第9話
文字数 2,093文字
街道沿いの景色は、いつしか広い耕作地から、果樹の多い山の斜面へと変わっていた。
さほど高くない山々が、行く手に重なりあっている。
この山地を越えれば、ナズル領だとダグが教えてくれた。
たまに見晴らしのいい峠に立つと、遠くに細長い山脈が見て取れた。
オラフル山脈。そこを越えたはるか向こうに砂漠はある。
アイルは、ため息をつくしかなかった。自分は、なんて遠い旅をしてきたのだろう。
それなのに、何一つおぼえていないなんて。
ブルクを出て一週間あまり。
街や村を通りかかると、ダグは人々の前で弓を弾き、小銭や食べものを得た。
たくわえは少なかったものの、なんとか順調に旅を続けていけそうだった。ずっと雨が降らず、晴天が続いていたので、野宿するのも楽だった。
でも・・。
アイルはふと首をかしげた。
このごろのダグは元気がない。
ぼんやりと、考え事をしていることがよくあった。弓を弾いていても、時おり、アイルが分かるほど音を外した。客には歌でごまかしていたけれども。
ブルクの弓術大会以来だ。
いったい、どうしたというのだろう。
そして、ぎくりとした。
ひょっとして、自分のせいだろうか。ダグにとって、アイルの存在がだんだんと重荷になってきたのでは?
山のくぼ地に野宿に手頃な場所を見つけ、ダグとアイルは火を焚いた。
山地の夜は肌寒かったが、おどり上がる炎と鍋の湯気が二人を暖めた。乾パンとスープのつつましい夕食を終えると、ダグはゆっくり煙草をふかした。
たき火の明かりが、ダグの横顔を浮かび上がらせていた。
ダグは、こころもち眉をよせて、自分の左手をながめていた。煙管をくわえたまま、左手をにぎったり開いたりした。
アイルが見つめているのも、気づかないようだった。
アイルは、そっと声をかけた。
「ダグさん」
「うん?」
ダグは、われにかえったように顔を上げた。
不思議そうにアイルを見返し、
「どうかしたかい?」
「本当のことを答えてほしいんだ」
アイルは、思い切ってたずねた。
「ぼくがいっしょで、迷惑じゃない?」
ダグは煙管を口から離し、心の中でもう一度アイルの言葉を繰り返したようだった。
そして、心底驚いたように、
「そんなこと!」
ダグは、アイルの前に座り直した。
「なぜそんなふうに思うんだい。迷惑だなんて、これっぽっちも考えちゃいないよ。むしろ、相棒ができて喜んでいるくらいだ。わたしは、ずいぶん長いこと、一人で旅していたからね」
「でも・・」
アイルは、首を振った。
「ダグさん、このごろおかしいよ」
ダグは、はっと眉をひそめ、すぐにはぐらかすような笑顔を作った。
「そんなことないさ」
アイルは、黙ってもう一度首を振った。
ダグはアイルから目をそらした。
煙管の灰を落として腰帯にはさみ、こまったように前髪をかき上げた。
「ぼくのせいじゃなかったら・・」
ダグは長い枝を取って二つに折り、たき火の中に放り投げた。
「違う」
舞い上がる火の粉をはらいのけ、ようやく言った。
「違うんだよ。悪かった。心配かけていたんだな」
「どうしたの?」
ダグは炎から、自分の左手へと視線を移した。
「ブルクで、弓を引いてしまった時からさ」
ダグはささやいた。
「どうにもならない」
ダグの左手は、彼の足の上で軽いこぶしを作っていた。中指の上に親指が乗り、人差し指がふわりと浮いている。
アイルは思い当たった。これは弓を引く時の手だ。
「くやしいんだ」
ダグは言った。
「自分の思うように引けなかった」
「命中したじゃない」
「枠 ぎわだった。わたしは、星を狙ったはずなのに。決勝の二本目は、話にもならなかった」
「もう何年も弓を引いていなかったんでしょ。しかたがないよ」
ダグは顔を上げて、ちらりと笑った。
「昔からそうなんだ。子供のころからさ。わたしの矢は星にあたったためしなんかありゃしない」
「リーさんだって外れたんだよ。それでも入賞したんだから、すごいと思うよ」
「外れた方がまだあきらめがついたかもしれないな」
ダグの口調は、ほとんどひとりごとのようだった。
「後悔ばかり残っている」
「じゃあ、もう一度やってみたら? きっとまたどこかで試合があるはずだよ」
「いや」
ダグは、顔をゆがめて黙り込んだ。
アイルは彼を見つめ、ずっと思っていたことを口にした。
「ダグさん、本当はもっと弓を引きたいんでしょ。なぜ・・」
ダグは、黙ったままだった。
アイルは、彼が話し出すのをじっと待った。
彼が何を悩んでいるのか、聞き出すのは今しかないと思った。
「砂竜を倒したザンの話をしただろう」
やがて、ダグがぽつりと言った。
「うん」
その昔、魔法使いロドルーンの造った矢を使って砂龍を見事に封じ込めたという伝説の弓引き。
彼を記念して、王の射手祭は始まったのだという。
「彼の子孫にも、ときどき弓の名手が生まれた」
ダグは、語り出した。
「わたしの父親もそうだった」
さほど高くない山々が、行く手に重なりあっている。
この山地を越えれば、ナズル領だとダグが教えてくれた。
たまに見晴らしのいい峠に立つと、遠くに細長い山脈が見て取れた。
オラフル山脈。そこを越えたはるか向こうに砂漠はある。
アイルは、ため息をつくしかなかった。自分は、なんて遠い旅をしてきたのだろう。
それなのに、何一つおぼえていないなんて。
ブルクを出て一週間あまり。
街や村を通りかかると、ダグは人々の前で弓を弾き、小銭や食べものを得た。
たくわえは少なかったものの、なんとか順調に旅を続けていけそうだった。ずっと雨が降らず、晴天が続いていたので、野宿するのも楽だった。
でも・・。
アイルはふと首をかしげた。
このごろのダグは元気がない。
ぼんやりと、考え事をしていることがよくあった。弓を弾いていても、時おり、アイルが分かるほど音を外した。客には歌でごまかしていたけれども。
ブルクの弓術大会以来だ。
いったい、どうしたというのだろう。
そして、ぎくりとした。
ひょっとして、自分のせいだろうか。ダグにとって、アイルの存在がだんだんと重荷になってきたのでは?
山のくぼ地に野宿に手頃な場所を見つけ、ダグとアイルは火を焚いた。
山地の夜は肌寒かったが、おどり上がる炎と鍋の湯気が二人を暖めた。乾パンとスープのつつましい夕食を終えると、ダグはゆっくり煙草をふかした。
たき火の明かりが、ダグの横顔を浮かび上がらせていた。
ダグは、こころもち眉をよせて、自分の左手をながめていた。煙管をくわえたまま、左手をにぎったり開いたりした。
アイルが見つめているのも、気づかないようだった。
アイルは、そっと声をかけた。
「ダグさん」
「うん?」
ダグは、われにかえったように顔を上げた。
不思議そうにアイルを見返し、
「どうかしたかい?」
「本当のことを答えてほしいんだ」
アイルは、思い切ってたずねた。
「ぼくがいっしょで、迷惑じゃない?」
ダグは煙管を口から離し、心の中でもう一度アイルの言葉を繰り返したようだった。
そして、心底驚いたように、
「そんなこと!」
ダグは、アイルの前に座り直した。
「なぜそんなふうに思うんだい。迷惑だなんて、これっぽっちも考えちゃいないよ。むしろ、相棒ができて喜んでいるくらいだ。わたしは、ずいぶん長いこと、一人で旅していたからね」
「でも・・」
アイルは、首を振った。
「ダグさん、このごろおかしいよ」
ダグは、はっと眉をひそめ、すぐにはぐらかすような笑顔を作った。
「そんなことないさ」
アイルは、黙ってもう一度首を振った。
ダグはアイルから目をそらした。
煙管の灰を落として腰帯にはさみ、こまったように前髪をかき上げた。
「ぼくのせいじゃなかったら・・」
ダグは長い枝を取って二つに折り、たき火の中に放り投げた。
「違う」
舞い上がる火の粉をはらいのけ、ようやく言った。
「違うんだよ。悪かった。心配かけていたんだな」
「どうしたの?」
ダグは炎から、自分の左手へと視線を移した。
「ブルクで、弓を引いてしまった時からさ」
ダグはささやいた。
「どうにもならない」
ダグの左手は、彼の足の上で軽いこぶしを作っていた。中指の上に親指が乗り、人差し指がふわりと浮いている。
アイルは思い当たった。これは弓を引く時の手だ。
「くやしいんだ」
ダグは言った。
「自分の思うように引けなかった」
「命中したじゃない」
「
「もう何年も弓を引いていなかったんでしょ。しかたがないよ」
ダグは顔を上げて、ちらりと笑った。
「昔からそうなんだ。子供のころからさ。わたしの矢は星にあたったためしなんかありゃしない」
「リーさんだって外れたんだよ。それでも入賞したんだから、すごいと思うよ」
「外れた方がまだあきらめがついたかもしれないな」
ダグの口調は、ほとんどひとりごとのようだった。
「後悔ばかり残っている」
「じゃあ、もう一度やってみたら? きっとまたどこかで試合があるはずだよ」
「いや」
ダグは、顔をゆがめて黙り込んだ。
アイルは彼を見つめ、ずっと思っていたことを口にした。
「ダグさん、本当はもっと弓を引きたいんでしょ。なぜ・・」
ダグは、黙ったままだった。
アイルは、彼が話し出すのをじっと待った。
彼が何を悩んでいるのか、聞き出すのは今しかないと思った。
「砂竜を倒したザンの話をしただろう」
やがて、ダグがぽつりと言った。
「うん」
その昔、魔法使いロドルーンの造った矢を使って砂龍を見事に封じ込めたという伝説の弓引き。
彼を記念して、王の射手祭は始まったのだという。
「彼の子孫にも、ときどき弓の名手が生まれた」
ダグは、語り出した。
「わたしの父親もそうだった」