第2話

文字数 2,849文字

 アイルが鍋の中身をすっかり平らげてしまうのを、男は黙って見守っていた。
 人ごこちついて、アイルはスープ碗を置き、男にぺこりと頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
「どういたしまして」
 男は、にこりと笑った。
「さて」
 男は、あらためてアイルを見つめた。
「きみはいったい、何者だい?」
 答えることはできなかった。
 アイルは、うつむいた。
 男は、首をかしげ、
「では、わたしから自己紹介しようか。私の名はダグ。ごらんの通りの旅人で、ここで野宿をしていた。そこに君が現れた。幽霊のように青ざめて、疲れはててね。しかも、そのなりからすると、このあたりの子供ではなさそうだ。わたしの頭の中では今、疑問がぐるぐるとうずまいているところなのだが」
 口調は冗談めかしていたが、アイルの顔をのぞきこむ表情は真剣に心配してくれているようだった。
「ぼくはアイル」
 アイルは、ダグに何もかも話そうと思った。
「でも、お答えできるのはそれだけです。ぼくが思い出せるのは、名前だけ。みんな、忘れてしまった」
 アイルは、何も分からないまま目覚め、森の中をさまよい歩いたことをダグに語った。
 ダグは気の毒そうに眉をひそめた。
「きみのその肌、その姿」
 やがてダグは言った。
「どう見ても、西方の砂漠の民のものだと思う」
「西方?」
「ああ。わたしの故郷も西方でね。砂漠には行ったことはないが、きみのような姿をした砂漠の民を何度も見かけたことがあるんだ。ここから、だいぶ離れているけれども・・」
「服に、砂がたくさんついていました」
 ダグは、うなずいた。
「砂漠の子供はきれいだからな。悪い連中がさらって来ては、都の貴族や地方の商人に売りとばすって話を聞いたことがある。ひょっとしたら、君も・・」
「ぼくも?」
「そんなやつらから逃げているうちに、何かがあって記憶を無くしたのかも。あくまでも、推測だがね」
「・・」
「何か手がかりがあればいいんだが」
 アイルはうなだれ、はっと頭を上げた。
「これ、これを持っていました」
 アイルは、腰帯にはさんでいたものを取り出した。ダグは受け取り、たき火の炎ですかし見た。
「これは、矢尻だな。しかも、だいぶ古い」
「わかりますか」
「うん。それに、これには何か文字が書いてあるようだよ」
「文字?」
 ダグは、親指の腹で矢尻の表面をこすった。
 たしかに、ひどく細かい模様のようなものが見て取れた。すりへってはっきりとはわからなかったが、うずまきと直線を組み合わせたような形がいくつか。
「古代文字かもしれないな」
 ダグがつぶやいた。
「どこかの遺跡で似たような字をみたことがある。千年以上も前のものさ」
「意味、わかります?」
「いいや、かいもく」
 ダグは、首をふった。
「いわくありげだが、ますますわからないな。とにかく、それは大事にしまっていた方がいいよ。まちがいなく、君にとって大切なものだ」
「ええ」
「今晩はもう休んだ方がいい」
 ダグは、アイルの肩をたたき、力づけるように言った。
「きみは、疲れている。明日になれば、思い出せることがあるかもしれないさ」
 だったら、どんなにいいだろう。
 ダグの貸してくれた外套にくるまって、アイルは目を閉じた。
 自分は砂漠の民?
 砂漠を想像することはできた。
 褐色の大地の向こうに連なる白い砂丘。
 舞い上がる砂。突然の砂嵐。
 だがそれが、自分とどうかかわっていたのか、結びつけることはできなかった。
 やがて、静かな砂の浸食のように、眠りがアイルを押しつつんだ。
 
 朝日の中で目ざめても、昨日と同じ。
 何一つ思い出してはいなかった。
 ため息をついたアイルに、ダグが言った。
「しばらく、私と一緒に来るかい? きみが記憶をとりもどす方法を、なんとか探してみるとしよう」
「ダグさん」
 アイルは、言葉につまった。
「でも、迷惑じゃ・・」
「きみがわたしのたき火に飛び込んで来たのも何かの縁だ」
 ダグは、ほほえんだ。
「このまま、放っておくわけにはいかないさ」
「ありがとうございます、ダグさん」
 アイルは、心から言った。
「ぼく、あなたのためなら、何でもします」
「大げさに考えるなよ」
 ダグは、ちょっと照れくさそうに肩をすくめた。
「どうせわたしは、あてのない放浪者なんだ。たまには目的ができるというのもいいものさ」
 乾パンとコーヒーの朝食を終えると、ダグは旅嚢(りょのう)から服を一式取りだした。
「粗末で悪いが、まず、こっちを着た方がいい。その格好では目立つだろう。きみが人買いから逃れてきたとすれば、連中も探しているはずだしね」
 ダグの服は、さすがに大きかった。上着の袖とズボンの裾をだいぶまくり上げ、腰帯をきつく結んでなんとか体裁を整えた。
「少しがまんしてくれ」
 ダグが笑って言った。
「大きな町に行ったら、古着屋を見つけるとしよう」
 ダグの全財産は、生活用具や衣類を入れた大きな旅嚢一つと、長い弓だった。弦を外した弓は、細長い布でていねいに巻かれてあった。
 アイルは、ふと首をかしげた。何かがものたりない。
「弓はあるのに、どうして矢を持たないの? ダグさん」
「ああ」
 ダグは肩をすくめた。
「わたしに、矢は必要ないんだよ」
「でも、弓だけじゃ狩りはできない」
「いいんだ。この弓は狩りをするためのものじゃない」
 ダグは、あいまいな笑みを浮かべた。
「まあ、今にわかるよ」
 たき火をした場所からそう離れていない所に道があった。それは、森の木立の向こうにまっすぐ続いていた。
「このあたりは、エルド領だ。インファーレンの南東部にあたる。この道をずっとたどっていけば、イラスル領に向かう街道に出るはずだ」
 ダグが道の脇に立ち止まって説明した。
「イラスル領から四つ領地を過ぎると、王都アスファだ。アスファの後ろにはオラフルという美しい山脈があってね、砂漠は山脈を越えた向こう側に広がっている」
「遠いんですね」
 アイルは目をみはった。こんなに離れたところまで、どうやって自分は来たというのだろう。
「てくてく歩けば、二月ほどかかる距離かな。行ってみるかい?」
 砂漠になら、自分を知っている者もいるだろうか。だが、砂漠の広大さはなんとなく理解できた。その中で知り合いを見つけるのは、なみたいていのことではなさそうだった。
 ダグは、力づけるようにアイルの肩をたたいた。
「とにかく、西に向かうとしよう。たぶん、砂漠に着くよりも早く思い出せるさ。どこかで、まじない師を探せるはずだ」
「まじない師?」
「魔法使いとまではいかないが、常人を越えた力を持った連中だよ。病気を治したり、未来を占ったりもする。きみの記憶を取りもどす手伝いをしてくれるだろう」
 アイルは、期待を込めてダグを見上げた。
 ダグはにっと笑ってうなずいた。
「さあ、行こうか」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み