明日は何かが起こる!
文字数 5,765文字
ふらふらになった大河内先生だが、その後の授業はなんとかこなしていた。
教室で僕は椅子に座りながら、教壇に立つ先生の日本史の授業を聞いている。
聞いているのだが……。
「えー、何を話していたかな? ああ、そうだ。僧侶の腐敗について話しているんだったか。この時代、政治に僧侶の介入が……」
やはり大丈夫ではないようだ。
それでも授業を続けようとするあたり、教師としての信念を感じる。
チョークを黒板でへし折ったり、黒板消しを落としたりしているが。
「鎌倉新仏教が起こって、民衆にも仏教が広がり、多くの人が救われ……救われたのかな?」
急に考え込んだ大河内先生は、ぶつぶつ呟き始めた。
ああ、悩んでいる。
先生、もう充分です。休んでください!
あなたには休息が必要です!
「比叡山を焼いたり、本願寺を攻めたりしたけど、政治から仏教勢力を追い払おうとした織田信長は偉かった――かもしれん」
大河内先生は、よく分からない話で授業を締めくくると教室を後にした。
「佐藤、ちょっと教えてくれ。あのお坊さんは誰なんだ?」
ちょうど教室から出ようとしていた佐藤を捕まえる。
僕の方に振り返った佐藤は、ニタリと笑った。
銀縁メガネがのレンズが、心なしか曇っている。
「あの方は、宗門を中興(ちゅうこう)された御上人(おしょうにん)の再来、日本仏教界の守護者とも呼ばれている人だ。今日は、公開討論会に先立ち、学校側へ挨拶に来られた。これで、もう安心。公開討論会でも、無双の活躍をされることだろう。ふっふっふ」
佐藤が何も無い空中の一点を見ながら悦に入っている。
なんかよく分からないが、その筋では有名な人らしい。
「明日の公開討論会が楽しみだ」
明日!
「ちょっと待て、その話は初耳だぞ」
日程はまだ決まっていなかったはずだ。
「さすがは終戦時にM元帥と渡り合った方、既に根回しまでしてしまうとわ」
なんか知らんが、急転直下の展開だな!
勝手に話を進めるなよ!
「多田野、今までの混乱も解決だ。学校の秩序も回復――いや、あるべき姿に新しく生まれ変わる」
おい、待て。
マリアよりも厄介な気配がするぞ。
「では、また明日」
まだ聞きたいことが!
僕が止める間も無く佐藤は教室から出て行くと、そのまま帰ってこなかった。
どうやら早退したらしい。
恐らく、明日の公開討論会に備えて何かするのだろう。
去り際に見せた佐藤の含み笑いからは、不吉な予感しかしない。
「ど、どうなるんだ?」
明日は学校を休もうかな。
多分、戌亥もそうするだろうし。
などど考えながら残りの授業を受けていたのだが、今度は別の不安が頭を過った。
明日休んで明後日登校したら、学校が一変? してたりして。
いや、まさか。
でも、う~ん。
いかん、気になって先生の話を聞いていても頭に入らない。
だが、それは僕だけではなかった。
授業中でもクラスメイトが落ち着き無くそわそわしているし。
休憩時間になれば、学校中でヒソヒソと噂話が交わされている。
嵐の前の静けさというものを、皆が感じているようだ。
明日は絶対に何かが起こる。
そんな空気が学校を支配していた。
とりあえず大河内先生に事情だけでも聞いておくか。
そんなことを考えながら、校舎と校舎を繋ぐ一階の渡り廊下を歩いていたら、中庭でシスター姿のマリアを見かけた。
マリアの傍には大河内先生がいる。
何か話しているが、僕の所までは聞こえない。
真剣な顔で話す大河内先生に対し、マリアが微笑みながら答えている。
珍しい光景だ。
非常に気になったが次の授業が始まるので、僕はそそくさと、その場を後にした。
だが一日の授業が全て終わり、ホームルームの時間になっても、大河内先生が教室に現れない。
またろくでもないことが起こったな。
クラス一同がドキドキしていると、教室のスピーカーから、キーンというハウリング音がした。
こんな時間に校内放送?
ハウリング音が治まるのを待って、校長先生の固い声がスピーカーから聞こえてきた。
「全校生徒の諸君、校長の風緑(かざみどり)です。君達に重大な発表があります」
普段は存在感ゼロの校長先生だが、こんな声も出せたのか。
校長先生は小柄な初老の男性だ。
白髪交じりの頭に白い口髭。
学校の先生というより、喫茶店のマスターでもしていそうな温和な感じの人だ。
温和過ぎて、職員会議でも人の意見に合わせてばかりの風見鶏のような人――というのは、とある先生が授業でポロッと漏らした余計な一言である。
「内々で企画されていたシスターマリアを交えての公開討論会が、急きょ明日開かれます。これは本校で実施されている新カリキュラムに対する疑問を話し合うものです。討論会には誰でも参加できるものとし、一般市民も参加されます。場所は本校の体育館、授業は一日休講とし、生徒の皆さんは観客としても質問者としても参加できます。参加は強制ではありませんが、参加されなかった方は、現在行われている新カリキュラムに基づく道徳教育に賛同されたものと見なし、後からの苦情等は受け付けません」
あまりの内容に、クラスの誰もが言葉を失っている。
学校中に漂っていた不安が、決定的なまでに肯定された訳だ。
「シスターマリアから挨拶があります」
お、渦中の人が出てきたぞ。
「生徒の皆さん、こんにちは。マリアです。この放送を聞かれた方は、突然のことに驚かれていることでしょう。私も驚いています。公開討論会を開こうという提案には、私も以前に了承していたのですが、開催の日時は未定でした。それが明日開催ということで、その連絡が私の元に来たのが、今日の昼頃のことです」
また急だな。
露骨に誰かの作為を感じる。
脳裏に、例の怪僧が高笑いしている姿が浮かんだ。
「ですが、これは神が与えた試練、いえ機会だと思います。明日は皆さんと、ざっくばらんに話したいと思います。授業で聞きにくいようなことでも大丈夫ですよ。普段感じている疑問を聞かせていただけたら、シスター冥利につきます。ですので、是非ご参加下さい。あ、言い忘れてました。明日の公開討論会での発言は、授業の評価とは完全に別扱いにしますので、安心して下さいね」
マリアの明るい声で挨拶は終わった。
最後に校長先生から、明日の具体的なタイムスケジュール等の説明が行われる。
それから、スピーカーからブツッという電源が切れる音がして、クラスに静けさが戻った。
緊急放送が終わっても、誰もどういう反応をすればいいか分からず、お互いの顔を見合わせている。
戌亥の方を見ると、実に落ち着き払った態度で椅子に腰かけていた。
その自信はどこから来るんだ?
後で話してみよう。
結局、大河内先生は現れず、職員室に探しに行った者も大河内先生はいなかったとのこと。
隣のクラスの先生にクラスメイトの一人が一声掛けて、そのまま解散となった。
「戌亥、平気そうだな。明日はやっぱり休むのか」
校内の廊下を一緒に歩きながら、隣にいる戌亥に声を掛ける。
「勿論よ。これは前から決めていたことだから、迷わないわ。多分、いえ絶対に叔父さんがやって来ると思うから。状況次第では、しばらくの間、学校を休むわね。叔父さん、はりきって問題を起こすだろうし。だから仁、代わりに学校の様子を教えてね。それともしものときは、授業のノートをよろしく」
あらら、僕は休めないじゃないか。
決然と話す戌亥を見ていると、何を言っても無駄だと思えてくる。
「分かった、分かった。明日は僕が学校にいくから。討論会の様子は、また電話で教えるよ」
「ありがとう仁、助かるわ」
調子の良い返事をする戌亥に、僕は曖昧に笑った。
やれやれ、事態が落ち着いたら、何か奢(おご)ってもらおうかな。
グリル長谷川のハンバーグ定食、三田村屋の抹茶パフェ……。
地元で有名な飲食店を思い浮かべていたら、戌亥が何かに気付いたらしく足を止めた。
「私の奢り。好きなの選んで」
丁度自販機が置いてある所に来ていたので、戌亥は気を利かせた? のだろう。
しかし缶ジュース一本か。
さっきまでの期待と較べると、なんか安過ぎる気がする。
いや、いいんだけどね。
戌亥の一か月の小遣いは二千円だと聞いたことがあるし。
「じゃあ、冷やし汁粉で」
地元企業の栄養ドリンク、冷やし野菜スープ、冷やしコーンスープ……と偏った物しか置いていない自販機の中で、僕は唯一好きな物を選んだ。
飲んでみたけど、残りは全て不味かったのは――僕の感想である。
「はい、おまけでもう一本」
冷やし汁粉と共に渡されたのは、ブルーベリージュースだった。
ただしジュースとは名ばかりで、缶の中にはゲル状の物体が入っている。
眼精疲労に良く効くという触れ込みだが、飲みにくくて爽やかさの無い一品だ。
とある農業法人が作った失敗作というのは、校内で実(まこと)しやかに話されている噂である。
「今日のところは、これで勘弁ね。お礼は改めてするから」
あんまり期待しないで、楽しみにしているよ。
「私は図書室に本を返しに行くんで、仁は先に帰ってくれていいわよ。待たせるのも悪いし」
戌亥と別れると、僕は手に持っている二つの缶を見ながら困った。
小遣いの少ない戌亥は、図書室の常連である。
読みたい本や雑誌の要望を図書室へとせっせと出し、蔵書の充実を図ると共に、限りある資金の節約に励んでいるのだ。
そういう事情がある戌亥から貰った物なので、不本意な物でも粗末にできない。
戌亥には、そもそも自販機を使う習慣が無いので、あの自販機は鬼門ということを知らなかったのだろう。
とはいえ無理して飲むのも気が進まないんだよな。
どうしようかと思って歩いていたら、中庭に差し掛かった。
あ、大河内先生がベンチで黄昏ている。
力無く口を開けて、ベンチにもたれ掛かっている大河内先生には生気が無い。
焦点が定まっていなさそうな瞳には、多分何も映っていない。
まるで口から魂が抜けているようだ。
「先生、気をしっかりして下さい!」
さすがに放っておくわけにはいかないだろう。
僕は大河内先生に近付くと、大河内先生の耳元で大声を出した。
マリアなら平手打ちでもしそうだが、仮にも担任の先生相手に、そんなことはできない。
「ああ、多田野か。悪い、ぼぉっとしていた。実は昼飯を食っていないんだ」
先生はのろのろと首を動かすと、僕が持つジュースの缶に目を止めた。
熊のような大男に、じーっと見られるのが怖い。
肉食獣に狙われた獲物のような気がしてくる。
「あの、良ければ飲みますか」
ちょっと迷ったが、冷やし汁粉の方を差し出すと、先生の眉が微妙に動いた。
あ、いけない。
慌ててブルーベリージュースの缶を渡す。
「間違えました。こっちの方をどうぞ」
後で後悔しても、先生が選んだ結果だから。
僕は悪くないんだ!
「おお、すまんな」
先生、生徒から飲物を巻き上げてる時点で、すでにアウトです。
僕から受け取った缶を開けると、大河内先生はグビグビ? と飲み始めた。
飲み始めて、すぐに違和感を感じたのか、うん? という顔をするが、見なかったことにする。
「多田野、何だこれ。ジュースじゃなくて、スムージー、いやゼリー? か」
喉にまとわりつく、こんなの期待していない感が詰まった物体を飲み下すと、大河内先生は、ふぅと息を吐いた。
「なんか癖になるな」
その嗜好は間違ってますよ。
それから、大河内先生が全て飲み終わるまで三分ほどかかった。
心なしか満足そうだ。
戌亥、お前がくれた物(主に何かの罰ゲームに使われる)を、大河内先生はいたく気に入ってくれたぞ。
いいことしたな。
「多田野、助かった。これで動けそうだ」
目に光が戻っている。
「先生、どうしたんですか。こんな所で燃え尽きたみたいに座っていて」
さっきまでの大河内先生は、闘い疲れた企業戦士のようだった。
「今日は色々あってな、疲れることが多かったんだ」
血糖値が下がり過ぎて、身体を動かすことはおろか、物を考えることすら難しそうだったからな。
口を開くのもしんどそうだったし。
「すでに知っていると思うが、明日は公開討論会だ。多田野、驚いているだろう。先生も驚いている。何で、そうなったかと言えば、よく分からない。学校にマスコミから電話が掛かってきて、話してみると――なぜか明日開催という情報が、あちこちに飛び回っているようなんだ」
もしかして――老僧の指示の下、佐藤があちこちに電話を掛けまくってるいるんじゃないか?
あの、時代劇で悪役を務めてそうな老人には、陰謀という言葉がよく似合う。
「テレビで、夕方のニュースに取り上げられる。しかも地方のニュースとしてではなく、全国のニュースとしてだ。不可解な点が多いから、何とか延期に持ち込もうとシスターに話したんだが、マリアは却ってやる気になってる。もはや引き返せない。誰にも止められない、制御不能だ。穏便に済ますことなどできそうにない。明日は凄いぞ!」 大河内先生は叫ぶと、がっくりと肩を落とした。
そうか、先生とマリアが話している姿を見かけたが、あれはマリアを説得しようとしていたんだ。
そして、マリアは先生の説得を歯牙にもかけなかったということか。
困難な状況であればあるほど、闘志を燃やしそうだもんな、あのシスターは。
「そんな予測不能な状況の中、自分が当日の司会進行になってしまってな。今から気が重い」
ああ、また厄介なことを押し付けられましたね。
僕にできるのは、こんなことですけど。
もう一本あげるので、元気を出して下さい。
落ち込む先生に冷やし汁粉の缶を渡して、僕は帰路に就いた。
明日は、何かが起こる。
そして迎えた公開討論会当日――その日の学校は凄かった。
教室で僕は椅子に座りながら、教壇に立つ先生の日本史の授業を聞いている。
聞いているのだが……。
「えー、何を話していたかな? ああ、そうだ。僧侶の腐敗について話しているんだったか。この時代、政治に僧侶の介入が……」
やはり大丈夫ではないようだ。
それでも授業を続けようとするあたり、教師としての信念を感じる。
チョークを黒板でへし折ったり、黒板消しを落としたりしているが。
「鎌倉新仏教が起こって、民衆にも仏教が広がり、多くの人が救われ……救われたのかな?」
急に考え込んだ大河内先生は、ぶつぶつ呟き始めた。
ああ、悩んでいる。
先生、もう充分です。休んでください!
あなたには休息が必要です!
「比叡山を焼いたり、本願寺を攻めたりしたけど、政治から仏教勢力を追い払おうとした織田信長は偉かった――かもしれん」
大河内先生は、よく分からない話で授業を締めくくると教室を後にした。
「佐藤、ちょっと教えてくれ。あのお坊さんは誰なんだ?」
ちょうど教室から出ようとしていた佐藤を捕まえる。
僕の方に振り返った佐藤は、ニタリと笑った。
銀縁メガネがのレンズが、心なしか曇っている。
「あの方は、宗門を中興(ちゅうこう)された御上人(おしょうにん)の再来、日本仏教界の守護者とも呼ばれている人だ。今日は、公開討論会に先立ち、学校側へ挨拶に来られた。これで、もう安心。公開討論会でも、無双の活躍をされることだろう。ふっふっふ」
佐藤が何も無い空中の一点を見ながら悦に入っている。
なんかよく分からないが、その筋では有名な人らしい。
「明日の公開討論会が楽しみだ」
明日!
「ちょっと待て、その話は初耳だぞ」
日程はまだ決まっていなかったはずだ。
「さすがは終戦時にM元帥と渡り合った方、既に根回しまでしてしまうとわ」
なんか知らんが、急転直下の展開だな!
勝手に話を進めるなよ!
「多田野、今までの混乱も解決だ。学校の秩序も回復――いや、あるべき姿に新しく生まれ変わる」
おい、待て。
マリアよりも厄介な気配がするぞ。
「では、また明日」
まだ聞きたいことが!
僕が止める間も無く佐藤は教室から出て行くと、そのまま帰ってこなかった。
どうやら早退したらしい。
恐らく、明日の公開討論会に備えて何かするのだろう。
去り際に見せた佐藤の含み笑いからは、不吉な予感しかしない。
「ど、どうなるんだ?」
明日は学校を休もうかな。
多分、戌亥もそうするだろうし。
などど考えながら残りの授業を受けていたのだが、今度は別の不安が頭を過った。
明日休んで明後日登校したら、学校が一変? してたりして。
いや、まさか。
でも、う~ん。
いかん、気になって先生の話を聞いていても頭に入らない。
だが、それは僕だけではなかった。
授業中でもクラスメイトが落ち着き無くそわそわしているし。
休憩時間になれば、学校中でヒソヒソと噂話が交わされている。
嵐の前の静けさというものを、皆が感じているようだ。
明日は絶対に何かが起こる。
そんな空気が学校を支配していた。
とりあえず大河内先生に事情だけでも聞いておくか。
そんなことを考えながら、校舎と校舎を繋ぐ一階の渡り廊下を歩いていたら、中庭でシスター姿のマリアを見かけた。
マリアの傍には大河内先生がいる。
何か話しているが、僕の所までは聞こえない。
真剣な顔で話す大河内先生に対し、マリアが微笑みながら答えている。
珍しい光景だ。
非常に気になったが次の授業が始まるので、僕はそそくさと、その場を後にした。
だが一日の授業が全て終わり、ホームルームの時間になっても、大河内先生が教室に現れない。
またろくでもないことが起こったな。
クラス一同がドキドキしていると、教室のスピーカーから、キーンというハウリング音がした。
こんな時間に校内放送?
ハウリング音が治まるのを待って、校長先生の固い声がスピーカーから聞こえてきた。
「全校生徒の諸君、校長の風緑(かざみどり)です。君達に重大な発表があります」
普段は存在感ゼロの校長先生だが、こんな声も出せたのか。
校長先生は小柄な初老の男性だ。
白髪交じりの頭に白い口髭。
学校の先生というより、喫茶店のマスターでもしていそうな温和な感じの人だ。
温和過ぎて、職員会議でも人の意見に合わせてばかりの風見鶏のような人――というのは、とある先生が授業でポロッと漏らした余計な一言である。
「内々で企画されていたシスターマリアを交えての公開討論会が、急きょ明日開かれます。これは本校で実施されている新カリキュラムに対する疑問を話し合うものです。討論会には誰でも参加できるものとし、一般市民も参加されます。場所は本校の体育館、授業は一日休講とし、生徒の皆さんは観客としても質問者としても参加できます。参加は強制ではありませんが、参加されなかった方は、現在行われている新カリキュラムに基づく道徳教育に賛同されたものと見なし、後からの苦情等は受け付けません」
あまりの内容に、クラスの誰もが言葉を失っている。
学校中に漂っていた不安が、決定的なまでに肯定された訳だ。
「シスターマリアから挨拶があります」
お、渦中の人が出てきたぞ。
「生徒の皆さん、こんにちは。マリアです。この放送を聞かれた方は、突然のことに驚かれていることでしょう。私も驚いています。公開討論会を開こうという提案には、私も以前に了承していたのですが、開催の日時は未定でした。それが明日開催ということで、その連絡が私の元に来たのが、今日の昼頃のことです」
また急だな。
露骨に誰かの作為を感じる。
脳裏に、例の怪僧が高笑いしている姿が浮かんだ。
「ですが、これは神が与えた試練、いえ機会だと思います。明日は皆さんと、ざっくばらんに話したいと思います。授業で聞きにくいようなことでも大丈夫ですよ。普段感じている疑問を聞かせていただけたら、シスター冥利につきます。ですので、是非ご参加下さい。あ、言い忘れてました。明日の公開討論会での発言は、授業の評価とは完全に別扱いにしますので、安心して下さいね」
マリアの明るい声で挨拶は終わった。
最後に校長先生から、明日の具体的なタイムスケジュール等の説明が行われる。
それから、スピーカーからブツッという電源が切れる音がして、クラスに静けさが戻った。
緊急放送が終わっても、誰もどういう反応をすればいいか分からず、お互いの顔を見合わせている。
戌亥の方を見ると、実に落ち着き払った態度で椅子に腰かけていた。
その自信はどこから来るんだ?
後で話してみよう。
結局、大河内先生は現れず、職員室に探しに行った者も大河内先生はいなかったとのこと。
隣のクラスの先生にクラスメイトの一人が一声掛けて、そのまま解散となった。
「戌亥、平気そうだな。明日はやっぱり休むのか」
校内の廊下を一緒に歩きながら、隣にいる戌亥に声を掛ける。
「勿論よ。これは前から決めていたことだから、迷わないわ。多分、いえ絶対に叔父さんがやって来ると思うから。状況次第では、しばらくの間、学校を休むわね。叔父さん、はりきって問題を起こすだろうし。だから仁、代わりに学校の様子を教えてね。それともしものときは、授業のノートをよろしく」
あらら、僕は休めないじゃないか。
決然と話す戌亥を見ていると、何を言っても無駄だと思えてくる。
「分かった、分かった。明日は僕が学校にいくから。討論会の様子は、また電話で教えるよ」
「ありがとう仁、助かるわ」
調子の良い返事をする戌亥に、僕は曖昧に笑った。
やれやれ、事態が落ち着いたら、何か奢(おご)ってもらおうかな。
グリル長谷川のハンバーグ定食、三田村屋の抹茶パフェ……。
地元で有名な飲食店を思い浮かべていたら、戌亥が何かに気付いたらしく足を止めた。
「私の奢り。好きなの選んで」
丁度自販機が置いてある所に来ていたので、戌亥は気を利かせた? のだろう。
しかし缶ジュース一本か。
さっきまでの期待と較べると、なんか安過ぎる気がする。
いや、いいんだけどね。
戌亥の一か月の小遣いは二千円だと聞いたことがあるし。
「じゃあ、冷やし汁粉で」
地元企業の栄養ドリンク、冷やし野菜スープ、冷やしコーンスープ……と偏った物しか置いていない自販機の中で、僕は唯一好きな物を選んだ。
飲んでみたけど、残りは全て不味かったのは――僕の感想である。
「はい、おまけでもう一本」
冷やし汁粉と共に渡されたのは、ブルーベリージュースだった。
ただしジュースとは名ばかりで、缶の中にはゲル状の物体が入っている。
眼精疲労に良く効くという触れ込みだが、飲みにくくて爽やかさの無い一品だ。
とある農業法人が作った失敗作というのは、校内で実(まこと)しやかに話されている噂である。
「今日のところは、これで勘弁ね。お礼は改めてするから」
あんまり期待しないで、楽しみにしているよ。
「私は図書室に本を返しに行くんで、仁は先に帰ってくれていいわよ。待たせるのも悪いし」
戌亥と別れると、僕は手に持っている二つの缶を見ながら困った。
小遣いの少ない戌亥は、図書室の常連である。
読みたい本や雑誌の要望を図書室へとせっせと出し、蔵書の充実を図ると共に、限りある資金の節約に励んでいるのだ。
そういう事情がある戌亥から貰った物なので、不本意な物でも粗末にできない。
戌亥には、そもそも自販機を使う習慣が無いので、あの自販機は鬼門ということを知らなかったのだろう。
とはいえ無理して飲むのも気が進まないんだよな。
どうしようかと思って歩いていたら、中庭に差し掛かった。
あ、大河内先生がベンチで黄昏ている。
力無く口を開けて、ベンチにもたれ掛かっている大河内先生には生気が無い。
焦点が定まっていなさそうな瞳には、多分何も映っていない。
まるで口から魂が抜けているようだ。
「先生、気をしっかりして下さい!」
さすがに放っておくわけにはいかないだろう。
僕は大河内先生に近付くと、大河内先生の耳元で大声を出した。
マリアなら平手打ちでもしそうだが、仮にも担任の先生相手に、そんなことはできない。
「ああ、多田野か。悪い、ぼぉっとしていた。実は昼飯を食っていないんだ」
先生はのろのろと首を動かすと、僕が持つジュースの缶に目を止めた。
熊のような大男に、じーっと見られるのが怖い。
肉食獣に狙われた獲物のような気がしてくる。
「あの、良ければ飲みますか」
ちょっと迷ったが、冷やし汁粉の方を差し出すと、先生の眉が微妙に動いた。
あ、いけない。
慌ててブルーベリージュースの缶を渡す。
「間違えました。こっちの方をどうぞ」
後で後悔しても、先生が選んだ結果だから。
僕は悪くないんだ!
「おお、すまんな」
先生、生徒から飲物を巻き上げてる時点で、すでにアウトです。
僕から受け取った缶を開けると、大河内先生はグビグビ? と飲み始めた。
飲み始めて、すぐに違和感を感じたのか、うん? という顔をするが、見なかったことにする。
「多田野、何だこれ。ジュースじゃなくて、スムージー、いやゼリー? か」
喉にまとわりつく、こんなの期待していない感が詰まった物体を飲み下すと、大河内先生は、ふぅと息を吐いた。
「なんか癖になるな」
その嗜好は間違ってますよ。
それから、大河内先生が全て飲み終わるまで三分ほどかかった。
心なしか満足そうだ。
戌亥、お前がくれた物(主に何かの罰ゲームに使われる)を、大河内先生はいたく気に入ってくれたぞ。
いいことしたな。
「多田野、助かった。これで動けそうだ」
目に光が戻っている。
「先生、どうしたんですか。こんな所で燃え尽きたみたいに座っていて」
さっきまでの大河内先生は、闘い疲れた企業戦士のようだった。
「今日は色々あってな、疲れることが多かったんだ」
血糖値が下がり過ぎて、身体を動かすことはおろか、物を考えることすら難しそうだったからな。
口を開くのもしんどそうだったし。
「すでに知っていると思うが、明日は公開討論会だ。多田野、驚いているだろう。先生も驚いている。何で、そうなったかと言えば、よく分からない。学校にマスコミから電話が掛かってきて、話してみると――なぜか明日開催という情報が、あちこちに飛び回っているようなんだ」
もしかして――老僧の指示の下、佐藤があちこちに電話を掛けまくってるいるんじゃないか?
あの、時代劇で悪役を務めてそうな老人には、陰謀という言葉がよく似合う。
「テレビで、夕方のニュースに取り上げられる。しかも地方のニュースとしてではなく、全国のニュースとしてだ。不可解な点が多いから、何とか延期に持ち込もうとシスターに話したんだが、マリアは却ってやる気になってる。もはや引き返せない。誰にも止められない、制御不能だ。穏便に済ますことなどできそうにない。明日は凄いぞ!」 大河内先生は叫ぶと、がっくりと肩を落とした。
そうか、先生とマリアが話している姿を見かけたが、あれはマリアを説得しようとしていたんだ。
そして、マリアは先生の説得を歯牙にもかけなかったということか。
困難な状況であればあるほど、闘志を燃やしそうだもんな、あのシスターは。
「そんな予測不能な状況の中、自分が当日の司会進行になってしまってな。今から気が重い」
ああ、また厄介なことを押し付けられましたね。
僕にできるのは、こんなことですけど。
もう一本あげるので、元気を出して下さい。
落ち込む先生に冷やし汁粉の缶を渡して、僕は帰路に就いた。
明日は、何かが起こる。
そして迎えた公開討論会当日――その日の学校は凄かった。