マリア襲来

文字数 7,096文字

 新カリキュラムに基づく道徳の時間が始まった。
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」 
 僕が通っている高校は、いつからミッション系のスクールになったんだ?
 昨日まで、普通の県立高校だったはずだ。
 それが、なんということだろう。
「ヨハネの福音書の最初の一説ですが、ここで言われることばとは、ギリシア哲学のロゴスに意味が近く……」
 教室の教壇には教会のシスターが立ち、『聖書』の講義をしている。
 シスターだ、本当にシスターだ。
 それでもって、シスターは路上ライブをしていたお姉さんだった。
 どうりで、讃美歌がうまいはず。
「時間が来ましたね。それでは、皆さんもご一緒に」
 校内放送を通して、パイプオルガンのバックミュージックが流れてくる。
 僕達は席を立つと、カンペを取り出した。
 腹式呼吸で、腹の底から声を出す。
 讃美歌の斉唱。
「救いの御子は~」
 神を讃える歌を歌いながら、自分はキリスト教徒ではないんだけど、いいのかな? 
「アーメン」 
 最後に、皆でヤハウェに祈ってから授業? が終わった。
 シスターが教室を出て行ったのを確認すると、クラスに弛緩した空気が漂った。
 授業中は居眠りは勿論、欠伸(あくび)一つしても、シスターから鋭い叱責が飛んでくるので、一瞬も気が抜けないのだ。
 優しそうなお姉さん――名前をマリアと名乗った――から、氷のような目で睨まれるのはマジで怖かったとは、今日の授業で大欠伸をした戌亥の体験談である。
「……えらいことになったな」
「本当にそうね」
 机に突っ伏している戌亥に声を掛けながら、ポンポンと肩を叩いた。
「昼飯の時間だぞ。食堂に行くか、それとも購買でパンでも買うか?」
「……今日はお弁当を持ってきた。動く元気もないから、教室で食べるね」
 口から魂でも抜けていそうな戌亥を残して、僕は食堂に向かった。
 腹減った、何を食うか?
 食堂に着くと、いつもと様子が違うことに気が付いた。
 飯時は生徒で混雑する食堂の一角が、なぜかぽっかりと空いている。
 改めて見ると、その空間には佐藤が一人で座っており、禍々しい空気を辺りに撒き散らしていた。
「俺は僧侶だ、仏教徒だ。なのに、なぜ神に祈らねばならないんだ。これは信教の自由の侵害だ……」
 ブツブツと呟く佐藤を見ていると飯が不味くなるので、僕は購買でパンを買うと中庭で食べることにした。
 食べることにしたのだが、中庭のベンチは全て先客に使われていた。
 仕方がないので、中庭の真ん中にある芝生が生えている所に腰を下ろす。
 そこには楠が枝を広げているので、日差しを避けるのもちょうどいい。
 思いの他でっかい楠で、三階くらいの高さがある。
 楠にもたれ掛かりながら購買の菓子パンを広げていると、困ったように辺りをうろうろと歩いている修道服姿の女性が見えた。
 手には藤でできたカゴ型のランチバスケットを持っている。
 昼食を取りたいのだが、場所が空いていないので困っているらしい。
 このままだと、昼飯を食いそびれることになるぞ。
 ちょっと迷ったが、声を掛けることにした。
「シスター、ここ空いていますよ」
 僕に気づいたマリアは一瞬きょとんとしたが、直ぐに笑顔になった。
「ありがとうございます。多田野君でしたね、ではお言葉に甘えることにします」
 近付いてきたマリアは白いハンカチを取り出すと地面に敷き、その上にちょことんと座った。
 そして胸の前で手を合わせると何事か称え始めた。
「天におられる主よ……」
 な、なんだ?
「清き食を恵みいただき感謝いたします。アーメン」 
 食前の祈りだったらしい。
 マリアはランチバスケットからハンバーガーを取り出すと、パクッと食べた。
 豪快に食べている。
 一口でハンバーガーが半分くらい無くなった。
 その調子で新たなナンバーガーが一つ、二つ、三つ……と、よく食べられるな。
 それでいて下品ではなく、きびきびと食べている姿から、どこか気品を感じるのはなぜなんだろう?
 おおっと、いけない。
 僕も昼飯の途中だった。
 そのまま二人無言で食べる。
 マリアは一しきり食べ終わると、ランチバスケットから保温機能が付いた水筒を取り出した。マリアが食後のコーヒーを楽しむ横で、僕はまだ食べていた。
 この人、食べるの早過ぎ。
 ほとんど噛んでないだろ。
「多田野君、今日は最初の授業でしたが、クラスの皆さんは随分と戸惑ったようですね」
 コーヒーを飲み終えて、食後の祈りを済ませたマリアが、答えにくいことを聞いてきた。
 どう答えたものか。
 口に入っていた最後の菓子パンを飲み込むと、僕は慎重に話し始めた。
 一年前のことがあるから、宗教の話題は地雷がいっぱいなのは分かっているつもりだ。
「そうですね、戸惑ったというか。道徳の授業なのに、なぜキリスト教の話になるのか、そのつながりがはっきりしないなぁと思います」
 そうだよね。
 加部首相は道徳心を養うとか言っていたけど、それが学校にシスターがいることになるわけ?
「いい質問ですね」
 変なスイッチが入った。
 マリアの目がキラッと光った気がする。
「それはですね……」
 うわ、話が長くなりそう。
 腰が引けた僕を救ったのは、始業十分前を告げるチャイムの音だった。
「残念ですが、これは次回の授業で話すとしましょう」
 名残惜しそうなマリアを残し、僕はそそくさと教室に戻った。
 教室に戻る途中で職員室の前を通りかかると、中から深刻な顔をした佐藤が出てきた。
「佐藤、顔色が悪いけど大丈夫か?」
 声を掛けるが、何かに気をとられて耳に入っていないのか、佐藤はそのままどぼとぼと歩いていった。
 途中でゴミ箱にぶつかったり、足元の段差につまづいたりと――大丈夫か、あいつ?
 前が見えていないだろ。
 佐藤の奇行を見守っていると、大河内先生が職員室の扉からぬっと顔を出した。
「多田野か、丁度良かった。悪いが放課後になったら進路指導室まで来てくれ」
 え!
 何かやったか、僕。
「説教や注意とかじゃないから。ただ、聞いておきたいことがあるだけだ」
 動揺が顔に出ていたのか、大河内先生はあっさりと否定した。
「説明したいのやまやまだが、時間が無い。詳しいことは、そのときに。では、後でな」
 言いたいことだけ言うと、大河内先生は職員室に引っ込んだ。
 これは行かないといけないのかな。
 僕は帰宅部だから、放課後は何の予定もない。
 とはいえ、進路指導室って苦手なんだよな。
 あの部屋に近付くと悪いことをしたわけでもないのに、後ろめたい気がする。
 問題を起こした生徒がよく連れてこられるから、懺悔部屋のイメージが強いんだ。

 気が進まないまま放課後になった。
 サボるための理由をあれこれ考えたが、何も思い浮かばない。
 これは行くしかあるまい。
 さっさと終わらせて、さっさと帰ろう。
 僕が廊下を歩いていると、戌亥が付いてきた。
「仁、そっちは職員室と進路指導室しかないけど、もしかして呼び出しくらってんの?」
 妙に鋭い。
「何でか知らないけど、大河内先生に呼ばれた」
「ふーん、仁もなんだ。実は私も呼ばれてるんだよね」
 戌亥もか、大河内先生の意図が読めないと思っていたら、進路指導室の前に佐藤が立っていた。
「お前もか」
「俺としては不本意だが、同席させてもらう」
 昼間は様子がおかしかったが、今は落ち着いているらしい。
 トレードマークの銀縁眼鏡もしっかり掛かっている。
 昼間のあれは何だったんだ?
 いきなり視力が落ちたわけでもあるまいし。
「ところで多田野は、シスターの件をどう思っているんだ?」
 あん?
「その顔は、何で呼ばれたのか知らないといったところか、戌亥も同様か」
 僕と戌亥がクエッションマークを頭に浮かべているのを置いておいて、佐藤が一人で納得している。
 事情を知っているなら、少しは説明してくれ。
「では行くぞ」
 おいおい、心の準備が。
 佐藤は進路指導室の扉をノックすると、さっさと開けた。
「失礼します」
 仕方がないので、挨拶をしつつ中に入る。
「おぉ、来たか」
 八畳くらいの部屋の中、大河内先生は、ソファーにでんと座っていた。
「まぁ座れ」
 勧められて、大河内先生からテーブルを挟んで向かい側にある、もう一つのソファーに僕らは腰掛けた。
「今日呼んだのは、お前達の意見が聞きたくてな。時間を取らせて悪いんだが、付き合ってくれ。佐藤とは軽く話したんだが、他でもない。新しい道徳教育のことだ」
 佐藤の方を見ると、眉間に皺を寄せて渋い顔をしている。
 もしかしなくても、それが原因で佐藤はおかしくなっていたのか。
「道徳教育と言っても実際はキリスト教教育なのは、今日の初授業で分かっただろう」 
 うん、教室にマリアが修道服姿で現れたときは、クラス一同、どう反応していいか分からず唖然としていたね。
 マリアはアメリカ政府から派遣された特別講師だと名乗っていたけど、他の学校でも似たようなことが起こっているのかな。
「教育委員会経由で学校に『聖書』が送られてきたときは驚いたが、副読本か参考資料だと思っていたんだ。だが、上は本気だと改めて今日実感した。遅過ぎた感があるが、今からでも学校としての方針を考えねばならん。校長からも方針の叩き台を作れと言われているしな」
 大河内先生は、いや~困った困ったと言いながら頭を掻いた。
 おどけた動作とは裏腹に、目には不安の色が浮かんでいる。
 大変な仕事を押し付けられたんだね。
 同僚の先生にも相談できる人間がおらず、生徒にまで頼ることになったのか?
「言っておくが、先生が職員室でぼっちという訳ではないからな。ただ、宗教というのは皆専門外で戸惑っているというのが実情なんだ」
 ようは役に立つ人がいなかったんだね。
「ごほん、お前達を選んだのは、ちゃんと理由がある。佐藤は家が寺だし、多田野は海外留学の経験がある。戌亥は親戚の伯父さんが神主をしているんだったな」
 選んだ基準が適当過ぎない?
 正に藁にもすがりたいという感じがする。
「それで先生は具体的に何が聞きたいんですか?」
 僕の質問に、大河内先生は何とも言えない複雑な顔をした。
「ぶっちゃけ、あの授業どう思う? 他のクラスで、シスターマリアが授業をするのを見学させてもらったが、いきなり神の愛とか言われてもついていけないと言うか。シスターは大真面目なんだが、原罪を自覚し悔い改めろと求められてもな」
 マリアも飛ばしているな。
「どう考えても、信教の自由の侵害です!」 
 佐藤が吠(ほ)えた。
「道徳の授業だと言うなら、まず生徒各自の思想信条を尊重するようにして下さい! なんで、道徳=(イコール)キリスト教一択なんですか!」
 だよね。
「……ここだけの話だが、加部首相がキリスト教徒でカブリエル大統領と気が合うからだろう」
 えー、そうだったの。
 初めて知った。
 日本の首相がキリスト教徒って、本当?
「冗談でしょ!?」 
 驚愕する佐藤に、大河内先生は立ち上がると部屋の隅にある本棚から一冊の雑誌を取り出した。
「自分もそう思うんだが、まずはこれを見てくれ」
 机に置かれた雑誌は『風俗大満足 学園イメクラ総特集』と書かれ、女子生徒と教師と思しき人物がラブホテルの入る写真が表紙に載っていた。
「こっちじゃなかった、これだ!」
 慌てて雑誌を引っ掴むと、大河内先生は新たな雑誌と入れ替えた。
「あれは生徒から没収した物で、先生の物じゃないからな! 本当に本当だぞ!」
 必死に弁解する大河内先生に、戌亥が心なしか体を遠ざけるのが分かった。
「嫌! 不潔! パパが教育委員会に顔がきくから、言いつけてやる」
 戌亥がキッとした顔で死刑宣告にも等しいことを言い出した。
「信じてくれ! 自分は潔白だ! 天地神明に誓って無実だ」
 それから十分間、大河内先生の絶叫が続いた。
「はぁはぁ、今のことは口外しないように。改めて、この記事を見てくれ」
 落ち着きを取り戻した大河内先生は『週刊 教えて池ノ内聡(いけのうち さとし)さん』というタイトルの雑誌を開いた。
「この雑誌は毎週欠かさずチェックしているんだが、気になる所があってな」 
 記事のタイトルは、「アメリカ留学するエリート達」というものだった。
 えー、なになに。
 大企業の幹部や高級官僚、大物政治家を親に持つエリートの子供達が、日本の大学には進学せずアメリカの有名大学に進学するのが昨今の流行りなのか。
 その中でも教育熱心な家は、子供を小学生の時点で日本のインターナショナルスクールに入れたり、果ては単身でアメリカの学校に入れるって――まだ小学生だぞ!
「あ、加部首相のインタビューが入ってる」
 戌亥が目敏く隅の方の記事を見つけた。
「私も小学生のときからアメリカでした。加部首相の子供時代」
 佐藤がタイトルを読み上げた。
 内容は雑誌記者の質問に対して、加部首相が答える形になっている。
 加部首相って帰国子女だったのか。
 佐藤は嫌な予感がするのか、険しい表情を浮かべていた。
 記者の質問その一。
 ――アメリカでの生活では、何が一番大変でしたか?
 加部首相の答え。
「留学当初は英語がうまく話せなくて、周囲に溶け込むのに大変苦しい思いをしました。あと文化の違いですね。向こうの人は、とにかくよく喋るんですよ。自分が何を考えているか、どう感じているか実にはっきりと言います。話には聞いていましたが、面食らってしまいましてね。当時の私は内気な性格で、クラスメイトに声を掛けるのにも気後れするという有様でした」
 苦労したみたいだな。昼飯もぼっち飯だったんだろう。
 記者の質問その二。
 ――その辛い状況を、どうやって乗り越えたんでしょうか?
 加部首相の答え。
「ホームステイ先の家族から、地元の教会に行くことを勧められまして、そこで受け入れられたことが大きいです。私がいた地域はキリスト教が盛んな地域でして、教会にやって来た人間は温かく迎えるという習慣があったんですね」
 ここまでは分かる話だ。
 だが、こここから先が想像の斜め上だった。
 記者の質問その三。
 ――それは良い話ですね。これから留学する人にアドバイスがあればどうぞ。
 加部首相の答え。
「教会って良い所ですよ。まさに神の国です。人間どう生きなければならないか、そこで学びました。と言うか、信仰を持って初めて人間になるんですよ。洗礼を受けまして、今では私もキリスト者です。死後の世界を信じない人は悲しいですね。そういう人は、死んでからが大変なんです!」
 それから神を讃える言葉が延々と続いて、加部首相のインタビューは終わった。
 遠い異国の地で一人。
 現地に溶け込もうとしている内に、最もディープな部分にどっぷりと浸かってしまったというわけか。
 見ると佐藤が絶句している。
 戌亥は困ったように笑っていた。
 僕は一年前のことを思い出し、キリスト教に興味がありますと答えていたら良かったのか? などと考えていた。
「望む、望まないに関わらず、変革の嵐が目の前で吹き荒れている。で、どうするかなんだが……。お前等、とても意見が聞ける状態ではないようだな」
 頭がクラクラする。
 戌亥と佐藤も似たようなものだ。
「一晩よく考えて、明日の放課後、もう一度来てくれないか」
 このまま大河内先生を見捨てるわけにもいかず、僕達は了承の旨を伝え、集まりはお開きとなった。
 まいったなぁ、どうするかなぁ……。
 帰り道、僕達は無言だった。
 生徒に、こんな相談を振るなよと思いつつも、先生達も途方に暮れているのはなんとなく感じた。 
 それは戌亥や佐藤も同じだと思う。
 佐藤の方をチラ見すると、むっつりとした顔をしていたので、僕は戌亥に声を掛けた。
「戌亥、お前はどうする?」
 ぐったりした戌亥が、だるそうに答えた。
「家に帰ったら、パパと話してみるわ。正直、どうしたらいいか分かんない。仁はどうするの?」
 僕か、僕はそうだな。
「参考になりそうなことをネットで検索かな」
 役に立つか心許ないけどね。
「佐藤はどうするの?」
 戌亥が声を掛けるが、佐藤は返事をしない。
「おーい、聞いてるか」
 僕も気になって心持大きな声を出すが、佐藤は聞いているのかいないのか無言のままだ。
 背中から、いかにも思い詰めていますというオーラが漂っている。
 家が寺のせいか、ショックが一番大きかったのはこいつだからな。
「そうだ、そっちがその気なら、こっちにも考えがあるぞ!」
 決然と顔を上げると、佐藤が叫び出した。
「徹底抗戦だ! 死ねば浄土に行くだけだ!」
 そしてそのまま走り出すと、僕と戌亥は取り残された。
 ああ、佐藤よ。
 早まったことをしなければいいが。
「なんか疲れたな」 
「今日は、もう帰りましょ」
 戌亥と別れると、僕は一人溜息を吐く。
 僕にとって宗教は鬼門だったのだが、そうも言ってられなくなった。
 目の前に迫った混沌に、僕は何ができるのだろう?
 と言うか、できることってあるの? 
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