その15 桜

文字数 1,673文字

今日のひとふり:
「きつねが/やまで/おひめさまを/おいかけました」


 山の奥に、きつねの母子が暮らしていました。
 ある日、母ぎつねが、人間たちに獲られてしまいました。

 子ぎつねは泣きながら、人間たちを追いかけて、山を下りました。
 きらきら光る灯りが怖かったけれど、がんばって、男の子に化けて町にしのびこみ、お母さんぎつねを探しました。

 やっとかぎあてたお母さんぎつねのにおいは、かすかな、乾いたものでした。
 お母さんはとっくに殺されて、その皮のにおいなのだとわかりました。
 子ぎつねは泣きましたが、それでも、いっしょけんめい、そのにおいのあとをたどって行きました。

 追いついたら、また、山道でした。
 旅姿の女の子が一人、いっしょけんめい歩いていました。お母さんのにおいは、その子の背負った荷物から流れてくるのです。

 ふと、女の子がふりかえって、子ぎつねを見て、ぱっと顔を輝かせました。
「お迎えに来てくださったの?」
 女の子には子ぎつねが、人間に見えているようでした。それも、知っている誰かに。

 その笑顔が、まぶしくて、子ぎつねは何と言っていいのかわかりませんでした。
 どぎまぎしていると、女の子は、背負っていた包みをかるく押さえてみせました。
「大丈夫。ちゃんと無事です」 

 そして、包みをほどいて、見せてくれました。
 鼓がひとつ、入っていました。

「殿からいただいた、大切な鼓ですもの」
 女の子は、しみじみと言いました。

 変わりはてたお母さんのすがたに、子ぎつねの胸はつぶれそうだったのですが、
 最初のショックがおさまると、
 女の子にとってもこの鼓は、この世の何にもまして大切なものなのだ、ということが、わかってきました。
 その、殿、という人のことが、とても、とても、好きなのだな、と。

「足手まといだから、ついてくるな、と、言われたけれど、あきらめきれなくて。
 最後にもう一度、お目どおりの、おゆるしが出たのね」
 女の子はそう言って、涙ぐみました。
 子ぎつねのことを、「殿」の家来の若者だと信じきっているようでした。「殿」のお使いで、迎えに来てくれたのだと。
 そうではない、とは、言いだせなくなってしまいました。
 まして、鼓を返してほしいのだ、とは。

 ちょうど山桜が咲いていて、日もよく照っていました。
 女の子は、あたりに誰もいないのをたしかめてから、鼓を打って歌い、舞いを舞って見せてくれました。
 じつは彼女は、千人に一人という、舞いの名手でした。

 舞姫の黒い髪に、赤い芯をした白い花が、一つ、二つ落ち、
 子ぎつねはそれを、夢のようにきれいだと思いました。

 日が暮れて、二人は、山桜の下で、少し離れて、たがいに背を向けて眠りました。夜はまだ肌寒かったので、二人ともそれぞれ、小さく丸まって眠りました。
 若者の寝息が聞こえてくると、舞姫は暗がりの中で、そっと目を開きました。
 その目から、ひとつぶ、涙がころがり落ちました。

 いま見てはいけない、と思いました。耳やしっぽが見えていたら、かわいそうだと思いました。殿の家来の本物は、こんなに無口で物静かではありません。あのお侍にこんなに優しくしてもらったことはないし、殿にさえ、
 いえ、
 生まれてこのかた、誰にも、こんなに優しくしてもらったことはありません。

 ただ、黙って、そばにいてくれる。
 花に見とれて思わず足を止めると、いっしょに止まって、待っていてくれる。
 そんなことをしてくれた人は、いままで、一人もいませんでした。いつも、ああしろこうしろとか、ああするなこうするなとか、言われて、生きてきました。

 この、桜の咲きこぼれる山道が、どこまでも続けばいいのに。
 そう思っている自分に、舞姫は気づきました。

 かすかな気配を感じて、身を起こすと、
 若者も、目を開いて、こちらをじっと見つめていました。

『義経千本桜』だと、きつねの若者は、ちゃんと静御前を義経のところまで送りとどけて、ごほうびに鼓をもらって帰るのですが、
 そうじゃないおはなしを、つまり、

 この続きを、そのうち書いてみたいと思っています。

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