第3話 由緒

文字数 1,486文字

 月子たちの住むW村は、K川のすぐ側に位置していた。川べりには等間隔に桟橋が並び、そこから小舟に乗り込んで、数分の後に海へ出る。海水と混ざり合うのか、K川の水は塩辛かった。

 浜からも程近いW村の村民たちは、殆が百姓である。K川の反対側には、山頂に薬師如来を祀るY山が聳え立ち、小さな村々を見下ろしている。Y山からの雪解け水がこの辺り一帯の米作を、豊かなものとしているのだ。
 暮らしぶりは質素だが、田畑の実りは安定しており、漁港からも近い。月子はひもじい思いをしたことはなかった。

 稲の種まきが済んでから二十日余り。
既に水門の開渠(かいきょ)は開かれ、土を細かくして田の表面をならす代掻(しろか)き作業も終わっている。

 田植え前の水を張った田は、まるで大きな一面鏡である。代掻きから田植えまでのほんの短い間だけだが、月子はこの巨大な鏡にY山が映り込む様が好きだった。

――飛び込んだら、あべこべの鏡の世界に、通じているのかしら

 もちろん、そんなことにはなるはずはない。田の中に飛び込んだら、全身泥まみれになった上に、大人達に呆れられるだけである。それ以上の出来事は起こらない。変わり者と称される月子でも、流石にそれくらいの分別はついている。

 けれど月子は、ここではない別の世界への妄想と憧れを、常に胸に抱いていた。
理由は分からない。変わり者と呼ばれることに、辟易しているわけでもない。他の子どもたちから仲間外れにされることもないし、野良仕事でも子守でも、億劫がらずに手伝う月子は、大人たちからは一定の信頼を得ていた。

 昭和十二年の春。月子はもうすぐ、九歳になる。
 彼女の日常は、祖父が亡くなったこと以外には、滞りなく過ぎていた。



***



 W村の人々の先祖は、かつて関東を広く支配した、後北条氏の家臣とされる。
小田原合戦にて主君を失い、この地まで落ち延び、何もなかった荒地を開墾してこの村が出来たのだという。

『他の子らには、内緒だぞ』

 祖父が月子に、蔵の奥で一振りの日本刀と、古びた(かぶと)を見せてくれたことがあった。

家の中で一人本を読んでいる月子を見つけては、昔話や歴史の話を聞かせるのが、祖父は好きだった。

『月子やじいちゃんのご先祖さまはな、北条の殿様に仕える、舞々太夫だったんだ』

『まいまい太夫? お殿様に、踊りを見せていたの?』

『ああ。そうかもなぁ。そして戦になると、この兜をつけて戦ったんだろうな』

『ご先祖様は踊りが上手だったんだろうけど、私はあまり得意じゃないや』

 田植えが終わった後と稲刈りが終わった後、年に二回、近隣の集落合同で祭りが開かれる。
三日三晩続く盛大な祭りで、夕方から夜にかけて大人も子供も踊るのだが、月子はその席が苦手だった。皆から何拍子も遅れた動きになってしまい、酔っ払った大人から「へたくそ!」と野次を飛ばされることが嫌いだったのだ。

 そんな風に語った月子に、祖父は優しく孫の頭を撫でながら笑ったものだ。

『月子は踊りが下手なわけじゃない。決められた動きに、丁寧に従おうとしているだけだ。他の奴らが、皆適当に踊っているだけさね』

 炎が爆ぜる音に、祖父の笑い声が重なった気がした。

「じいちゃん、ご先祖さまと同じところに行くんだね」

 不意に身体が軽くなった気がして、月子は立ち上がっていた。燃え続ける火の中に、祖父の身体だった塊が見える。
 肉の焦げる臭いがするはずだったが、慣れてしまったのか鼻がおかしくなってしまったのか、月子は何も感じなかった。

 腕を上げて身体を旋回させると、顔の周りに風が起こった。夜風は涼しい。

 月子は燃やされて小さくなっていく祖父の前で、丁寧に舞い続けた。
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