッコいいなあ」
種族が違うんだから自分が飛べないのなんか分かっているのだが、憧れるのは自由だ。
憧れに近付く第一歩が、彼にとっては馬を持つ事だった。
***
霧深い風露(ふうろ)の谷に、様々な楽器の音が響く。
朝イチの音合わせの時間。
今なら皆、音に集中しているから、怪しい動きをしても見つからない。
白い猫毛の少年は、小さな風呂敷包みを背負って、山の近くの塔の壁を降りていた。
表の梯子を渡ると関の番人に見つかるからだ。
張り出した木の枝を掴み、幹を伝って山の斜面へ辿り着く。久々の苔とシダの匂い。
もう一度、風露の集落を振り返る。ミルク色の霧に包まれた、生まれ育った尖塔の谷。
門外不出の技術を守って、世界に広がる音色を削り出す事に一生を捧げる風露の民。
少年もその一員でいるつもりだった。
「ごめん、お姉ちゃん……」
「フウヤ!?」
尾根の裸地を歩く少年の前に、深緑の草の馬が降りて来た。
「どうしたの、確かもう弟子入りだよね? 集落を出てはいけないんじゃなかったっけ?」
馬上には長い髪の蒼の一族の男性。曇り一つない額に翡翠の飾りが揺れている。
まったく何で、今日という日に、このヒトに見付かっちゃうんだよ。
「ナーガさま、どうしても行きたい所があるの。見なかった事にして貰えない?」
風露の谷より少し離れた、山の麓の川沿いの集落。
川の浅瀬に桟橋が作られ、女達が布を晒している。
それらを見渡せる崖の上に、ナーガとフウヤが立っていた。
「『川柳(かわやなぎ)』と呼ばれる集落はここだけだよ」
「ありがと……」
結局しつこく問いただされ、馬で送って貰う流れになってしまった。
あまり世話になりたくなかったのだが。
「フウヤが会いたいヒトって、あの中にいるかい?」
「……」
「遠過ぎる?」
「顔を知らないんです」
「??」
ナーガは怪訝な顔をした。
てっきり、山で見かけた女の子に一目惚れでもして会いに来たかった……ぐらいに思っていたのだ。
「えと、誰なの、フウヤの?」
「……おかあさん……」
「えっ?」
フウヤは、話す事にした。下手にごまかしてもしようがない。
「僕のおかあさん、風露のヒトじゃないの」
「そう……」
ナーガは言葉少なに頷(うなず)いた。
風露の民からかけ離れた彼の外見から、それは気付いていた。
「おとうさんは分からないけれど、多分ここにはいない」
「……」
「僕のおかあさん、お腹の子供と一緒に神様の所へ行こうと、山をさ迷ってたって。雨の日に」
「……」
「そんで、風露の集落に助けられて、大人のヒト達で色々、色々話し合って、僕は風露の子になったの」
「……そうか」
ナーガは小刀を取り出した。
「左手を出して。少し我慢しなさい」
少年の薬指の先を小刀で突くと、赤い血の玉が膨らんだ。その指を右手の薬指と血で張り付ける。
ナーガが呪文を唱えると、重ねた両手がすうっと動いて、前に突き出された。
「君の血が呼ぶのは、あのヒトだね」
目の前のくっ付いた薬指の指す先に、一人の女性がひときわ鮮やかな布を川に浸していた。
他の女性に比べて肌も髪も色が薄く、そしてフウヤと同じ猫みたいな釣り目。
フウヤは口をキュッと結んで、その女性を見つめた。
「穏やかな感じのヒトだね」
「うん」
「きっともう、神様の所へ行こうとはしなさそうだね」
女性の周囲に小さい子供が二人まとわり付いていた。女性と同じ髪色の猫目の子供。
「会って行く?」
「ううん、一目姿を見て、けじめを付けたかっただけ」
「そう、じゃあ帰ろう。掟破りがバレちゃう前に」
ナーガは少年の両肩に手を置いた。
「帰らない」
フウヤは首を横に振った。
「僕は風露の民にはなれない。音が全く分からないもの」
「えっ、いや、それは……音が分からなくても出来る事はないのか?」
「お姉ちゃんは、漆とか彫金とか細工専門の職人になればいいって」
「うん、フウヤ器用だもの、それでいいと思うよ」
フウヤはフッと能面みたいな顔になった。
「自分の人生を『それしかないからそれでいい』って、そんな決め方したくないと思う」
ナーガはぐっと詰まった。今、この子をとても傷付けてしまった。
そんなナーガには無頓着に、白い猫毛の子供は振り向いて笑顔を作った。
「要するに、僕は風露を出た方が道がいっぱいあるって事。今すっごいワクワクしてるんだよ!」
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