その6 千次

文字数 872文字

今日のひとふり:
「うまが/やまで/たうえを/たすけました」


 ある夫婦ものが、馬を飼っていました。
 千次(せんじ)と呼んで、大切にしていました。千次は、生まれてすぐに死んでしまったむすこの名でした。

 この馬は、葦毛(あしげ)でした。葦毛というのは、灰色がかった白馬のことです。
 若い頃は、脚のひざから下とたてがみが、黒に近い濃茶をしています。年を取るにつれてその色が抜け、全身が白くなっていくのです。
 長生きできた場合は、雪のように真っ白になります。

 千次も、はじめは、力強い黒いたてがみと脚を持っていましたが、だんだんと白くなってきました。
 馬は、人より早く、年を取ります。
 らくらくと引いていた(すき)も、近ごろは重いらしく、息を切らし、ひどく汗を流すようになりました。

 飼い主の男は、馬の汗を拭いてやりながら、しみじみ、
「おまえも、年を取ったな」
と言いました。
 深い意味はありませんでした。ただ、愛おしかったのです。

 つぎの朝、千次がいなくなりました。

 飼い主の夫婦は、青くなりました。とくに夫は、自分がよけいなことを言ったからだと思いました。悔やんでも悔やみきれません。
 二人は走りまわり、近所にも声をかけて、いっしょに探してもらいました。
 春先のことです。林に残る白い雪と、木々の黒い影が、どれも葦毛の馬のすがたに見えてしかたありません。けれども、どれも、馬ではないのです。

 まだ田起こしの途中でしたから、どうしても馬が必要です。
 夫婦は、あきらめて、お金を借りて、新しい馬を買いました。
 若い栗毛の馬が来ました。この馬も、気立てがよく、よく働く馬でした。田起こしは、びっくりするほどはかどりました。

 あくる年のことです。

 また淡い春が来て、ふと山を見上げた夫婦は、驚きました。
 山肌に、くっきりと、真っ白な馬のすがたが浮かび上がっていました。
 残った雪の形が、そう見えたのでした。

 その年から毎年、春先の山肌に、白馬の形が現れるようになりました。
 それを見ると、村の人たちは口々に、
「ああ、千次が来てくれた」
と言い、もう田起こしをする時期だと知るのだそうです。

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