第6話 ドナウの末裔

文字数 4,820文字

黄昏暦(Dämmerung)四百年 西暦二四五〇年 八月二十日

「帰ってきた……エリスンが帰ってきたぞーッ!!」
 ワァーッと歓声を上げて、村の研究者たちがボートの周りに集まってきた。
帰宅予定より丸一日過ぎていた。
 途中ウィーンの廃墟で一晩過ごし、エリスン・オンディーヌは、ペッシオンに戻ってきた。喜ぶ村人たちは、何かあったのかと、口々に聞いてくる。ほとんどの村人が作業の手を休めて駆けつけた。
「えぇ……後でお話しします」
 エリスンはフラフラとガラスドームのゲートをくぐった。ビオトープの葉の一枚一枚をいとしげに眺めてホッとする。
「ただいま陛下」
 マリア・テレジア像に力なく挨拶をすますと、廊下を進んで、温泉浴場へと向かう。マジャル砂漠の中で、ここペッシオンだけ温泉が出ていた。かつて、ハンガリーは温泉大国だった。
 エリスンは、疲れ切った身体を温かいシャワーで洗い流し、湯船に首までつかった。温泉は、大地のエネルギーを吸い上げて、エリスンの疲弊したエネルギーを充填してくれる。ヘイズで受けた汚染、感じたどす黒いエネルギーを流し落す。風呂から上がると、新しい衣類に着替えた。
 エリスンは娘のように可愛がってくれる研究者たちに、旅の疲れを癒す食事でねぎらわれた。
 クレープにジャムなどを挟んで食べるパラチンタ、スープのグヤーシュ、デコレーションケーキのトルテ、そして大鯰・クラリアスのソテー。ペッシオンでは、フルーツブランデーのパーリンカや、貴腐ワイン、梅酒と、さまざまな果実酒を作っている。エリスンは、ノンアルコールのホットワインを飲んだ。

緑の秘境アルシアナ

「君が観たのは、おそらく『下水処理城』だろう。汚水処理と再生可能エネルギー(バイオマスエネルギー)のバイオガスを大量生産し、ヘイズの電力を担っている――はずだ」
 夕食後、所長室でユーリャ・ハーキマー所長は言った。
「そんな、でも、なんで作動してないのでしょう?」
 エリスンはスープを口に運びながら訊いた。
「やってはいるが汚水処理に問題があるようだ。酸性雨が降りっぱなしで汚水処理が追い付かなくなったんだ。ほとんど垂れ流しだろう。一方で、ヘイズは産業革命の美酒に酔っている。いずれ下水処理するなどと言いながら、後回しだ。下流の国のことなどどうでもよいのだろう」
 ペッシオンより以東のドナウ川でも、大分汚染が流れ着いていた。
「汚染は、西ドナウ国内でもとても深刻です。大気も汚れていて、住民は屋外ではマスクなしでは歩けません。でも、貧富の差がとても激しくて……」
「思った以上だな。緑が残る南米でも、インダストリアル・ローマ社は植民国アルシアナで搾取している。社長の娘の支社長パメラ・ゴードンが派手な開発を行っているらしい。未だ解消されない南北問題だ」
 砂漠化が進む地球上で唯一の例外が、南米の「アマゾン緑界」だ。
 ローマ社の海外支局の一つアルシアナ支局は、世界で唯一残った巨大密林・アマゾン緑界へと進出し、ヘイズと同様の環境破壊をもたらしていた。近年、木材は貴重な資源で、各国で高値で取引されていた。
「地球に残された最後の緑の砦なのに……。あそこが失われれば地球の酸素が減る」
「だが、彼らは貴重な木材資源を各国に売っている……」
 アルシアナは、アマゾン緑界(アマゾン界)のすぐ横に位置する。
 川の名称がドナウの国名となった源流は、かつての世界を席巻した大企業パックス・アマゾニカ社から端を発する。パックス・アマゾニカはロートリックス帝国系の関連企業で、その名の由来はアマゾン緑界にあった。
「そこでもローマ社は下水城を建設し、アルシアナの環境破壊の原因となっているんだ」
「ヘイズにあった汚水ダムと同じ?」
「そうだ、もっと巨大だ。彼らは世界中で環境を汚しているよ」
「一刻も早く、政府に伝えないと。明日、軍都へ向かいます」
「大丈夫なのか? 少し休んだ方が――」
「大丈夫です。ゆっくりなんてしてられません」
 エリスンは自分のコップを見つめて言った。
 エリスンは、十六年間生きてきて、これまでにないくらい自分の中で使命感に突き動かされていた。

ドナウの末裔

「君を助けてくれたレジスタンスのことだが」
「えぇ……危ない所でした。でも、妙なんです。『ドナウエッシンゲン同盟』は、わたしのことを知っていたといい、ドナウの皇女だと」
 コト……とエリスンは父の短刀『竜のウロコ』を置いた。
「私、幼いころ両親が亡くなったと聞かされました。ずっと、この村で育ちました。何も知らないんです。ハーキマーさん、本当なんでしょうか――」
 所長は無言で立ち上がり、応接室の壁に鎮座する黄金のマリア・テレジア像の胴体を開いた。その中身は金庫になっていた。
「話さねばならないときが来たようだ」
 ユーリャ所長は、金庫から金印を取り出して、テーブルの王家の徴の短刀の横に置いた。
「玉璽……これ……神聖ドナウ帝国皇帝の?」
 ユーリャ所長はうなずいた。大きさは四センチ四方。上部でフェニックスが羽を広げている。短刀の柄の紋章と同じだったが、ハーモニーにどこか似ている。
 エリスンはレジスタンスの話を信じていなかった。所長に否定してほしくて聞いたのだ。だが――所長の口から出た次の言葉にさらに驚かされることになった。
「君は確かに皇女だ。――旧神聖ドナウ帝国の建国記念日に、こんな話ができるのも、何かの導きかもしれんな」
 今日八月二十日は神聖ドナウ帝国、そして旧ハンガリーの建国記念日だ。
「……」
 エリスンは唖然とした。ホットワインを飲む手が止まった。
「この村は、表向きは地球環境を研究するテラリウム村だ――、あらゆる分野で、地球を救うための研究を行っている。だが我々は、君を守るためにここいる」
「どういうことですか?」
「西のレジスタンスが君に、ドナウ帝国の近衛隊の子孫だと、そう言ったんだな?」
「はい……」
「だが我々も、帝国のドナウギルド僧団の末裔なのだ。ブルーブラッドのサイキック能力者の血統は、ほとんど滅んだと言われているが、実際はそうではない」
 しばらく二人の間で、沈黙が流れた。――「皇女の血統を守っている村」?
「それが君だ、エリスン」
「わ、私――」
 エリスンはバッと立ち上がった。椅子がガタンと音を立てて倒れた。ゆっくりと椅子を戻す。
「なぜドナウの川守が、国境を超えたドナウ川の管理権限を持っているのか、考えたことはあるか?」
「……」
「それはペッシオンが、ドナウ皇帝家と密接な関係があったからなんだ」
 玉璽は、金色にキラキラと輝いていた。
「嘘です、そんな――」
 国境検問所でのこと。エリスンはレジスタンスと同様の“力”を発揮して脱出した。それは、誰よりも強い力だった。所長の言葉を否定しようにも……否定できない。
「本当だとも。マジャル砂漠の砂の下には、旧ドナウ帝国の帝都ブダペシュトが存在している。この、ペッシオンの真下にな」
 神聖ドナウ帝国の源流はハプスブルク帝国(オーストリア・ハンガリー二重帝国)、すなわち神聖ローマ帝国なので、ここにマリア・テレジア像が置かれていたのだ。その首都ブダペシュトが、ここマジャル砂漠の下に眠っている。
「百年前、帝国が二つに分裂し、最終兵器を使った戦争で滅んだ際、この辺一体は破壊の末に砂漠に変化した。以来、メタル生命体が出現し、闊歩している……」
 メタル生態系はおよそ百年の歴史しかなかった。ドナウ大戦で、それまで数少ない緑地だった欧州の中原が砂漠化し、その後に突如発生したのである。
「この先、どうなってしまうの。人類は、私は――」
 エリスンは、聞くともなしに力なくつぶやいた。
「放っておけば人類は滅亡する。だがペッシオンには、ある伝説が残されておる。いつか、新皇帝ドナウ・クライストがドナウを再統一し、世界を救う、とな――。人類を滅亡の危機からな」
「この砂漠を? 本当に、……そんなことが? 食糧難を、救えると言うのですか?」
 所長はエリスンの碧眼をじっと見つめてうなずいた。
 マジャルは、雨が一滴も降らない。ドナウ川からくみ上げ、散水機で水を撒いている。どうして、たった一人の人間が現れただけで、全世界に広がる死の砂漠を救えるというのだろう?
「にわかには信じられません。予言なんて、地球を救う科学と、何の関係もないのでは?」
「ドナウ・クライストが何を示すのかは、我々にもまだ分からない。だが私は、“ソレ”が、世界を救うという言葉を信じているんだ」
 エリスンには、所長の言うことが、何もかも信じられなかった。
「そんなの、ただの伝説だわ! 私たちが世界を救うかもしれない研究をしていることは信じています。でも、」
 所長の言う「ドナウ・クライスト」は、エリスンにはレジスタンスの言う「ピースメーカー」と同じような伝説だと感じられた。
「明日は……軍都へ参ります」
「今夜一晩、国璽を貸してあげよう。君の部屋に持っていきなさい。触っているうちに何かを感じるかもしれない。よく考えてみるとよい」
「では……休ませていただきます」

ペッシオンの地下都市

 衝撃を覚えつつ、明日都に報告することで、エリスンは自室でベッドに仰向けになった。玉璽を眺める気にならず、机の上に置いた。
 この何日かで、体験した事。単調な研究者の生活を繰り返してきた自分には、何年分も経験したような気がする。西ドナウのレジスタンスから聞かされた話。世間知らずのエリスンには、何もかも初めて聞く話ばかりだった。もう平凡だった日々は、はるか遠い過去の出来事のように感じた。
(私が皇女だなんて……そんな……ばかなこと。それに西の人たちの言うピースメーカーとか、所長の言ったドナウ・クライストなんて、とてもじゃないけど受け入れがたい)
 今分かっているのは、このままでは東西ドナウの冷戦は崩れ、紛争が起こるということ。戦を止めなければならない。
 ハーモニーとベッドで寝転がって戯れていると、ハーモニーがキィキィ鳴き出した。机の上の玉璽が煌々と光り輝いている。エリスンは玉璽を持って廊下へ出た。
 テレジア像の裏に隠し扉があり、床を見ると摩耗した跡がある。何度も開け閉めしているようだ。玉璽を持って立っていると自然に開いた。
 らせん階段をクルクルと駆け下り、どんどん下っていく。およそ五十メートル程も降りただろうか。巨大な神殿内に出た。
「シェルターだ!」
 旧ハンガリーの国会議事堂だった。
 今は失われたヨーロッパ建築の粋が、エリスンの目の前に広がっている。ブダペシュトがかつて、「ドナウの真珠」と言われた名残がここにある。だが、ただの遺跡ではなかった。
 巨大な計測器が何台も設置され、研究所になっていた。機器は稼働していた。
「何かしているんだ……」
 ペッシオン地下で村人たちはエリスンが知らない作業をしている。そういえばクレアデス主任が時々、どこを探しても見当たらないことがある。深く考えたこともなく、自室にこもっているのだろうと思っていたが、彼は確実に地下のことを知っているはずだ。
 どうやら地下はこのホールだけで、それ以外の部屋は砂に埋まっているらしかった。
 ……明日、所長に訊いてみよう。きっとハーキマー所長は、エリスンに地下のことを教えようと思って、玉璽を渡してくれたに違いない。こんな話は一度も聞いたことない。誰もが玉璽や、地下のことを知っているとは思えなかった。所長を含めて、おそらく五、六人……。
 エリスンは元来た階段を上って部屋に戻ると、玉璽を机の引き出しにしまい、ベッドの中に潜った。
 くるっと寝相を変えて、枕に顔をうずめると、疲れがドッと出て、エリスンはすぐ眠りに就いた。

「ハーモニー……ハーモニー……」

「また、あなたなの……」

「お姉さま」

「誰よ……私のことをお姉さまって呼んでいるのは!!」

「ハーモニー……私よ、お姉さま」

「おねえさま?」
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