その17 つるとみ

文字数 1,043文字

今日のひとふり:
「おとこのこが/たんぼで/おひめさまを/たすけました」


 ふっと、幼いころに読んだお話を思い出しました。
 と言っても、ほとんど憶えていないのです。
 何の本に入っていたのかさえ。

 たしか──
 若者が、旅をしているのでした。
 身分のある若者で、お付きの者たちをしたがえていました。

 たしか、
 何かの罪びとを探し出すよう、若者は命令されているのでした。
 何の罪?
 誰の命令?

 長い長い旅のはてに、若者の一行は、その罪びとたちを見つけてしまいました。
 彼らは、深い山の奥で、

 土をたがやしていました。

 けわしい斜面を、苦労して切り開き、
 作られた棚田には、
 夜はちらちらと月がうつり、
 昼はさんさんと日がそそぎ、

 一人の村人が、手ぬぐいで汗をふいて、ふりかえり、
 若者たちの姿を見て、凍りつきました。
 覚悟していた日が──
 すべてを失う日が来たことを、知ったのでした。

 けれども、立ちすくんでいたのは、若者たち一行も同じでした。
 身分のある、と言っても、彼らが取り立てられ、刀をさすようになったのは最近のことで、

 それはちょうど、この村の人たちが、
 ここにたどり着き、甲冑を、十二単(じゅうにひとえ)を脱いで、
 (くわ)(すき)を手にしたのと同じころのことで。

 村人たちは、黙って、若侍たちをもてなしました。
 若侍たちも、黙って、それを受けました。
 罪のことも、命令のことも、誰ひとり口に出しませんでした。
 幾晩も、心づくしの宴はつづき、
 そして、
 若者は、村の美しい娘と、恋に落ち、
(たぶんお付きの若者たちも、それぞれ可愛い娘と恋に落ち、)
 赤ちゃんが生まれ、

 それでもう、いいではありませんか。

 このお話に結末なんて、必要でしょうか?
 子どもの私も、そう思ったにちがいありません。だから──
 結末を、憶えていないのです。
 たぶん、若者は、いつまでも帰らず何の報告もしないことをとがめられて、呼び戻され、
 二人は泣くけれども、どうしようもなく、
 そして赤ちゃんは、赤ちゃんはどうなったのか、

 子どもの私は、耐えられなくて、
 そこで本を閉じてしまったのだと思います。

 だから、この村には、
 どこか遠い遠い山の奥にひっそりとある、小さな美しい夢の村には、
 いまでも、安らかな光がふりそそいでいるのです。

 幼い私の心に、たった一つ鮮明に刻まれたのは、
 その娘の名前でした。
〈つるとみひめ〉(鶴富姫)

 この国の各地にある、平家の落人伝説の一つだと、大人になってから知りました。
 昔の人は、優しかったなと、思います。
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