第15話 何故、私は武田勝頼に関心があるのか?

文字数 1,484文字

 武田勝頼というと信玄亡き後の武田家を継いだものの、自分の力を過信して「長篠戦い」で織田、徳川連合軍に無謀な戦いをしかけ武田信玄側近の優秀な武将を死に追いやって武田家を滅亡させた愚かな武将として描かれている事が多い。
 だが、本当に事実はそうなのだろうか?そう疑問をいだかせてたのが黒澤監督の「影武者」という映画だった。その映画で萩原健一が演じる武田勝頼は「長篠戦い」で1万5千の武田軍に対して倍の3万の兵力で備える、しかも3段構えの馬柵を設け3千の鉄砲隊で間髪なく武田軍を迎え撃つ用意をしている織田・徳川連合に対して戦いを挑み、武田軍が誇る騎馬隊を何度も突撃させ壊滅させた張本人として描かれていた。
 だが、そんな戦が本当にあるのだろうか?映画という娯楽が優先される表現でもいくらなんでもこんな事はあり得ないと思った。だいたい1回目の攻撃で織田・徳川連合軍の鉄砲隊の威力を知ったなら当然の事ながら武田軍も2回目以降は戦術は変えただろう。映画では織田・徳川連合軍の鉄砲隊の放つ物凄い音の銃声と撃たれて倒れるおびただしい数の馬の映像が流され、信じられないと思いながらそれでも狂ったように突撃を繰り返す勝頼の映像が流されていた。
 これは事実とは違うのではないか?と思った私は武田勝頼や「長篠戦い」について書かれた書物を何冊も読み漁った。その結果、わかったのがまずは武田軍に騎馬隊は存在しなかった。武田の各部隊に馬は何頭か割り当てられていたが、戦場で馬に乗るのを許されていたいたのは指揮官やその側近の武将で少数の数の限られていあたものだった。
 さらに当時の馬の体高は120センチと小さく、現代ではポニー位の小さい馬であった。その小さな馬が映画で描かれているように颯爽と主戦場になった設楽原を駆け抜ける事は不可能である。それでも織田信長の鉄砲隊が武田勝頼の騎馬隊に勝ち戦国時代の勢力図を塗り替える大きな戦であったと一般的には伝えらている。
 だが実際には「長篠戦い」は鉄砲の一斉砲撃による一瞬の戦いで織田・徳川連合軍が勝利したわけではなく、実際には朝の9時位から始まって12時くらいまで少なくとも3時間はかかって行われていた戦だった。最終的な戦の勝利の決め手になったのは鉄砲の数の差ではなく、武田軍1万5千に対して倍の3万の兵力を用意して戦に臨んだ織田・徳川連合軍との兵力の差が最終的には勝負を決めたようだ。
 そして、この戦を境に武田の所領は追い込まれて小さくなり、さらに勝頼は親類衆の筆頭であり権力を持っていた穴山梅雪や木曽義昌、小山田信茂など身内の裏切りにあって天正10年に織田軍に所領内に攻められて自害する。
 しかし、見方を代えれば武田勝頼は天正3年に武田信玄由来の優秀な側近を「長篠戦い」の戦いで失いながらも新たな戦略の要として「新府城」を作り、天正10年まで7年間も武田家を存続させた。そうした評価が全くないまま勝頼が武田家を滅亡させた張本人とするには無理がある。
 武田勝頼は、父信玄もできなかった「高天神城」を攻略して一時は所領を信玄時代よりも広げた猛将という評価もある一方で武田家を滅亡させた愚かな遇将という評価もある。果たして本当の勝頼はどちらの武将が当てはものるのか?
 今年のNHKの大河ドラマ「どうする家康」で眞栄田郷敦演じる武田勝頼は父、信玄が心血を注いで育てた織田信長や徳川家康も恐れさせた力強い武将として描かれている。今までの武田家を滅亡させた思慮の浅い武将として描かれるのが多かった武田勝頼だが、事実に基づいてもっと正当な評価をされるべきだと思う。
 
 

 
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