第十三話
文字数 2,862文字
”ご無沙汰しております。お元気でしたか?”
”おう、元気だ。久しぶり。明日は、最後の審判の日だ。命懸けで頑張るよ”
あの日の件を俺が水に流したと、恵三郎は本当に考えているのだろうか?
”俺は応援していますから”
”おう”
俺には判る。コイツは、絶対に落ちる。常にヌル過ぎるのだ。失敗の匂いがプンプンする。しかし、俺の手で落としたい。万が一があっては、駄目だ。
”ただ、恵三郎さんにとって、九十大学は難し過ぎるかもしれません”
打っている最中に、指が震えた。
”?”
”正直なところ、非常に厳しいと思います”
”何? なんでだ?”
”お前が受かるわけ、ねーんだよ! 負け分払え! この雑魚”
しばらく俺は待ったが、返信はない。
翌朝に、母の携帯を勝手に拝借した。そして、再びメールを打つ。
”恵三郎! 旧帝大なんて、チャンチャラおかしいから。結果が本当に楽しみだー(笑)。試験終了後に、校門で待っている。今度は、泣くんじゃねーぞ!”
今度も、返信は無かった。そして期待通り、恵三郎は落ちることとなる。
その年度の三月迄ずっと、俺はセンター試験の勉強をしている。いい加減、飽きていた。
そして、ついに後期日程の合格発表が訪れる。俺の三浪目が始まった。まだ寒く、体の芯が冷えている。何か、熱いものが欲しい。
携帯が鳴った。登録していないメールアドレス。
”夢太郎だよな? 青木だ。メルアドは孝四郎さんから、教えてもらった。この前は悪かったよ。もう、忘れよう。なあ、飲まないか? 八郎さんも呼ぶ予定だ”
”行くよ。宜しく!”
俺は即答した。
激安居酒屋の座敷席の奥には、恵三郎がいた。八郎さんの横で、メソメソ泣いている。後期も九十大学を受験し、玉砕したようだ。とうとうコイツの親も、四浪目を反対し始めたらしい。
「二人とも、水に流そう」
八郎さんは俺と恵三郎の、肩に手を置いた。
俺は、コイツを許していた。向こうもショックなのか、八郎さんに言われるがままだった。
「この前のメールはですね、激励したかったのです。分かりにくくて、すいません」
かなり軽薄な気持ちで、俺は謝った。
「全然、気にしていないよ。あの日の件は、本当に悪かった。嫌がらせで罵声を浴びせたとは、思わないでくれ。気合のつもりだったんだぜ!」
そして、握手した。恵三郎の手は、涙で湿っていた。こっそりと俺は、ジーパンの尻の部分で拭く。
「これで、仲直りだ」
八郎さんが笑う。
「お待たせいたしましたー。生、四つですー」
ジョッキが揃い、全員で立ち上がった。
「乾杯」
俺たちは、芸能人のゴシップを語り合った。タレントのスキャンダルを、どこまでもコケにしている。また、恵三郎はヘラヘラ笑っていた。
「あいつは終わった」
皆、そう口ずさむ。ただ、受験のことは一切触れていない。俺たち全員が、落ちている。
二次会では、孝四郎さんが加わった。この人だけは違って、私大医学部への入学が決まっている。
そして、勉強会のメンバーの『誰が落ちたか』という話題になる。俺たちは、ゲラゲラ爆笑していた。
尿意を覚えてトイレに向かうと、孝四郎さんに出くわした。
「おい!」
肩を掴まれる。
「なんですか?」
「なな、なんで、戻ってきた。こここ、此処にいては、だだ、駄目になる」
「え?」
「わわわ、若い時が、だだだ、台無しになるぞ!」
そこに青木が来た。顔を真赤にして、気持ち悪い笑みをニヤニヤ浮かべている。
孝四郎さんは、俺の肩を掌で押した。
「夢太郎! 忠告したからな!」
そして、帰ってしまった。
三次会でも、俺たちは熱く語り合った。今度は、タラレバを。
「中学受験をしなければ、公立中学で俺は、クラスで一番美人の彼女がいたでしょう。小学生の頃は、モテモテでした。その延長線で……」
「そうだ」
恵三郎は首を縦に振った。
「それに違いない」
青木も頷く。そして語る。
「タラレバを考えれば、僕は簡単に医学部へ入れる。努力では無理だ」
俺は主張した。
「骨折しなければ、九十大学に合格したと思います。旧帝大卒の医者。とんでもない美人と結ばれたでしょう。大学時代から女を、とっかえひっかえしていますね」
「そうだ」
恵三郎は、強く相槌を打つ。俺は続ける。
「親が厳しくなかったら、バラエティー番組を見ていたと思います。タレントに詳しかったでしょう。クラスでは、人気者の筈。ドラマ番組も見たかった。面白い話を語り、楽しい人間になれたでしょう。作家になっているのかもしれない」
青木はこう返す。
「現在から灰色の未来は変えられない。ただ『昨日』を変えてしまえば、バラ色だ。『昨日』に遡った未来だけは、変えられる。どこまでも成功し、評価され、楽しく、後悔を一切しない。そこは天国。予備校に向かう電車の中で、僕はそればかり考える。しかし駅に着いた途端、『今日』に迎えられてしまう。これからの季節は、辛いな」
俺は返す。
「タ、タイムマシンがあれば。タイムマシンがあれば、過去に戻って俺を説得できたのでしょうか?」
「タイムマシンねー」
青木が失笑した。
”現役の時、理Ⅲを受けない様に言えば。いや、言っても聞かないだろう。だから腕を折れば。腕を折れば、腕を折ってしまえば、止めたのだろうか?”
俺は、その言葉を出せなかった。言い方を変える。
「『おとなしくしろ』と伝えれば……」
「うんうん」
恵三郎は、目を瞑っている。
「一浪したときに、諦めるように諭せば……」
沈黙が生まれた。俺はその続きを、自ら話した。
「無理でしょうね」
話しながら、笑ってしまう。
そして、思い出した。総一郎が、医学部受験を諦めたときのことだ。俺は乱暴に罵った。
「おい、チキン! 総一郎、お前は逃げたんだ!」
くだらないプライドが、俺を曇らせていた。誰が説得しても、無駄だっただろう。
過去を変えるなら、その前だ。部活を止めた時? あの時に、俺を説得すれば……。いや、無理だろう。俺は受験という競技に、夢中だった。推薦で逃げる、志望を下げる、それはプライドが許さないだろう。
「おい、眠たいのか?」
八郎さんが、俺の肩を掴んだ。
「中学受験の前に、腕を折れば……」
「え?」
”それでも、それでも。俺は失敗をバネにして、コンプレックスにして、医学部受験をしただろう。その前、その前はいつか?”
代わりの台詞を、俺は口走った。
「親に、中学受験を止めさせれば……」
「ははは。面白いね。そこまでは、僕も考えないよ」
黄ばんだ歯を見せながら、青木が笑った。
「当時の両親はどうだった? 無理だろう」
「俺を説得すれば……」
恵三郎と青木が失笑した。
「親の意志だろ?」
小学生時代の俺は、勉強自体が大好きだった。生物の名前や構造、高度なパズルのような算数。勿論、評価もされていた。友達に教える優越感にも、浸っている。
”邪魔は、できただろうか?”
再び自問自答した。俺も、目を瞑った。
”その前、その前だ。違う両親に生まれれば、俺の『今日』は、薔薇色だったに違いない”