第36話 静穏と傷痕

文字数 1,605文字

 田植えが終わった。
昭和二十六年の春。悟が率いる一座が、七年ぶりにW村へと巡業にやってきた。
滞在するのは、今回も月子の家の離れだった。

 克輝の言う通り、やってきた一座の中に龍の姿もあった。

「やあ」

 龍のほうが、月子を見つけるのは早かった。最後に耳にしてから五年以上の歳月が経っているのに、その声は月子にとって、最も馴染み深い音を持っている。

「元気そうだね」

 荷物を部屋に運び込み終え、廊下へと出てきたところだった。出くわした二人は、しばしお互いの姿を観察しあった。
 月子の方は、自分でもさして外見に変化のないことを自覚していた。食糧難が戦後直後より多少ましになり、手に入る食材も増えてはいたが、体型に大きな変化をもたらすほどではない。
 一方で、月子は龍の姿に息を飲んでいた。

「どうしたの、その顔」

 挨拶もそっちのけで、思わず彼の頬に触れようとして、手を引っ込める。

 龍の顔は、元の形良い輪郭の線が分からなくなってしまうほどに、無数の傷痕で覆い尽くされていた。皮膚をえぐり取られたかのような、痛々しい痕である。白磁のように滑らかだった美しい皮膚は、見る影もない。
今にも血が滲み出てきそうな痕もあれば、膿が溜まって膨らんだ箇所もある。淡黄色の膿がてらてらと光っており、表面に出来た凹凸が、顔の上に複雑な影を作っていた。

「まさか、鱗を剥いだの?」

 すっかり別人へと変貌してしまっていた。眉すらなくなっていたので、かろうじて龍と分かるのは、たった今聞いた彼の声。そして、月子を見つめる、灰青色の穏やかな瞳があったからだ。陽の光が廊下に差し込み、その瞳には黄赤の光も宿っていた。

「そうだよ。顔も身体も全て鱗に覆われてたら、生活もできなかったから」
「痛そう……こんな……どうして」

 まともな単語が出てこない。先程手を引っ込めたのは、あまりに痛々しそうで、触れたら龍が苦しむのではと咄嗟に思ったからだった。

 今度は、躊躇わずにその傷に触れた。美しい瞳のすぐ側、目尻に残る大きな痕である。楕円に残る穴の奥、黒色は血の塊だろうか。その上に新たな表皮が作られた痕跡はなく、鱗を抜いた直後のまま、その場所だけ時が止まっているかのようだ。

「身体の鱗も、取ってしまったの?」
「うん。全身こんな感じだよ。今はこの痕を見世物にしてるんだ。醜いでしょう」

 微笑みには、一欠片の哀しみもなかった。朗々と近況を話す龍を見つめながら、月子は胸元からお守り袋を取り出した。
 月子の手の中に、きらりと黄金色が輝いた。話していた龍の声が止まる。

「この鱗、私の宝物なの。ずっと大切にしてる」
 
 告げて月子は、もう一度龍の傷に手を伸ばした。ゴツゴツと固くなった表皮を、指先でそっと撫でる。

「お嫁に行くって聞いたよ」

 月子の指の動きを感じながら、龍は言った。

「おめでとう」
「ありがとう」

 手が離れる。
二人の表情に、変化はなかった。お互いの瞳に、柔らかい微笑が映る。

「東京に来るんだって?」
「うん。芽衣子姉さんの家から、すぐ近くらしいの。私、東京なんて土地勘全くないけど、自転車ですぐ会いに行ける距離なんだって」
「それは心強いね」
「一座も巡業しない時は、東京にいるんでしょ?」
「うん」
「じゃあ向こうでまた会えるかもしれないね」
「そうだね」

――ああ、なんだ。簡単だな

 月子はあまりの手応えのなさに、拍子抜けする思いだった。

――諦めるって、簡単なんだ

 怖かったのだ。
実はこの日、龍と対峙した途端に、抑えていた心の(たが)が外れるのではないかと考えていた。
 結婚も、両親も、家族も村も堅実な将来も何もかも捨てて、あの日落ちることのなかった橋の下へと、走り出すのではないかと。龍の腕を引っ張って、もしくは、彼の胸に縋りついて。

 しかし、そんなことは起こらなかった。代わりに今月子が体験している現実は、平常心で龍と当たり障りのない話題で談笑する、あまりにも静穏なものだったのだ。
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