マリアは碧い瞳の大君?
文字数 7,806文字
ガブリエル大統領の姿が超大型モニターから消えた後、会場は静寂に包まれた。
皆、一様に何とも言えない顔をしている。
ここで話されたことの意味を掴めずに戸惑っているのだ。
とてつもなく大きなことが話されていたような気がする一方で、なんでもない茶飲み話だったようにも思える。
はて、一体何が話されていたのか?
真剣に考えなければならな真面目な話というには、ぶっ飛んだ内容だった。
ただの与太話だったのか。
実は、当事者である僕にも判断がつかなかったりする。
加部首相が何かを言いたそうにしていたが、
「これをもちまして、本日の公開討論会を終了致します。ご来場の皆さまは、お気をつけてお帰りください」
どこからか聞こえる天野先生の声に遮られた。
「蛍の光~、窓の雪~」
続いて会場に設置されたスピーカーから、童謡『蛍の光』が大音量で流れ始める。
もはや舞台の上で何かを言っても聞こえない。
「異議あり。私は、こんな結末を認めない!」
僕には加部首相の絶叫が聞こえたが、客席の人間には聞き取れなかっただろう。
来場者が一人、また一人と席を立つ。
喚く加部首相を宥めるために、SPの皆さんが舞台に上がってきた。
今の内に、僕は舞台から去ろう。
ここにいても、ろくなことにはならない。
断言できる。
残された者で泥仕合をする未来予想しか、僕にはできなかった。
そそくさと舞台から下り、会場で待っていてくれた戌亥と合流する。
「御前! ご無事ですか!」
あ、これは佐藤の声だ。
会場の入り口から騒々しい物音がする。
校門の警戒態勢が解かれたのか、それとも立ちはだかるSPの群れを突破してきたのだろうか?
先頭の佐藤に続いて、坊主頭の一団が会場へなだれ込んできた。
僕と戌亥は、慌てて壁際に退避だ!
目の前を全力疾走する一団が通り過ぎていく。
「やめろ佐藤、もう終わったんだ!」
舞台の上で大河内先生が叫ぶが、誰も止まらない。
一直線に舞台目掛けて突き進んでくる。
「待て! 早まるな。話し合おう」
大河内先生が静止を呼び掛けるが、押し寄せて来た人の波に飲み込まれた。
流された?
一瞬ヒヤッとしたが、大河内先生が無事に立っている姿を見て安心した。
荒波にもビクともしない、大岩のような安定感だ。
だが、その場から動くことはできないだろう。
一方、舞台に上った佐藤達一団は、加部首相を護ろうとしたSP達と揉み合いをしている。
逮捕されなきゃいいが。
僕にできることは、もはや無い。
「戌亥、帰ろうか」
「うん」
僕達は荒れる会場を後にした。
外は、すっかり夕暮れだ。
橙色の空に、入道雲がかかっている。
帰り道を歩きながら、僕と戌亥はポツポツと言葉を交わした。
「とんでもないことになったわね。明日、授業はあるのかしら?」
「多分、あると思う。大河内先生が、がんばって片付けるだろうし」
生真面目な大河内先生は、たとえ深夜になろうと働くに違いない。
会場の撤収から、関係部署への連絡に至るまで。
もしかして大河内先生一人で全部を行うのか。
――それとなく天野先生あたりが手伝ってくれるかな?
「休んでも、誰も文句は言わないでしょうけどね」
戌亥としては、一日ぐらいは休みたいといったところか。
まぁ、激動の一日だったし。
「あんなことが起こった後だけど、学校はどうするの? しばらく休むようなら、ノートは取っておくよ」
学校で大活躍? した神主は戌亥の叔父だ。
しかも戌亥と親戚であることが、生徒にバレている。
戌亥にとって、学校が物凄く居づらい場所になってもおかしくない。
「それなんだけど、今日はぶっ飛んだことが多過ぎたじゃない。みんなの頭から、私のことなんて霞んじゃったと思う」
まぁ、確かに。
神主に怪僧に加部首相。
最後にガブリエル大統領が登場して、全ての注意と関心を持って行った感じがする。
「起こったことの衝撃が強過ぎて、誰も頭がついてきていないはず。しばらくの間は思考停止状態で、みんな、ぼーっとした顔をしていると思うわ。だったら、私が登校しても絡んでくる人はいないわね」
そうなるかな。
「むしろ普通の生徒の中に、今日のショックが原因で、学校に来れなくなる人が出てくるんじゃないかな?」
不吉なことを言わないでくれ。
「とりあえず明日は、学校に行くわ」
明るい顔の戌亥と別れると、僕は一人で家に向かった。
「はぁ~」
自然と溜息がでる。
今日は本当に大変な一日だった。
朝からの出来事が、未だに信じられない。
事情を知らない人間に話しても、ホラ話にしか思わないだろう。
だが、それも終わりだ。
家に帰ったら、ゆっくりしよう。
その前に、コンビニでアイスでも買うか――
「おい、そこの小僧、ちょっと面を貸せ」
とはいかなかった。
ドスの利いた声に体が貫かれる。
恐る恐る振り返ると、道路の真ん中で怪僧が仁王立ちしていた。
なぜ、ここにいるんだ!
まだ学校にいるはずだろう。
そうだ交番だ。
暴走老人から市民を守るのも、警察の仕事のはず。
保護してもらうべく駆け出そうとしたところで、
「多田野君、少し時間をもらえますか」
シスター姿のマリアが僕の正面に立っていた。
いつの間に現れた?
さり気なく僕の退路を断っているんだけど、マリアは僕に何の用なんだ?
「場所を変えるぞ」
怪僧の指示にマリアが頷いた。
僕に拒否権は無いのか!
二人に連行される形で、近くの公園まで移動する。
ああ、ここは見覚えがある。
以前、マリアと宗教問答をした公園だ。
あれから何日経ったのだろう。
思えば、波乱万丈の日々だった。
ほんの一か月前までは、ただの高校生だったのに。
それが今では、マリアと怪僧に挟まれる形でベンチに腰掛けている。
マリアはシスターの恰好だし、怪僧は僧衣を着て、見るからにお坊さんだ。
そんな二人の間に、制服姿の僕。
場違いも甚だしい。
実に珍妙な組み合わせだ。
公園にいた子供が、ぎょっとした顔のお母さんに手を引かれて去って行く。
僕は一般人なんだけどな。
だから、子供思いのお母さん、怯えた顔を僕にまで向けないでください。
「まずは礼を言うべきなのでしょう。あなたが加部とガブリエル大統領の間に割って入らなければ、今頃どうなっていたか――考えるだに恐ろしい」
僕の頭越しに、マリアと会話を始める怪僧。
「お礼には及ばません。私はただ、自分の良心に従っただけですから」
さらりと答えるマリア。
僕がここにいる必要ってあります?
「ははは、そう言っていただけると嬉しいですな」
あの傲岸不遜を怪僧が、マリアに対してへりくだった態度を取っている!
どうしたんだ?
何かがおかしいぞ。
「シスター、ご存知だと思いますが、かつて日本には、『碧い瞳の大君』と呼ばれる方がました。現在の日本を造ったと言っても過言ではないほどの人物です。当時、日本の仏教界を背負っていた拙僧は、大君と様々なことを話し合いました。……具体的な事柄については伏せますが、シスターと話していると、そのときのことを思い出します」
碧い瞳の大君――恐らく、M元帥のことだろう。
突然思い出話を始めて、怪僧は何が言いたいんだ?
マリアの顔をチラッと見てみるが、特に変わったところはない。
「あの方は言われました。いつの日か、自分に連なる者が現れるだろう」
怪僧はそこで言葉を区切ると、マリアに視線を移した。
「碧い瞳の大君。あなたは――その再来になるつもりですかな?」
――え?
マリアはM元帥の縁者なのか。
「あの方が遺した置き土産が、この国には幾つも存在する。それらを用いれば……陰から国民を善導(ぜんどう)するのも、決して不可能ではない」
聞いてはいけないことを聞いてしまったようだ。
陰謀の臭いがプンプンする。
背筋に冷たい汗が流れるが、
「そんな訳ないじゃないですか。何を考えているのか知りませんが、私はただのシスターですよ」
マリアの明るい声に救われた。
「仮に、私がそんなことを企むような人間なら、ここでそんな話はしていません」
迷いの無いマリアの返答に、バツが悪そうな顔を怪僧がしている。
「いえ、愚僧の立場としては、絶対に確認しなければならないことだったので。本当に、そのような意図は無いのですな」
ついにはマリアが噴き出した。
カラカラと笑っている。
「すいません、余りにおかしかったもので」
マリアの態度に、怪僧が絶句している。
心なしか、恥ずかしそうだ。
居心地が悪そうに、モジモジとしている。
怪僧は人を疑うことに慣れきって、マリアもそのような対象として見ていたんだな。
「そればらば、結構。拙僧の懸念も晴れたわけだ」
わざとらしく咳払いをすると、怪僧は強引に話題を変えた。
「さて、小僧。お前にも話がある」
ここで僕に振りますか。
「公開討論会で、お前がガブリエル大統領に行った演説。あれの影響は未知数だ。とんでもない事態に発展するのか、何も起こらないのか、誰にも予測できん。だが、何十年か経った後、あれが歴史の分かれ目だったということになる可能性も――無くはない。ひょっとしたらお前は、歴史の語り部となるかもしれんのだ。その自覚を持てよ」
そんなことを言われても……。
ただの高校生に、何を背負わせようとしているんだ!
「同情する。これは、お前の責任ではない。しかし、そのような役割を果たすことが、今後求められるかもしれん。そうならないことを祈るが、人の世の因果は、思うようにならぬものだ」
ちょっと待て!
勝手に話を進めるな。
「嫌そうな顔をするものではない。日本史の教科書に、お前の名前が載るかもしれんのだ。これ程のことは、望んでも、そうそう叶うものではないのだぞ」
こんなことでなら、載らなくていいです。
私よりも、あなたの方が相応しいではありませんか。
歴史の陰で、新聞に載りそうなことを、多分――いっぱい行ってますよね?
ついでに歴史の語り部とやらになってください。
「拙僧に期待してもらっても、ダメだ。すでに歳だからな。これからは若い者が、がんばらないといかん」
そんなことを言っているけど、百年先でもピンピンしていそうな気がする。
「お前の担任を見てみろ。今回のことで、色々なことを押し付けられたが、それを自分の職務として誠実に果たしておる。大人とは、そういうものだ」
そして、そのうち鬱病になると。
大河内先生には、本当に苦しいなら逃げてもいいんだよと言ってあげたい。
「このことを伝えておきたかった。では、これで失礼する」
好き勝手なことを言うだけ言って、怪僧がベンチから立ち上がった。
「小僧、今日の働きは良かったぞ。シスター、またお会いしたときは、ゆっくりと話したいものですな」
マリアが微笑んだ。
「ええ、私もです。ごきげんよう」
怪僧が矍鑠(かくしゃく)とした足取りで去って行く。
最後まで、周りの人間を振り回す人だった。
二度と会いたくない。
「あの方との話は有意義でした。近い内に、今度はこちらから伺いましょうか」
だが、マリアは違ったようだ。
心なしか楽しそうである。
互いに意見と意見をぶつけ合うことに、喜びを感じているのだろう。
潰しがい――じゃなかった、話しがいのある相手に、心が躍っているらしい。
どんなことがあっても、マリアを敵に回すことだけはやめよう。
徹底的に議論を吹っ掛けられて、精神的にボコボコにされる姿しか浮かばない。
新たな教訓が、僕の胸に刻まれた。
「多田野君、お疲れでしょうが、もう少しだけ付き合ってください」
はい、抵抗しても無駄だと思うので、そのつもりでいます。
「今日は、ごくろうさまでした。立派でしたよ。まさか、あそこまで考えているとは思いませんでした」
おだてても、何も出ませんよ?
「そう身構えないでください。ただ、少し話がしたかっただけです」
口を尖らしてむくれるマリアを見ていると、年相応の娘なのだと思う。
とてもではないが、公開討論会で海千山千の曲者達と渡り合っていた人間には見えない。
だが、僕は知っている。
涼し気な顔の下には、マグマよりも熱い闘争本能が眠っていることを。
……女って怖い。
「まだ、多田野君と私の間に心の壁を感じますね」
マリアがじーっと僕の顔を覗き込む。
何も疚しいことはしていないのに、妙な迫力を感じて心臓の鼓動が速くなる。
マリアの碧い瞳に、僕はどのように映っているんだ?
自分でも気付いていないことで、何かしてしまったのか。
「それはさておき、多田野君。あなたは、今後のことをどう考えていますか。今日の公開討論会のことを踏まえて、道徳教育はどうあるべきだと思われましたか?」
どうもこうも、あるべき姿というのが僕には分かりません。
ぶっちゃけ、故意に他人を傷付けるようなことさえしなければ、いいのではないでしょうか?
「困った顔をさせてしまいましたね。言い方を変えましょう。私はキリスト教についての授業を行っています。欧米の倫理観を理解してもらう上で、表面的なことだけではなく、その奥にある根源的なことまで理解してほしいからです」
マリアは、そこで言葉をいったん区切った。
「キリスト教について語ることは、この国の人にとって幸多きことだと多田野君は思いますか」
なんて大きなことを聞いてくるんだ!
僕は日本人代表でも何でもないんだぞ。
とはいえ、真摯な態度のマリアに変なことは言えない。
僕は深呼吸を一つすると、思い切って口を開いた。
「キリスト教について学ぶことは、大変なことだと思います。言い方が悪いですけど、未知との遭遇という感じで、未だに慣れないことが多いです。ただ……僕達は、すでに出会ってしまいました。海外から人はわんさか来ているし、今さら、鎖国なんてできないでしょう。望む望まないに関わらず、無視してはいけないものをマリアは突き付けているんだと思います」
だからマリアがしていることは、多分、人として正しい。
でも、それは物凄くしんどい。
「夏休みの宿題みたいなもので、いつかはしないといけないんだけど――先延ばしにしたいものってありますよね」
マリアの登場は、外で遊び回っている子供を、無理やり勉強机の前に座らせることだったんじゃないかな。
やり残している宿題をしろと迫る母親みたいに。
「できることなら、死ぬまで夏休みであってほしいんですが……。さすがに、そうはいかないのかな?」
既に、神の使徒――マリアに捕まえられてしまっている。
「宿題の存在自体を認めない人は多いと思いますが、それでもやるんですか」
適当なところで妥協するという選択肢はありますかね?
寝た子を起こすなと抵抗する人は、わんさかいそうです。
「ええ、勿論です。ありがとう多田野君、おかげで迷いが晴れました」
マリアをやる気にさせてしまった。
しかし、気になることがある。
「がっかりさせたら謝りますが、どれだけ努力しても、分かり合えない人というのはいると思います。そこはどう考えているんですか」
盛り上がっているところに水を差すけど、これは外せない。
後で、大変な思いをするのはマリアなのだし。
怒るかなと心配したが、マリアはケロッとしている。
「多田野君、それは分かり合えないのではなく、分かり合う前に諦めてしまった――というのが正しいのではないですか。私が尊敬する神父に、とある禅僧と親しくされている方がいます。お二人は立場も考えも違いますが、何十年にも渡って親交を続けられていますよ」
なんか心温まる話ですね。
「先日も、神の国はどこにあるのか? という話題で激論を交わされましてね。舌鋒鋭く、言葉の応酬がなされ、それは白熱しました」
うん?
なんか雲行きが怪しいぞ。
「敬虔なキリスト者は、死んでから神の国に行くと語る神父に、禅僧が言葉を返しました。神父さん、神の国と言っても自分で見たわけではないでしょ」
うわぁ。
波乱の予感しかしない。
「それに対し、神父は答えました。人の意志が世界に作用するのだと私は思う。故に、神の国を信じている者は、死後にそういった経験をするし、信じていない者は信じていないなりの経験をするのだろう」
そういうものなんですか?
「神父さん、実際に確認することのできない、観念的、思想的なことについては、自分は問題にしていません」
もしかすると、この禅僧、神父が語る神の国は、神父の頭の中にしかないと言いたいんじゃないか?
「私は観念や思想の話なんて、していませんよ」
あくまで神の国は実在するというわけか。
「神父さんは、人間は死んだらしまいと言う人が現れたら、何て答えるんですか?」
意地の悪い質問をする。
「だから、先程も言った通り、人間の意志によって……」
それからもマリアの話は続いたが、神父と禅僧は最後まで平行線のままだったようだ。
気が重い。
「マリア、この二人の関係は何なのでしょうか?」
「仲の良い友達だと思いますけど、多田野君の印象は違うみたいですね」
これが友達同士の会話……。
マリアにとっての友達というのは、何なのか?
もしかして論争相手のことだったりして。
「分かりにくいかもしれませんけど、二人は互いのことを尊敬していますよ。だから、表面的な馴れ合いをせずに、疑問に思ったことをぶつけ合うことができるんです。少年漫画の主人公とライバルみたいな関係ですね。憧れます」
これがマリア流の分かり合うことなのか!
一歩間違えれば殴り合いに発展すると思う。
こんなことを参考にしちゃダメだ!
いつか怪我で済まない事態になるぞ。
「心配させてしまったようですね。ですが大丈夫です。今日の公開討論会も建設的な話し合いになったではありませんか。これ以上の混乱は、そうそうないですよ」
あの騒動を乗り切ったことで、マリアは妙な自信が付いたらしい。
いかん、今のマリアは車のアクセルをべた踏みしているのと同じだ。
迷いが無いのはいいんだけど、少しは慎重になろう。
「私も危ないことはしませんよ? 多田野君、私のことを何だと思っているんです。もしかして、だれかれ構わずに噛みつく狂犬だとでも言うんですか」
え、そうですよね。
思っていたことが顔に出たいたらしい。
マリアから、すーっと表情が消えた。
「ちょっと、お話しをしましょうか」
感情の籠らない平坦な声が恐ろしい。
僕はマリアの逆鱗に触れてしまったのか。
恐怖のあまり、身が竦(すく)んで動けない。
「多田野君は、ちょーっと見直したら、すぐに調子に乗るんですから!」
こうして始まったマリアの説教は夜になるまで続いた。
アーメン。
皆、一様に何とも言えない顔をしている。
ここで話されたことの意味を掴めずに戸惑っているのだ。
とてつもなく大きなことが話されていたような気がする一方で、なんでもない茶飲み話だったようにも思える。
はて、一体何が話されていたのか?
真剣に考えなければならな真面目な話というには、ぶっ飛んだ内容だった。
ただの与太話だったのか。
実は、当事者である僕にも判断がつかなかったりする。
加部首相が何かを言いたそうにしていたが、
「これをもちまして、本日の公開討論会を終了致します。ご来場の皆さまは、お気をつけてお帰りください」
どこからか聞こえる天野先生の声に遮られた。
「蛍の光~、窓の雪~」
続いて会場に設置されたスピーカーから、童謡『蛍の光』が大音量で流れ始める。
もはや舞台の上で何かを言っても聞こえない。
「異議あり。私は、こんな結末を認めない!」
僕には加部首相の絶叫が聞こえたが、客席の人間には聞き取れなかっただろう。
来場者が一人、また一人と席を立つ。
喚く加部首相を宥めるために、SPの皆さんが舞台に上がってきた。
今の内に、僕は舞台から去ろう。
ここにいても、ろくなことにはならない。
断言できる。
残された者で泥仕合をする未来予想しか、僕にはできなかった。
そそくさと舞台から下り、会場で待っていてくれた戌亥と合流する。
「御前! ご無事ですか!」
あ、これは佐藤の声だ。
会場の入り口から騒々しい物音がする。
校門の警戒態勢が解かれたのか、それとも立ちはだかるSPの群れを突破してきたのだろうか?
先頭の佐藤に続いて、坊主頭の一団が会場へなだれ込んできた。
僕と戌亥は、慌てて壁際に退避だ!
目の前を全力疾走する一団が通り過ぎていく。
「やめろ佐藤、もう終わったんだ!」
舞台の上で大河内先生が叫ぶが、誰も止まらない。
一直線に舞台目掛けて突き進んでくる。
「待て! 早まるな。話し合おう」
大河内先生が静止を呼び掛けるが、押し寄せて来た人の波に飲み込まれた。
流された?
一瞬ヒヤッとしたが、大河内先生が無事に立っている姿を見て安心した。
荒波にもビクともしない、大岩のような安定感だ。
だが、その場から動くことはできないだろう。
一方、舞台に上った佐藤達一団は、加部首相を護ろうとしたSP達と揉み合いをしている。
逮捕されなきゃいいが。
僕にできることは、もはや無い。
「戌亥、帰ろうか」
「うん」
僕達は荒れる会場を後にした。
外は、すっかり夕暮れだ。
橙色の空に、入道雲がかかっている。
帰り道を歩きながら、僕と戌亥はポツポツと言葉を交わした。
「とんでもないことになったわね。明日、授業はあるのかしら?」
「多分、あると思う。大河内先生が、がんばって片付けるだろうし」
生真面目な大河内先生は、たとえ深夜になろうと働くに違いない。
会場の撤収から、関係部署への連絡に至るまで。
もしかして大河内先生一人で全部を行うのか。
――それとなく天野先生あたりが手伝ってくれるかな?
「休んでも、誰も文句は言わないでしょうけどね」
戌亥としては、一日ぐらいは休みたいといったところか。
まぁ、激動の一日だったし。
「あんなことが起こった後だけど、学校はどうするの? しばらく休むようなら、ノートは取っておくよ」
学校で大活躍? した神主は戌亥の叔父だ。
しかも戌亥と親戚であることが、生徒にバレている。
戌亥にとって、学校が物凄く居づらい場所になってもおかしくない。
「それなんだけど、今日はぶっ飛んだことが多過ぎたじゃない。みんなの頭から、私のことなんて霞んじゃったと思う」
まぁ、確かに。
神主に怪僧に加部首相。
最後にガブリエル大統領が登場して、全ての注意と関心を持って行った感じがする。
「起こったことの衝撃が強過ぎて、誰も頭がついてきていないはず。しばらくの間は思考停止状態で、みんな、ぼーっとした顔をしていると思うわ。だったら、私が登校しても絡んでくる人はいないわね」
そうなるかな。
「むしろ普通の生徒の中に、今日のショックが原因で、学校に来れなくなる人が出てくるんじゃないかな?」
不吉なことを言わないでくれ。
「とりあえず明日は、学校に行くわ」
明るい顔の戌亥と別れると、僕は一人で家に向かった。
「はぁ~」
自然と溜息がでる。
今日は本当に大変な一日だった。
朝からの出来事が、未だに信じられない。
事情を知らない人間に話しても、ホラ話にしか思わないだろう。
だが、それも終わりだ。
家に帰ったら、ゆっくりしよう。
その前に、コンビニでアイスでも買うか――
「おい、そこの小僧、ちょっと面を貸せ」
とはいかなかった。
ドスの利いた声に体が貫かれる。
恐る恐る振り返ると、道路の真ん中で怪僧が仁王立ちしていた。
なぜ、ここにいるんだ!
まだ学校にいるはずだろう。
そうだ交番だ。
暴走老人から市民を守るのも、警察の仕事のはず。
保護してもらうべく駆け出そうとしたところで、
「多田野君、少し時間をもらえますか」
シスター姿のマリアが僕の正面に立っていた。
いつの間に現れた?
さり気なく僕の退路を断っているんだけど、マリアは僕に何の用なんだ?
「場所を変えるぞ」
怪僧の指示にマリアが頷いた。
僕に拒否権は無いのか!
二人に連行される形で、近くの公園まで移動する。
ああ、ここは見覚えがある。
以前、マリアと宗教問答をした公園だ。
あれから何日経ったのだろう。
思えば、波乱万丈の日々だった。
ほんの一か月前までは、ただの高校生だったのに。
それが今では、マリアと怪僧に挟まれる形でベンチに腰掛けている。
マリアはシスターの恰好だし、怪僧は僧衣を着て、見るからにお坊さんだ。
そんな二人の間に、制服姿の僕。
場違いも甚だしい。
実に珍妙な組み合わせだ。
公園にいた子供が、ぎょっとした顔のお母さんに手を引かれて去って行く。
僕は一般人なんだけどな。
だから、子供思いのお母さん、怯えた顔を僕にまで向けないでください。
「まずは礼を言うべきなのでしょう。あなたが加部とガブリエル大統領の間に割って入らなければ、今頃どうなっていたか――考えるだに恐ろしい」
僕の頭越しに、マリアと会話を始める怪僧。
「お礼には及ばません。私はただ、自分の良心に従っただけですから」
さらりと答えるマリア。
僕がここにいる必要ってあります?
「ははは、そう言っていただけると嬉しいですな」
あの傲岸不遜を怪僧が、マリアに対してへりくだった態度を取っている!
どうしたんだ?
何かがおかしいぞ。
「シスター、ご存知だと思いますが、かつて日本には、『碧い瞳の大君』と呼ばれる方がました。現在の日本を造ったと言っても過言ではないほどの人物です。当時、日本の仏教界を背負っていた拙僧は、大君と様々なことを話し合いました。……具体的な事柄については伏せますが、シスターと話していると、そのときのことを思い出します」
碧い瞳の大君――恐らく、M元帥のことだろう。
突然思い出話を始めて、怪僧は何が言いたいんだ?
マリアの顔をチラッと見てみるが、特に変わったところはない。
「あの方は言われました。いつの日か、自分に連なる者が現れるだろう」
怪僧はそこで言葉を区切ると、マリアに視線を移した。
「碧い瞳の大君。あなたは――その再来になるつもりですかな?」
――え?
マリアはM元帥の縁者なのか。
「あの方が遺した置き土産が、この国には幾つも存在する。それらを用いれば……陰から国民を善導(ぜんどう)するのも、決して不可能ではない」
聞いてはいけないことを聞いてしまったようだ。
陰謀の臭いがプンプンする。
背筋に冷たい汗が流れるが、
「そんな訳ないじゃないですか。何を考えているのか知りませんが、私はただのシスターですよ」
マリアの明るい声に救われた。
「仮に、私がそんなことを企むような人間なら、ここでそんな話はしていません」
迷いの無いマリアの返答に、バツが悪そうな顔を怪僧がしている。
「いえ、愚僧の立場としては、絶対に確認しなければならないことだったので。本当に、そのような意図は無いのですな」
ついにはマリアが噴き出した。
カラカラと笑っている。
「すいません、余りにおかしかったもので」
マリアの態度に、怪僧が絶句している。
心なしか、恥ずかしそうだ。
居心地が悪そうに、モジモジとしている。
怪僧は人を疑うことに慣れきって、マリアもそのような対象として見ていたんだな。
「そればらば、結構。拙僧の懸念も晴れたわけだ」
わざとらしく咳払いをすると、怪僧は強引に話題を変えた。
「さて、小僧。お前にも話がある」
ここで僕に振りますか。
「公開討論会で、お前がガブリエル大統領に行った演説。あれの影響は未知数だ。とんでもない事態に発展するのか、何も起こらないのか、誰にも予測できん。だが、何十年か経った後、あれが歴史の分かれ目だったということになる可能性も――無くはない。ひょっとしたらお前は、歴史の語り部となるかもしれんのだ。その自覚を持てよ」
そんなことを言われても……。
ただの高校生に、何を背負わせようとしているんだ!
「同情する。これは、お前の責任ではない。しかし、そのような役割を果たすことが、今後求められるかもしれん。そうならないことを祈るが、人の世の因果は、思うようにならぬものだ」
ちょっと待て!
勝手に話を進めるな。
「嫌そうな顔をするものではない。日本史の教科書に、お前の名前が載るかもしれんのだ。これ程のことは、望んでも、そうそう叶うものではないのだぞ」
こんなことでなら、載らなくていいです。
私よりも、あなたの方が相応しいではありませんか。
歴史の陰で、新聞に載りそうなことを、多分――いっぱい行ってますよね?
ついでに歴史の語り部とやらになってください。
「拙僧に期待してもらっても、ダメだ。すでに歳だからな。これからは若い者が、がんばらないといかん」
そんなことを言っているけど、百年先でもピンピンしていそうな気がする。
「お前の担任を見てみろ。今回のことで、色々なことを押し付けられたが、それを自分の職務として誠実に果たしておる。大人とは、そういうものだ」
そして、そのうち鬱病になると。
大河内先生には、本当に苦しいなら逃げてもいいんだよと言ってあげたい。
「このことを伝えておきたかった。では、これで失礼する」
好き勝手なことを言うだけ言って、怪僧がベンチから立ち上がった。
「小僧、今日の働きは良かったぞ。シスター、またお会いしたときは、ゆっくりと話したいものですな」
マリアが微笑んだ。
「ええ、私もです。ごきげんよう」
怪僧が矍鑠(かくしゃく)とした足取りで去って行く。
最後まで、周りの人間を振り回す人だった。
二度と会いたくない。
「あの方との話は有意義でした。近い内に、今度はこちらから伺いましょうか」
だが、マリアは違ったようだ。
心なしか楽しそうである。
互いに意見と意見をぶつけ合うことに、喜びを感じているのだろう。
潰しがい――じゃなかった、話しがいのある相手に、心が躍っているらしい。
どんなことがあっても、マリアを敵に回すことだけはやめよう。
徹底的に議論を吹っ掛けられて、精神的にボコボコにされる姿しか浮かばない。
新たな教訓が、僕の胸に刻まれた。
「多田野君、お疲れでしょうが、もう少しだけ付き合ってください」
はい、抵抗しても無駄だと思うので、そのつもりでいます。
「今日は、ごくろうさまでした。立派でしたよ。まさか、あそこまで考えているとは思いませんでした」
おだてても、何も出ませんよ?
「そう身構えないでください。ただ、少し話がしたかっただけです」
口を尖らしてむくれるマリアを見ていると、年相応の娘なのだと思う。
とてもではないが、公開討論会で海千山千の曲者達と渡り合っていた人間には見えない。
だが、僕は知っている。
涼し気な顔の下には、マグマよりも熱い闘争本能が眠っていることを。
……女って怖い。
「まだ、多田野君と私の間に心の壁を感じますね」
マリアがじーっと僕の顔を覗き込む。
何も疚しいことはしていないのに、妙な迫力を感じて心臓の鼓動が速くなる。
マリアの碧い瞳に、僕はどのように映っているんだ?
自分でも気付いていないことで、何かしてしまったのか。
「それはさておき、多田野君。あなたは、今後のことをどう考えていますか。今日の公開討論会のことを踏まえて、道徳教育はどうあるべきだと思われましたか?」
どうもこうも、あるべき姿というのが僕には分かりません。
ぶっちゃけ、故意に他人を傷付けるようなことさえしなければ、いいのではないでしょうか?
「困った顔をさせてしまいましたね。言い方を変えましょう。私はキリスト教についての授業を行っています。欧米の倫理観を理解してもらう上で、表面的なことだけではなく、その奥にある根源的なことまで理解してほしいからです」
マリアは、そこで言葉をいったん区切った。
「キリスト教について語ることは、この国の人にとって幸多きことだと多田野君は思いますか」
なんて大きなことを聞いてくるんだ!
僕は日本人代表でも何でもないんだぞ。
とはいえ、真摯な態度のマリアに変なことは言えない。
僕は深呼吸を一つすると、思い切って口を開いた。
「キリスト教について学ぶことは、大変なことだと思います。言い方が悪いですけど、未知との遭遇という感じで、未だに慣れないことが多いです。ただ……僕達は、すでに出会ってしまいました。海外から人はわんさか来ているし、今さら、鎖国なんてできないでしょう。望む望まないに関わらず、無視してはいけないものをマリアは突き付けているんだと思います」
だからマリアがしていることは、多分、人として正しい。
でも、それは物凄くしんどい。
「夏休みの宿題みたいなもので、いつかはしないといけないんだけど――先延ばしにしたいものってありますよね」
マリアの登場は、外で遊び回っている子供を、無理やり勉強机の前に座らせることだったんじゃないかな。
やり残している宿題をしろと迫る母親みたいに。
「できることなら、死ぬまで夏休みであってほしいんですが……。さすがに、そうはいかないのかな?」
既に、神の使徒――マリアに捕まえられてしまっている。
「宿題の存在自体を認めない人は多いと思いますが、それでもやるんですか」
適当なところで妥協するという選択肢はありますかね?
寝た子を起こすなと抵抗する人は、わんさかいそうです。
「ええ、勿論です。ありがとう多田野君、おかげで迷いが晴れました」
マリアをやる気にさせてしまった。
しかし、気になることがある。
「がっかりさせたら謝りますが、どれだけ努力しても、分かり合えない人というのはいると思います。そこはどう考えているんですか」
盛り上がっているところに水を差すけど、これは外せない。
後で、大変な思いをするのはマリアなのだし。
怒るかなと心配したが、マリアはケロッとしている。
「多田野君、それは分かり合えないのではなく、分かり合う前に諦めてしまった――というのが正しいのではないですか。私が尊敬する神父に、とある禅僧と親しくされている方がいます。お二人は立場も考えも違いますが、何十年にも渡って親交を続けられていますよ」
なんか心温まる話ですね。
「先日も、神の国はどこにあるのか? という話題で激論を交わされましてね。舌鋒鋭く、言葉の応酬がなされ、それは白熱しました」
うん?
なんか雲行きが怪しいぞ。
「敬虔なキリスト者は、死んでから神の国に行くと語る神父に、禅僧が言葉を返しました。神父さん、神の国と言っても自分で見たわけではないでしょ」
うわぁ。
波乱の予感しかしない。
「それに対し、神父は答えました。人の意志が世界に作用するのだと私は思う。故に、神の国を信じている者は、死後にそういった経験をするし、信じていない者は信じていないなりの経験をするのだろう」
そういうものなんですか?
「神父さん、実際に確認することのできない、観念的、思想的なことについては、自分は問題にしていません」
もしかすると、この禅僧、神父が語る神の国は、神父の頭の中にしかないと言いたいんじゃないか?
「私は観念や思想の話なんて、していませんよ」
あくまで神の国は実在するというわけか。
「神父さんは、人間は死んだらしまいと言う人が現れたら、何て答えるんですか?」
意地の悪い質問をする。
「だから、先程も言った通り、人間の意志によって……」
それからもマリアの話は続いたが、神父と禅僧は最後まで平行線のままだったようだ。
気が重い。
「マリア、この二人の関係は何なのでしょうか?」
「仲の良い友達だと思いますけど、多田野君の印象は違うみたいですね」
これが友達同士の会話……。
マリアにとっての友達というのは、何なのか?
もしかして論争相手のことだったりして。
「分かりにくいかもしれませんけど、二人は互いのことを尊敬していますよ。だから、表面的な馴れ合いをせずに、疑問に思ったことをぶつけ合うことができるんです。少年漫画の主人公とライバルみたいな関係ですね。憧れます」
これがマリア流の分かり合うことなのか!
一歩間違えれば殴り合いに発展すると思う。
こんなことを参考にしちゃダメだ!
いつか怪我で済まない事態になるぞ。
「心配させてしまったようですね。ですが大丈夫です。今日の公開討論会も建設的な話し合いになったではありませんか。これ以上の混乱は、そうそうないですよ」
あの騒動を乗り切ったことで、マリアは妙な自信が付いたらしい。
いかん、今のマリアは車のアクセルをべた踏みしているのと同じだ。
迷いが無いのはいいんだけど、少しは慎重になろう。
「私も危ないことはしませんよ? 多田野君、私のことを何だと思っているんです。もしかして、だれかれ構わずに噛みつく狂犬だとでも言うんですか」
え、そうですよね。
思っていたことが顔に出たいたらしい。
マリアから、すーっと表情が消えた。
「ちょっと、お話しをしましょうか」
感情の籠らない平坦な声が恐ろしい。
僕はマリアの逆鱗に触れてしまったのか。
恐怖のあまり、身が竦(すく)んで動けない。
「多田野君は、ちょーっと見直したら、すぐに調子に乗るんですから!」
こうして始まったマリアの説教は夜になるまで続いた。
アーメン。