第29話 奥座敷
文字数 1,450文字
月子はしばらくの間、奥座敷から出ることを許されなかった。仏間の更に奥に位置していて、普段は誰も用事がないので近づくことのない、狭くて小さな一室である。狭すぎるので物置としても使われず、ただ山積みにされた座布団だけが隅に寄せられている。その座布団が先日兄の通夜の場で使われたばかりということを、月子は覚えていた。
「龍」
右手を開けば、そこには一枚の鱗があった。黄金色で透けている。根本は赤黒くなっていて、それは龍の血液だろう。乾き切っていない証拠に、握り込んだ月子の掌も薄く染まっていた。
あの日。二人が最後に言葉を交わした時に、龍が月子の手に握らせたものだった。
「酷い目にあってない……?」
鱗に向かって話しかけたが、もちろん返事が返ってくることはなかった。
――龍は、もうこの村にはいない
あの夜以降。月子がこの奥座敷に入ってから、時折外から騒がしい物音や誰かの怒鳴り声、言い合う声が聞こえてきた。悟の声も龍の声も分からなかったが、騒ぎを落ち着かせるための父の大声はよく聞こえた。
『龍たち、東京に帰ったぞ』
座敷の襖越しに、小声でそう教えてくれたのは克輝だった。
月子も罰せられた身なのだ。仕置部屋から出ること、むやみに誰かが近づくことは、当分の間禁じますと母は告げた。
それでも克輝や晴子を始め、姉弟達は月子を気にかけてくれたのだった。
『すぐに出ていくことを条件に、表沙汰にはしないってことになったみたいだ。龍は大きな怪我はしてないよ。すぐにお前の父ちゃんが止めに入ってくれたんだ』
健三は一度も月子に会いにこなかった。奥座敷に入れられた翌朝、襖越しに『もう二度とこんな真似をするな』と短く告げられたきりである。その声はとても低くて、完全に感情を消したものだった。
***
「月子」
襖を叩く音が、月子を微睡みから引っぱり上げた。積まれた座布団の上に顔を押し付けていたので、視界がぼやけている。
「かっちゃん?」
「寝てたのか?」
「今何時?」
「もう夕方だ。ほら」
僅かに襖が開いて、隙間から芋が差し込まれた。細く小さなサツマイモなので、ほんの僅かな隙間でも余裕で通ってしまえる。
「ありがとう。でも大丈夫。かっちゃんが食べていいよ」
「いいから口に入れちまえ。昨日もろくに食べてなかったんだろ」
月子は食事を与えられていないわけではない。家族の食事の時間に合わせて、きちんと一人分の膳を晴子が運んでくれていた。しかし本当に空腹にはならないのだ。何日も飲み食いせずに平気だった龍ほどではないが、近い感覚なのではないかと月子は思った。
「動いてないし、お腹減らない。そもそも何も働いていないんだし、申し訳ないよ」
「そう思うなら、出てきてちゃんと父ちゃんと母ちゃんに謝りなさい」
晴子の声だった。克輝が息を飲む音が聞こえて、その後すぐに襖が完全に開かれた。
「ついて行ってあげるから。ほら」
「お姉ちゃん」
月子を立ち上がらせた晴子は、妹の身なりと乱れた髪を軽く整えてやった。
「母ちゃんはともかく……父ちゃんは怒ってないわよ。大丈夫」
「うん……」
月子は頷いて、姉の後に続いて奥座敷を後にしたのだった。
横に避けた克輝の前を、月子が「かっちゃん、ありがとうね」と言って通り過ぎていく。そんな幼馴染の少女の横顔を見た時、克輝は思わず、目を瞠ったのだった。
――あいつ、あんな顔だったっけ
いつもの彼女の双眸に、見慣れない黄赤色の光を見た気がした。その光のせいだろうか。知らない女を前にした時のように、克輝は緊張を覚えていた。
「龍」
右手を開けば、そこには一枚の鱗があった。黄金色で透けている。根本は赤黒くなっていて、それは龍の血液だろう。乾き切っていない証拠に、握り込んだ月子の掌も薄く染まっていた。
あの日。二人が最後に言葉を交わした時に、龍が月子の手に握らせたものだった。
「酷い目にあってない……?」
鱗に向かって話しかけたが、もちろん返事が返ってくることはなかった。
――龍は、もうこの村にはいない
あの夜以降。月子がこの奥座敷に入ってから、時折外から騒がしい物音や誰かの怒鳴り声、言い合う声が聞こえてきた。悟の声も龍の声も分からなかったが、騒ぎを落ち着かせるための父の大声はよく聞こえた。
『龍たち、東京に帰ったぞ』
座敷の襖越しに、小声でそう教えてくれたのは克輝だった。
月子も罰せられた身なのだ。仕置部屋から出ること、むやみに誰かが近づくことは、当分の間禁じますと母は告げた。
それでも克輝や晴子を始め、姉弟達は月子を気にかけてくれたのだった。
『すぐに出ていくことを条件に、表沙汰にはしないってことになったみたいだ。龍は大きな怪我はしてないよ。すぐにお前の父ちゃんが止めに入ってくれたんだ』
健三は一度も月子に会いにこなかった。奥座敷に入れられた翌朝、襖越しに『もう二度とこんな真似をするな』と短く告げられたきりである。その声はとても低くて、完全に感情を消したものだった。
***
「月子」
襖を叩く音が、月子を微睡みから引っぱり上げた。積まれた座布団の上に顔を押し付けていたので、視界がぼやけている。
「かっちゃん?」
「寝てたのか?」
「今何時?」
「もう夕方だ。ほら」
僅かに襖が開いて、隙間から芋が差し込まれた。細く小さなサツマイモなので、ほんの僅かな隙間でも余裕で通ってしまえる。
「ありがとう。でも大丈夫。かっちゃんが食べていいよ」
「いいから口に入れちまえ。昨日もろくに食べてなかったんだろ」
月子は食事を与えられていないわけではない。家族の食事の時間に合わせて、きちんと一人分の膳を晴子が運んでくれていた。しかし本当に空腹にはならないのだ。何日も飲み食いせずに平気だった龍ほどではないが、近い感覚なのではないかと月子は思った。
「動いてないし、お腹減らない。そもそも何も働いていないんだし、申し訳ないよ」
「そう思うなら、出てきてちゃんと父ちゃんと母ちゃんに謝りなさい」
晴子の声だった。克輝が息を飲む音が聞こえて、その後すぐに襖が完全に開かれた。
「ついて行ってあげるから。ほら」
「お姉ちゃん」
月子を立ち上がらせた晴子は、妹の身なりと乱れた髪を軽く整えてやった。
「母ちゃんはともかく……父ちゃんは怒ってないわよ。大丈夫」
「うん……」
月子は頷いて、姉の後に続いて奥座敷を後にしたのだった。
横に避けた克輝の前を、月子が「かっちゃん、ありがとうね」と言って通り過ぎていく。そんな幼馴染の少女の横顔を見た時、克輝は思わず、目を瞠ったのだった。
――あいつ、あんな顔だったっけ
いつもの彼女の双眸に、見慣れない黄赤色の光を見た気がした。その光のせいだろうか。知らない女を前にした時のように、克輝は緊張を覚えていた。