その10 誘惑

文字数 588文字

今日のひとふり:
「めがみさまが/もりで/おとこのこを/ひろいました」


 木こりの若者が、沼に、斧を落としてしまいました。
 とほうにくれて、暗い水底をのぞきこんでいると、

 いつのまにか、その斧が浮かんできて、手もとでひたひたと小波に揺れました。

 若者は斧を持って、家に帰りました。

 金の斧とか銀の斧とかは出てこないです。
 斧は、鉄でないと、木が伐れません。

 あくる日、若者は、もう一度沼に行って、
 そっと斧を落としてみました。

 自分でもばかだと思いました。たった一丁の、大事な斧です。あれがないと木が伐れません。暮らしていけません。

 斧は、やはり、浮かんできて、ひたひたと小波に揺れました。

 その夜、若者は眠れませんでした。何度も何度も寝返りを打ちました。
 こんなに胸が苦しいのは、初めてでした。
 姿も見えなければ、声も聞こえないのです。あるのはただ、斧をそっと押しつけてくる、柔らかい肌の感触だけ。そして、あの香り。蓮の花でしょうか。

 あくる日、若者は、何も持たずに沼に行きました。
 そして、水際に両手をついて、詫びました。

 おゆるしください。金気(かなけ)のものがお嫌いだということは、わかりました。
 だけどおれには、木を伐るか、鉄砲を撃つか、
 どちらかしか、ないんです。

 あのとき、沼に身を投げていれば、あの恋は成就したのかもしれないと、
 晩年、祖父は私に、笑いながら語ったものです。

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