第十七話

文字数 2,271文字

 その後、店長は独自の掃除語録を作った。店長は掃除へのこだわりが、特に強い。朝礼で、これも絶叫するようになっている。

”一つ、便所掃除はサービス業の基本。絶えず、感謝の気持ちでしろ”
”二つ、細部に神は宿る。『これでよし』なんて、簡単に思うな”
”三つ、掃除が終わるまでは……”

 ただ、これは契機になった。先輩達は『社畜語録』と名前を付け、陰でからかっている。そして、皆が団結して手を抜き始めた。俺にとっては、好都合である。今まで学校や家でも、きちんと掃除をした経験がない。
 ただ、店長は丁寧に教えてくれた。

 ある日、俺は久しぶりに残業を命ぜられた。そして皆が帰ると、店長に呼ばれた。
 いつも俺は、トイレ掃除は閉店前にしている。それを注意され、再び掃除した。報告すると、店長は目を見開く。
「よーしっ。君の掃除、見よう!」
 粗っぽい声で、普段とは違っている。店長は女子トイレに入った。ブラシで磨く音がする。暫くすると、店長は戻ってきた。
「河合君。全然駄目だよ、本当に頑張っているの?」
「はい」
 俺は気軽に嘘をつく。
「年末までは、僕がする。来年までに、マニュアルを見てもう少し勉強してね」
 注意を受けても、改める気は毛頭なかった。

 そして、そのまま一月の中旬になる。センター試験が始まった。恵三郎は、今回も受けているらしい。テスト一日目が終了後、俺はメールにて応援した。
”本気で応援しています。俺の代わりに夢を叶えてください”

 その翌日の開店前に、俺は店長から詰問された。
「君は何の位、働いている?」
 店長の声は震えている。そして、俺を直視していた。
「何の位って、どういうことですか?」
 俺は初めて、店長が怖いと感じた。
「じゃあねー、うん。夢太郎くんは一時間当たり、何円稼いでいると思う?」
「分かりません」
「分からないの? ふーん。最低時給の半分もないよ」
 ようやく俺は、サボり過ぎたことを後悔した。
「すみません」
「もうすぐ、『すみません』で済まなくなるから。言いたくないけどね、利益喰っているよ! 不景気だし、そのうち追い出すからね」

 その夜に、変な夢を見た。このような内容だ。
 いつもの通りに俺は寮を出て、職場に向かう。振り返ると、異常に巨大な、夕日が沈もうとしている。パチンコ店の裏側に自転車を停めると、欠伸しながら派手な色のビルに入った。そして階段を登り、モノクロのドアを開けた。
 西進屋の店内は窓が開けっ放しだが、何故か蒸し暑い。レジの近くのテーブル席に、吉田と孝四郎さんと恵三郎がいた。三人とも白衣を着ている。彼等は、俺をせせら笑っている。何故か、恥ずかしくなった。
 下を向くと、足元にはマシンガンがあった。俺はそれをぶっ放し、彼らの身体をミンチにする。

 朝起きると、俺は新聞を読んだ。センター試験の問題が、掲載されている。
 俺は翌日から一週間、仮病で仕事を休んだ。そして、センター試験を喫茶店で解いている。九割取れていた。

「もう、辞めます」
 出勤時に、ホールで告げた。店長は、青ざめた表情をしている。そして、俺の両手を掴んだ。その手はカサカサだった。
「もう、怒らないから」
「関係ないです」
「何が、不満なの?」
「……」
「嫌なところがあったら、直すから」
 俺は罪悪感を感じた。間ができた。
「無いです。それが、その……」
 店長が土下座した。てっぺんに残っていた僅かな髪は、もう無い。
「お願いします。辞めないでください!」
「店長、それは止めてください!」
 ドアが開いた。業者が、おしぼりを届けに来た。

「君の夢、夢。『夢』は、なんだっけ?」
 店長はハンカチで、額の汗を拭いた。そして、煙草に火を付ける。
「国立大学の医学部に入ることです」
「は?」
「親の跡をついで、医者になりたいのです」
 時間が数秒止まった。店長はこめかみを掻いた。下を向いている。
「わかりました。事務所で手続きしてください」
「はい」
 店長は煙草の箱を、俺のポケットにねじ込んだ。
「マネージャーに会うまでに、吸ってみて。合わなかったら、捨てていい」
「はい」
「ただね。その間に、気持ちが変わるかもしれない。少しでも変化したら、戻ってきてください。お願いします」

 エリアマネージャーは、事務室で呟いた。
「仕事に対する厳しさは、何処でも同じだよ。ここから逃げても、意味ないから」
「医者は、違うと思います。業界が……」
「根性ない奴は、消えろ!」
 いきなり、大声を出された。よく見ると、顔が真っ赤になっている。
「……」

 電話が鳴った。女性の事務員が取る。マネージャーを呼んだ。採用担当かららしい。でも、すぐに終わる。俺の前に戻ると、こう告げた。
「辞めるときは、迷惑にならない様にしてくれ」
 今度は、静かな声だった。
 そして俺は別の店舗へ、直ぐに派遣された。ここは、最初の店舗とは大違いだった。兎に角、罵声を浴びせられ続ける。
 その翌日に、俺は逃げた。吉田のアパートに、寝泊まりしている。職場には、連絡していない。だから、何度も携帯に着信が来ている。伝言には何件も録音されていた。『責任』というワードが非常に多い。俺は携帯の番号を変えた。

 結局、一週間後に実家に戻ってしまった。母に正直に話すと、意外と優しく迎えてくれた。実家にも、西進屋から苦情が来ていたらしい。
「ねえ、きつかったでしょ?」
 そう、微笑んでくれた。俺は寝る前に、自室で煙草を吸った。とても不味い。

 俺は結局、少し前の『昨日』に戻ってしまった。もう、大学入試の申し込みは、全て終了している。俺だけ、新しい年度の勉強が始まっていた。
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登場人物紹介

河合夢太郎。永遠の受験生。

吉田。夢太郎の高校の同級生。国立大学を現役合格するも、バイトと部活で留年してしまう。

夢太郎の親父。三流私大出身の開業医。学歴にコンプレックスがある。老人が嫌い。

東出先生。夢太郎の高校時代の恩師。英語を担当。現在は退官している。趣味は中国語

総一郎。夢太郎の高校の同級生。医学部を目指して、浪人してしまう。しかし早々と諦め、経済学部に入学。ソープのボーイのアルバイトをしている。

恵三郎さん。不真面目な浪人生。気が弱い。

吹田八郎さん。医学部浪人の男たちを集めて、勉強会を開催している。医学部受験を繰り返している。

駿河さん。アラサー。元看護婦。

駒田孝四郎さん。親孝行な仮面浪人生

鶴井慶子。通称K。チビ。メガネ。私大を目指し、一浪している。基礎的な学力がない。

青木。坊主で背が高い。多浪生。金縁の眼鏡。激情型

湯島。父親が大学教授。学力は無い。

阪田。元ヤンキー。学力はない。お洒落。

飲食チェーン西進屋の社長。長身。仕事へのこだわりが強い。

店長。ヒョロヒョロで禿。優しい。西進屋の社畜。

エリアマネージャー。西進屋の社畜。ラガーマン

佐々木青葉。西進屋の社畜。太っている。笑い方がおかしい。

女講師。西進屋の社畜。気が強く、よくキレて大声で罵る。体は、プヨプヨ。

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