第十二話
文字数 2,053文字
試験終了直後、俺は指の震えが止まらなかった。脱いでいた学ランを、羽織れない。大成功の感触だった。
その翌朝には早起きし、新聞配達を待ちわびた。そして紙面と問題用紙を念入りに比べて、自己採点を何度も繰り返している。高三の時のセンター試験では、九割五分の成績を取っていた。母に点数を告げると、大喜びだった。本当に、手を叩いて喜ぶ。
その日から高校で、自慢ばかりしていた。俺の強気は、少しも収まらない。でも、クラスメイトは祝福してくれた。
ただ、総一郎だけは違っている。大声で自慢すると、彼は斜め下に向かって首を傾けた。そして汚いものを見るような目つきで、俺の顔を眺めた。
「なんだよ?」
褒められないのが、俺は納得できない。沈黙になる。
総一郎は右手で、俺の肩に付着したホコリを取ってくれた。そして、そのまま肩を掴む。顔は、下を向いていた。
「くっ」
という小さな声が聴こえた。
「東大理Ⅲを狙え」
と総一郎に勧められる。
褒められたのだと、俺は勘違いしていた。その頃は、教室の机と椅子がピンク色に見えている。
「東大にあらずんば、大学にあらず」
と俺は豪語してしまった。ノリのつもりだった。
だが帰宅しても、頭から『理Ⅲ』というワードが離れない。このまま学力が伸び、二次試験も絶対に成功する筈だと、思い込んでいた。
そして夕飯のときに、それを家族に相談している。
当時の親父は、励ましてくれた。
「若い時の失敗は取り戻せる。どんどん挑戦しろ」
だが、母は青ざめていた。
「な、何言ってるの! ノーリスクで、九十大学医学部に入れるのよ。推薦を受けておきなさい」
「嫌だ」
「東大って、センターの比率が低いんでしょ? 夢太郎。アンタ、勝負できるの?」
「できる!」
俺は高校の成績が非常に優秀で、センター推薦で九十大学に入学できた。
俺と吉田の第一志望は、ずっと九十大学医学部だった。高二の冬から一緒に、図書館で勉強を続けている。二人で、疑問点を教え合っていた。入試の情報交換も、沢山した。
しかし、センター試験で吉田は失敗している。奴は仕方なく、猫本大学医学部へ出願した。両方とも国立大学だが、九十大学は旧帝大という頂点のグループに属している。言わずもがな、東大は旧帝大のトップだ。医学部はどの学部よりも、偏差値が高い。理Ⅲというのは、東大医学部の略称だ。理Ⅲは、トップ中のトップである。
翌週の雨が降った日にも、高校の図書館で一緒に勉強していた。休憩時間に俺は、吉田を罵った。ドラマで観た激励シーンの、受け売りである。マウンティングをしたいだけの、陳腐なものだった。
「この、チキン!」
「……」
「勇気出せよ! お前なら受かる。大丈夫だ。後悔するぞ」
俺は肩を強く叩いた。
「自分のことを心配していろ」
一月後の前期試験で、吉田は見事に猫本大学医学部に合格した。俺は前期後期とも理Ⅲを受験して、両方とも落ちてしまった。クラスメイトたちの期待通りである。その結果を耳にした彼らは、手を叩いて爆笑していた。その声は、隣の教室まで響いている。
その時から、二年に渡る俺の浪人生活が始まった。現在まで、その地獄は続いている。
間の抜けた玄関チャイムが鳴り、二年前の夢から覚めた。もう、昼だった。今日は木曜日だ。昨夜は深夜二時まで、東大の赤本で古文を解いた。
”手ごたえは感じている。時間があれば大丈夫だ。ただ、夜型のスタイルになっている。直さなければいけない”
玄関に向かい、書留を受け取る。親父宛ての招待状。大学の同窓会からだ。
俺はテレビをつけた。アフガンで、アメリカとタリバンとの戦闘は続いている。また、小泉総理と抵抗勢力との戦いも、始まっていた。
俺は、予備校の自習室へ入った。今度は東大の数学を解く。右手は、ほぼ治っている。しかし、やはり数学は難しい。問題も凝っている。また、タイムオーバーした。でも、楽しい。
”本番でも楽しみたい。今までの試験で、俺はパニックになっていた。いつもリラックスしていない。落ち着いたら、できた筈だ”
翌日に、俺へ書留が来た。恐る恐る封筒を破った。前期後期とも、足切を喰らっている。国公立大の試験は終わった。もう今年度は、私立しか受けられない。だが不思議と、ショックを受けなかった。俺は自分に言い聞かせた。
”来年こそは、試験を楽しもう”
その後は予備校の自習室で、センター試験の過去問を解き続けた。本当に集中できている。
”今受験すれば、九割五分は取れる筈”
トイレに向かうと、廊下でばったり八郎さんに会った。
「骨折、大丈夫か?」
「大丈夫だと、思います」
「恵三郎が九割五分取ったぞ。九十大学を受けるらしい」
俺は、開いた口が塞がらなかった。みっともないと思っていても、すぐに閉じられなかった。慣用句の中だけの出来事だと思っていたが、実際に起きる。
「夢太郎も、勉強会来いよ。あの件は、水に流そうぜ」