プロローグ
文字数 2,485文字
一番前に座っている、Tシャツ姿の受験生が手を挙げた。この男は、当たり前の質問を繰り返す。ジャージでスリッパを履いていた。坊主頭で、無精ひげを生やしており、体臭もきつい。常に上目遣いをし、その眼は細くて、吊り上がっていた。また、背は低く、小太りで、姿勢が非常に悪い。
本庄は眉間に皴を寄せる。
「どうしましたか?」
「暖房を消して下さい」
本庄の時間が止まった。
「無理です」
「お願いします」
「無理なものは無理です」
「おっさんは、暑がりなんだよ!」
本庄は何も言わず、元の位置に戻ろうとした。
突然、その男が服を脱ぎ始めた。本庄は、咄嗟に声が出ない。他の受験生の時間も止まった。男は立ち上がり叫んだ。
「規則は守っているからな!」
この受験生は河合夢太郎という、三八歳の無職の男だ。開業医の息子で、その期待通りに進学した。高校の成績は非常に優秀で、部活動にも励んでいる。そして、そのまま医者になる予定だった。しかし、大学受験を四浪しても、医学部には入れない。
一旦諦めて、理学部に進学するも、クラスでの飲み会では嫌がられた。それを契機に授業に出席しなくなり、三年間で退学になってしまう。その後も再び医学部を目指すが、同じように挫折した。それからは実家に引きこもっていたが、受験漫画の影響を受け、十年ぶりにトライしたのである。
本庄につまみ出されて、夢太郎は帰宅した。玄関ドアを開けて入ると、河合家ではここ数年で滅多にない明るい声が聴こえる。リビングに入ると、久しぶりの『客』が来ていた。皺だらけで、焼けた顔をした男だ。地方都市で一人暮らしをしていた、妹も隣に座っている。
「始めまして、馬場大九郎といいます」
大九郎は工業大学を卒業後、会社勤めをしていた。しかし、兄の病死を契機に医師を目指す。そして働きながら三年間勉強し、自治医科大学に入学した。卒業後は各地の病院を転々としている。
夢太郎の親父はビールを飲み干すと、真っ赤な顔で大九郎に尋ねた。
「もうそろそろ、僻地医療の義務年限は終わるのかな?」
「はい。今年の三月で終わります」
「君は長男か?」
「三男です」
「そうかー。お父さんの仕事は何だ?」
「高校教師です。母もです」
「ほー。そうかー」
夢太郎は座る椅子が見つからず、立ったまま大九郎を見つめていた。そして、母親が告げた。「あんた、お客さん来ているわよ。お婆さんの部屋にいるから」
夢太郎の祖母は、最初の医学部受験の直前に亡くなっていた。大きな部屋には仏壇があり、現在は寝部屋となっている。
部屋に入ると、ジャケットを着た、白髪の老人が待っていた。こちらの『客』は出身高校の東出先生である。英語を熱心に教えており、夢太郎が所属していた将棋部の顧問だ。二年前に退官していたが、背筋はしゃきっとしたままで、眼鏡の額縁は茶色に変わっている。
先生は夢太郎を、街はずれの焼き肉店に連れて行く。そして、座るなり、鞄からB5のプリントを取り出した。英作文の問題である。夢太郎は精一杯英訳をした。
しかし、先生はそれを見るなり、呟いた。
「眼が腐る」
「え?」
「英語は、若い時しか伸びないよ。それに、未だに基礎力がついていない」
「先生、『語学は何歳でもできる』と仰っていたでしょ? 熱心に中国語を勉強していたじゃないですか?」
「あんなものは趣味です。学生に負けているよ。しかも、二流大学」
先生は煙草を吸う仕草をしようとするが、五年前から禁煙していたことに気付くと、頭を掻いた。
「もう、やめなさい。よく頑張りました」
「今までの勉強の意味を、教えて下さい」
「切り替えが大事。夢太郎君のやっていることは、ただの消耗戦です」
KPOP風のファッションのウェイターが注文を取りに来た。口調は丁寧だったが、ギラギラしたネイルをしている。夢太郎はかなり時間をかけて選んだ。しかし結局、二人はセットメニューと生ビールを頼んだ。
ウェイターがホールに戻ると、先生は夢太郎の目を見た。
「君は、本当に医者になりたいのか?」
「……」
「未だに親御さんは、『後を継いでほしい』と言うのか?」
「……」
「医者になりたいというより、医学部に入りたいだけだろう? 楽しい職業は沢山あるから」
「高三の時は、違うことを仰っていましたよね?」
「ああ、そうです。あの時は仕方なかった。それは間違いだった。申し訳ない」
「勝ち組になれると……」
生ビールが届けられた。しかし、二人とも触れようとしない。
「現役で合格した方が、勝ち組です。もう、諦めましょう」
「俺は勝ち組にはなれないのですか」
「はい。なれません」
「医者になれば勝ち組でしょ?」
先生は生ビールを一気に飲み干した。
「人生を楽しみましょう」
「どうやって、ですか?」
「それは、ご自身で考えて下さい」
二人の会話はそれまでだった。それから二人は、追加注文を何回も出す。結局、夢太郎は一円も払わずに、酒と肉をたらふく食べた。
夢太郎は部屋に戻ると、i7のPCでSNSを眺めていた。それは、一緒に医学部受験をした戦友の、ありふれた日常の記録だ。大半は失敗したが、彼等の苦労した過去は現在での活動に繋がっている。ほぼ全員が仕事に精を出し、趣味に打ち込む。彼等の多くは結婚し、子供がいる。そして、その活動をSNSに毎日のようにアップをしていた。
そのチェック作業の途中で、東出先生の『切り替え』という言葉が過った。でも、それは出来無い。今までの苦悩が絡みついている。この男には『今日』が、二十歳の頃から訪れていない。
これから、この男の『昨日』での叫びを聴くことにしよう。