第39話 再生

文字数 2,426文字

 目が慣れてきたのだろうか。
どうも不思議だった。それにしては、よく見えすぎる。

 夜の闇とは、こんなにも月子に近しい存在だっただろうか。
 屋根の上を移動する時も、そこから飛び降りる時も、月子の足は迷わなかった。差し出される龍の手は、特にはっきりと目に映った。

 二人は家の敷地を抜け、あぜ道を歩いた。
 頭上に天の川が広がっている。雲が多いと思ったのは、気の所為だったか。
暗闇と星の海の中に、Y山の形が影絵のように黒く浮かび上がっていた。


***


 龍はあぜ道から逸れた場所に建つ、一つの納屋へと月子を誘った。
 中に入って、戸をすっかり閉じてしまう。光源が全くないはずなのに、月子にはうっすらと中の様子と龍の姿が見えた。農具についた土の香りと、夜の香りが立ち込めた空間だった。

「いつ結婚するの?」
「来月だよ」

 唐突な質問だったが、月子は戸惑うことはなかった。

「相手はどんな人?」
「さあ。どうだろう。よく知らないし」
「そいつのことが好き?」
「悪い人じゃなさそうって思ったけど、一度しか会ってないから。好きも嫌いもまだ分からない」

 正直な答えだ。来月には夫となっているはずのその人物とは、昨年見合いの時にしか会っていない。口数は少なかったが、言葉遣いの丁寧な人だった。そんな印象しか持っていなかった。

「分からないのに、そいつのものになるの?」

 龍が突然、月子を強く抱き寄せた。

「そいつとこんなことするの?」
「龍」
「嫌だ」

 月子を抱き竦め、龍は首筋に唇を走らせた。ザラザラした感触と、凹凸が肌の上を滑る感覚があった。月子は堪らず、彼の背中に自分の腕を回していた。

「君が好きだ」

 月子も龍のことを、強く抱きしめていた。

「私だって。龍のことが好き。誰よりも」

 心の裏側に追いやったはずの言葉が、こぼれ落ちていた。箍は外れてしまったのだ。

「僕と一緒になって」
「でも」
「いいから」

 龍は床に月子を組み敷き、唇を塞いだ。あの冬の日と同じように、月子は龍と繋がった唇から、強い熱が伝わってくるのを感じていた。

 そして顔が離れた時、曖昧にしか映していなかったはずの自分の目が、明瞭な龍の姿を捉えていることに気がついたのだった。

 龍の表情はいつも通り穏やかだったが、見下ろしてくる瞳は熱っぽく光っている。

――黄赤色だ

 色まではっきりと判別できる。
夜目が効くとは、こういうことなのか。月子は初めての感覚に酔い始めていた。

「もしその男のもとに嫁いだら、君の名字は何になるんだっけ?」
「松原さんになるの」
「松は松竹梅の松?」
「そう」
「ねえ、そんなの上手くいくわけないよ」

 月子の着衣を取り払いながら、リュウは低く笑った。

「月ちゃんが生まれ育ったこの村に、一本も松の木がないのは、何故なのか知ってる?」
「何の話……?」

 唐突な投げかけだった。月子は質問の意図が把握できず、ほんの一瞬状況を忘れて納屋の外へと意識をとばした。

 W村には、確かに松は生えていない。
潮風を防ぐための松が一本も見当たらない風景は、浜近くの集落では珍しいのだろう。なのでこの村のことを、近隣の村の者は時たまこんなふうにも呼ぶのだ――――“松無し集落”と。
その理由を、月子は気にしたことがなかった。それが当たり前の風景だったからである。

「この土地の神様は、美しい盲目の女神なんだ」
「神様?」
「目が見えなくなってしまった原因は、松の葉が彼女の目を刺したから」

 二人の言葉はしばし途切れた。長い口吻が始まったからだった。息継ぎを求めるくぐもった声と、捩った月子の身体がムシロの上を擦る音だけが聞こえる。
 唇がほんの少しだけ離れた、そのままの距離で龍は続きを囁いた。

「女神はそれ以来、この地に松の木を植えることを禁じたんだよ……ねえ、月ちゃん。君はその女神が守る土地で生まれ育った。そんな君が、産土神(うぶすながみ)が禁忌とした松の名の男の元へ嫁入りするの? そんなの無茶だよ。相応しくない」

 吐息は熱かった。身体のあちらこちらを、確かめるように龍の指が滑っていく。熱が生まれては消え、消えては生まれ、やがてその感覚は無くなっていった。

「なんで龍は、そんな神話を知っているの?」
「さあ、何故だと思う? ねえ、真名のこと覚えてる? 真実の名、本当の名。伴侶となる者と名付け親しか知ることを許されない、大切な名前のこと」
「覚えてるよ。緋奈さんの真名は、カランだった……」
「月子」

 低く深い声で、龍に名前を呼ばれた。その瞬間、月子は身体が裂けるような痛みを感じて小さく悶えたが、「やめて」とは言わなかった。今身体を離すなど、考えられないことだった。

「僕の真名を教えてあげる」

 首筋に唇を這わせながら、龍は告げた。

「ナーガ。父の国の言葉で、龍って意味」
「龍」
「呼んで。僕の真名を」
「ナーガ」
「……これで僕は、君のもの」

 満足気な声だった。ゆったりとした笑い声が、月子の浅い呼吸音と混じり合っている。

「あなたは神様なの? だから知ってたの? 女神と松の話を」
「さあ。どうだろう」
「もったいぶらないでよ」
「僕が神様だと思う? 好きな子の嫁入りを焦って、こんな場所で押し倒すような男を?」
「……違うかも」

 楽しげな龍の笑い声が響く。

 その時、部屋の中が昼間のように、ぱっと一斉に明るくなった。
また誰かに見つかったのか。咄嗟にそう思い、月子は身体を強張らせたが、しかし――――

「ああ。やっぱり君だけだ。こんなに僕の心を踊らせる」

 その言葉の後で、月子の口は再び塞がれた。視界が龍で一杯になって周囲の様子を知ることができなくなったが、唯一自由だった触覚によって、月子は驚くべき事実を発見したのだった。

――鱗が……鱗が生えている

 触れ合う素肌から感じるのは、ボロボロになって膿が溜まった皮膚ではなかった。

――沈む

 深い海の底へと誘われているようだった。龍の背中に回した腕が、龍の下肢に絡みつかせた脚が、心臓同士を合わせるように押し付けた胸が。

全身が水を感じていた。
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