う、吐きそう

文字数 3,677文字

 今日はマジで疲れた。
 学校帰りの道すがら、僕は目まぐるしかった今日一日のことを思い出していた。
 思い出すだけで、げんなりする。
 さっき別れた戌亥は大丈夫だろうか。
 家まで送っていくと言ったのだが、一人で帰りたいとのことなので、無理強いはしなかった。
 今にして思えば、登校してきた時点で戌亥の様子がおかしかったのは、叔父である神主が原因だったのだろう。
 今更気づいても遅いが。
 佐藤のことは、まぁ、いいや。
 放っておいても、特に害は無いだろう。
 何が起こっても、へこたれないだろうし。
 うん、もう、帰って寝よう――と思っていたら、
「あれ、そこにいるのは多田野君、疲れた顔してどうしたんですか?」
知っている声に呼び止められた。
 今、一番会ってはいけない相手だ。
 会えば、間違いなく面倒くさいことになる。
「私で良ければ、話ぐらい聞きますよ」
 それでも無視できずに振り返ると、私服姿のシスターが立っていた。
 白いTシャツにデニムのホットパンツというラフな恰好だ。
 白い太ももが目に眩しい。
 買い物帰りなのか、手にはコンビニの物と思(おぼ)しきビニール袋を提げている。
「いえ、お構いなく」
 やんわりと断ってみた。
「そんなつれないことを言わずに、喋れば気持ちも軽くなりますよ」
 マリアの善意百パーセントの笑顔に、目に見えない圧力を感じる。
 その曇りの無い瞳が、今は辛い。
 意味も無く罪悪感を掻き立てられる。
 とはいえ――口を開けば、確実にボロが出てしまうな……。
 事態をこれ以上ややこしくするのは避けなければいけない。
 よし、逃げよう!
「そう言えば、多田野君は海外留学の経験があるんですね」
 走り出そうとした足が動かなくなった。 
 心の古傷に触れられて、思わずギクッとなる。
「実は、多田野君が留学していた現地の学校から、多田野君宛の伝言を預かっているんですよ」
 今度は、身体全体がその場に縫い付けられたように固まった。
 ダメだ、完全に逃げられない!
 どうして、こうなった!
 ぎゃーっ。
 僕は、そのままマリアに連行――ではなく、促されて近くの公園まで移動することになった。
 二人並んで公園のベンチに座る。
 あぁ、何でマリアが僕の過去を知っているんだ?
 これから、どんな恐ろしい宣告がされるんだ。
 グルグルとろくでもない考えが、頭の中を駆け巡る。
 う、吐きそう。
「どうしたんですか多田野君、顔が真っ青ですよ」
 心配そうなマリアの顔を見て、少し落ち着いた。
 ここは日本だ。一年前に経験した魔女狩りのようなことは起きないはずだ。
「……夏の暑さにやられただけです。涼んでいれば良くなります」
 気が付けば、もう夕方だ。
 顔を上げると茜色の空が見える。
 世界って、こんなに美しかったんだ。
「多田野君が、死を目前にした聖職者のように澄んだ目をしています。懺悔しなければならないようなことがあったら、本当に言ってくれて構わないんですよ! 私、これでもシスターですから」
 マリアの心底慌てた声を聞いて、我に返った。
 心が彼岸に逝っていたようだ。
 妙な多幸感もしてたし。
「早まったことはしないで下さい! 命は一つしかないんです!」
「あぁ、うん……」
 適当な相槌を打ったら、マリアに頬を平手打ちされた。
 ビシィイ!
 痛い。
「目を覚ましなさい、多田野君!」
 大丈夫! 大丈夫だから!
 それからマリアが落ち着くまで、少しかかった。
 その間に、僕の両頬は真っ赤になった。
 暴力反対!
「……ごめんなさい、少しやりすぎましたね。あ、これ食べます」
 マリアは、持っていたビニール袋からカップアイスを取り出すと、僕に一つ差し出した。
 黙って、受け取る。
 バニラ味か。
 一緒に渡された木製の匙(さじ)で掬(すく)うと、一口食べる。
 甘く冷たい味に、熱を持った頬が内側から冷やされるようだ。
「そう言えば、シスターは僕が留学していたことを、どうして知っているんですか?」
 これ以上ないほど気分が落ち込んだ後なので、自分から過去の傷に触れても、僕は冷静でいられた。
 堕ちるとこまで堕ちたから、後は浮かび上がるだけだぜ!
「シスターと呼ばれるのも堅苦しいので、マリアと呼んでくれていいですよ。それほど歳が違うわけでもないですし」
 気さくに笑うマリアは、道徳? を教える先生と言うより、近所のお姉さんといった感じである。
 ただ、直ぐに手が出るのが欠点だ。
 怒らせないように注意しよう……。
「先程の質問に答えますと、私が所属している教会と多田野君が留学していた学校は、同じ教派に属していまして繋がりがあるんです。私が日本での様子を教会に報告したとき、その内容が教派内で紹介され、それを聞いていたのが、多田野君が行っていた学校の人間だったわけです。ここまではいいですか」
 僕が頷くと、マリアは本題を切り出した。
「そこから巡り巡って、私宛に伝言が来たんですね。多田野君が行っていた学校から、日本にいる私宛にエアメールが届いたのが先日のことです。それには、こう書かれていました」
 マリアは僕の顔を見ると、言葉を区切った。
 ごくりと唾を飲み込む。
「とある少年を――人間にしてやってほしい」
 えぇぇえ!
 覚悟はしてたけど、僕って人間じゃないことになっているの?
 はっきりと人外認定をされちゃったよ!
「ショックでしょうが、これは善意から出た言葉です」
 こ、これが善意!
 な、何を言っているんだ。
 混乱する僕に、マリアは畳み掛けた。
「多田野君は、人間であることの条件は何だと思いますか?」
 いや、急にそんなことを言われても。
「犯罪を犯したりしないこと……かな」
 このまま黙っていると、マジで人間扱いされなくなりそうだったので、思いついたことを口にする。
「悪くはないですけど、不十分ですね」
 ありありと残念そうな顔をするマリアに、言い知れぬ不安を覚える。
 僕って、普通だよね?
「困っている人を見かけたら助けることですか」
 少し積極的な答えにしてみる。
「うーん、まだまだです」
 考えろ、考えろ。
 今までの経験から、マリアの思考や好みを当てるんだ。
 授業中、どういうときにマリアは怒り、何を伝えたがっていたか。
 持てる頭脳の全てを駆使し、相手が喜ぶ答えを導き出す。
 もしかして、これか!
「自分なりに信念を持っていて、困難なときにも貫けること……ですか?」
 恐る恐る答える僕に、マリアはにっこりと微笑んだ。
「だいぶ近付いてきましたね。えぇ、人間には信じるものがないといけません。と言うより、信じるものを持っているのが人間としての条件だと私は――いえ、私達の教派では考えています」
 どうやら正解? にたどりついたか。
「ですので、誰かの宗教について聞くということは、あなたの信じるものは何ですかという質問と同じ意味になります」
 おお、そうなのか。
 ということは、僕は一年前のあの日、自分なりに大事にしている価値観を答えれば良かったのか?
「この質問の良いところは、相手の一番深いところを聞くことで、相手をより深く理解し、場合によっては一気に親しくなれることにあります」
 そっか、僕をエイリアンと呼んだやつらも、元は親しくなろうとしてくれていたんだな。
 一年間もの間、何でこうなったんだ? という疑問に苦しめられていたが、ようやく出口に出られそうだ。
 マリアと話して良かった――と思ったが、それはまだ早かった。
「だから、この質問に自分は無宗教です――と答えたりすると、自分は神も国も親も友人も――何も信じていない。世の中金、それどころか倫理や道徳を無視しても気にしない怪物(モンスター)ですという意味にも取られかねないので、注意しましょう」
 ぐはぁ。
 心が痛い。
 胸から目に見えない血が流れているようだ。
 僕って、そこまで大それたことを言っていたことになるの。
「海外に行き現地で生活するときは、語学力だけでは不充分なんです。その国や地域で大事にされている価値観や文化、しいては宗教まで気を配っていないと……って聞いてます?」
 胸を押さえて苦しむ僕に、マリアが怪訝(けげん)な顔をした。
 誰も、そんなことは言わなかったぞ!
 留学を勧めてくれた先生も、留学を斡旋(あっせん)してくれた団体からも!
 それでも僕が悪いのか。
 ぼ、僕の一年を返してくれ!
 泣き叫びたくなったが、マリアがいたのでかろうじて耐えた。
 結果、開放されなかった内面の苦悩が顔に出ることになる。
「多田野君、どうしたんですか! 百面相を始めて、顔が凄いことになっていますよ!」
 それからたっぷり十五分ほど、僕の奇態は続いた。
 こうして、忘れたくても忘れられない青春の一ページが、また記憶に刻まれることなる。
 はぁあぁぁ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み