第八章 名もなき弟は見果てぬ夢を視る

文字数 909文字

 至高天に戻りしルシフェルは少年と共に天のされこうべの丘に向かい、そこに落ちてある十字架を共に視た。

「兄様、これは何ですか。十字架と言うものは何でありましょうか?」

「今の世に生きる者らは何も知らない。しかし、長き時を経てこの意味を知ることになる。そのことは余自身も全てを知り給うことは叶わぬ。されど、知れる限りはお前に伝えておこうと思う。神の十字架の意味を」

 この時代、未だ神の奥義は明らかにされず。されど、予見の力をもつ者らが辛うじて微かな意味を見出していた。

「即ち、神の十字架とは受難そのものである」

「受難? 誰の受難ですか?」

「被造物全ての受難。だからこそ世界で一番貴い象徴である。されど、十字架は象徴にあらず。生の実存こそ神の受難。受難なくして神を語りえず」

 大いに悩めよ、全ての生きるものらよ。生きる悩みなくしての人生は塩気がない。あなたの灯を台の上に置け。
 そう語る天使の長。
 その意味を未だ知らない弟。
 天は語れり。生まれない方はそなたの為であったかも知れぬ。何故なら世界で行われる悪行を見ずにすむのであるから。
 闇を知った兄と無垢な弟。
だからなのであろうか。聖なる指環が微笑むと決めた被造物は無垢な信仰を持てと暗に伝えるのであろうか。

「兄様」

「何だ?」

「兄様が何か言いたいのは判ります。ですが、僕が望むのは家族で一緒にいることです。天国を二つに裂かないで下さい」

「見果てぬ神の夢か」

 天使の長は終に神の夢を視た。自らの理性が健全である内に。老者は幻をみて、若者は夢をみる。果たして夢を視たのはどちらであったか。幻をみたのはどちらであったか。
 
 聖指環、おお聖指環、聖指環。そなたは二つの理想を引き裂く。子が親に刃向かう様に。真理が民を混乱させる様に。無知な賢者は神の愚かさを知らず、己の知を誇る。神の愚者は知を受け入れ、柔和な心で地を受け継ぐ。
 見果てぬ夢を視たのはどちらであったか。己の野心を望んだ者か、平和を夢見た者か。覇者と聖者は相容れぬと説くのか。天使の王は統一を望み、他方の王は平和を望む。どちらが正しかったか。
 その答えは黙示録の時にしか判り得ないであろう。

 されど今、未だ指環は沈黙する。
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