第六話

文字数 2,893文字

 日曜日の午前九時から、自習室にて英語の長文和訳問題に取り組む。ペストの強い感染力について、長々と書かれている。でも俺にとっては、全く関係ない話。将来役に立ちはしないだろう。途中で、ページをめくるのが億劫になる。そのうちに、天井が下がってきている気がした。
 新しい空気を吸うため、休憩室に入った。落書きが無くなり、更に綺麗になっている。それに、誰もいない。もう十月なのに、ガンガンと冷房が効いていた。
 自販機に百円を入れて、赤いボタンを押す。カップコーヒーが、とても美味い。
 昼から、八郎さんたちと麻雀を打つ予定。浪人生行きつけの、とてもボロい雀荘で。

 携帯が点滅し、着メロが鳴る。小室ファミリーの、少し前の曲。当時は好きだったが、この頃は全く興味が湧かない。綺麗なメロディーが、虚しく響く。真っ白で、寂しい空間に。
 駿河さんからだ。
「今から微分について教えて。数学は得意だったよね? 過去問の解答例が、全然納得できないのよ」
「すみません。忙しいので……」
「お願い。教えて」
「そう言われても……」
「ところで夢太郎君は、どこで勉強をしているの?」
「休憩室です」
「そう。じゃあ、行くね」

 五分後に駿河さんが、急いで入ってきた。顔が赤くなり、引きつっている。目が血走り、呼吸が荒かった。そして、鞄から赤本を取り出した。カラフルな付箋が、大量に貼り付けてある。
「参考書を何冊も調べたけど、何処にも載っていないの」
 丁寧に発音しようとする努力が、時折感じられた。
 説明を受けながら、赤い付箋の場所を読む。簡単なものだった。基礎的な部分さえ、理解していれば。
「俺も、全然わかりません」
 と答えると、一目散に脱出した。
 
 コンビニで立ち読みをした後に、路地裏の雑居ビルに着く。三階に上がり、雀荘の薄汚い扉を開けた。紫煙がモクモクと漂っている。客は少ない。まず、前回に貰ったクーポンを使い、特大サイズのカップラーメンを食べた。
 待合室の大きな棚には、昔の麻雀漫画の単行本が、ずらりと並べてある。ただ、揃ってはいない。比較的綺麗な表紙の、人気シリーズを第三巻から読んだ。主人公が臓器を賭けて、ヤクザと打つ内容。殆どのキャラクターが、イカサマをする。初めのうちは、冷めた読み方をしていた。しかし気付かぬうちに、そのヤクザに殺意を抱いている。

 第五巻を手に取った時に、八郎さんが来店した。顔が引きつっている。
「おい、これを読めよ」
 孝四郎さんからのメールを、見せられた。
 
”申し訳ありません。親を想うと、やっぱり麻雀は打てません。タバコの臭いを漂わせながら帰ると、家族が心配をします。第一、僕らは浪人生。遊んでいる場合なのでしょうか?”
 
 三人麻雀になる。
 恵三郎さんは遅れてきた。だが、悪びれる様子は一切ない。また、初心者らしい。ノーレートを要求する。八郎さんは、再び嫌な顔をした。結局レートを下げて、半日も打つ。
 この店のセット卓には、点数表示機能がない。オーラスの点数申告では、ミスが多発した。そのせいか、途中から八郎さんのメンタルが崩れる。頻繁に鳴くようになった。そして、リーチが入る度に、ベタオリを続けていた。
 恵三郎さんは、最初の半荘で飛ばされた。それから手が震えるようになり、多牌などのチョンボを繰り返す。
 お陰で、後半は俺の独壇場だった。八郎さんの負け分は、三千円と場所代。恵三郎さんは、負け過ぎて払えない。年末まで、分割していくことになった。

 シメは、牛丼のチェーン店だ。入店前から、会話が殆どない。恵三郎さんは、一番安いものを注文し、急いで食べ終えた。そして、ご飯粒一つない丼を片付けず、自身の手の甲をずっと眺めていた。
 俺は大盛をゆっくりと食べる。かなり空腹だったのに、残してしまった。
 気付くと、他の客が待っている。急いで、財布を取り出した。しかし今回も、八郎さんが全部持つ。
 
 翌朝にも俺は、駿河さんを見掛けた。教室の廊下にて、チューターに罵声を浴びせている。周りは騒然としているが、二人とも気に留めていない。チューターはショートカットで馬顔の女性だった。背が高く、ビシッとスーツを着こなしている。
「なんで数学が、試験科目にあるの? 生物なら分かるけど。微分って何よ? 病院では使ったことないもん。社会では、全く役に立たないわ。ただのゲームよ」
「そういうものなの。変えられないこと、あなたは十分わかっているでしょ。それに、うちらが決めたことでもないし」
 駿河さんが顎を上げた。
「あんた、敬語を使いなさい! わたしは年上の顧客よ!」
「すいません」
 チューターが腰を深く曲げた。
「こんなもん、超ウルトラ難解クイズよ。何の意味もないし。日本の教育、マジで腐っているわ!」

 そこに、中年の男の職員が駆け付けた。背は小さく、丸眼鏡を掛けている。小太りで、体臭が漂っていた。事務室では常に、威張っている奴だ。
「確かに現在の大学受験には、合理的でない部分が沢山あります。多くの方が、不満を持たれていることでしょう。我々も同じく、憤りを感じております。でも、諦めてください。全ての医師は我慢して、これを乗り越えたのです。駿河さんも……」
「それって、我慢大会でしょ。日本の悪しき伝統ね!」
「我々としては……」
「お金、返して!」
 駿河さんは激怒した。そして思いっきり、鼻から息を吐く。
「え?」
「貴方達に今まで、いくら払ったと思っているの! お陰で、貯蓄がゼロになったわ。そのうえ、成果もゼロじゃない!」
「御尤もですが……」
「あれは私が働いて。ひ、必死に働いて、貯めたお金よ!」
「……」
「老人の排泄介助もやって……」

 俺はその奥の教室に入り、漢文の授業を受けた。派手なスーツの講師は、檀上で豪語する。
「合格したら、全て忘れなさい。そして、とことん遊ぶのです!」
 
 起きたときは、正午を回っていた。今日は土曜日で、授業はない。しかし、あの勉強会の日だ。遅刻は決定していたが、俺は急いで石狩に向かった。
 到着すると、八郎さんが大声で演説をしていた。今までの雰囲気とは、明らかに違う。離れた席では、恵三郎さんが泣いていた。
「叶わないから、夢なのです。データーを調べてみてください。残念なことに、会員の半分以上は、失敗するでしょう。だから……」
「なんだよ!」
 孝四郎さんが立ち上がり叫ぶ。続けて、罵声を浴びせた。
「八郎さん、結構、アア、遊んでいますよね? ア、ア、アンあんた、根性が腐りきっていますよ。僕たちと、イ、イイ、一緒にしないでください。ユ、ユユゥ、夢を持って、何が悪い!」
 八郎さんは、全く動じない。
「付け加えると、医学部受験は夢ですら、ありません。中毒です。私たちは中毒なのです。分かってください。一旦諦めて、私は工学部に入学しました。確かに、キャンパスライフはとっても楽しいですよ。でも、炭酸の抜けたビールのようなもの。実際は、受験のほうが楽しいのだから。新歓が終わり、生活が落ち着くと、禁断症状が更に強くなりました。もう一度。もう一度だけ、チャレンジしたいと。私たちは、燃え尽きたいだけですよ!」
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登場人物紹介

河合夢太郎。永遠の受験生。

吉田。夢太郎の高校の同級生。国立大学を現役合格するも、バイトと部活で留年してしまう。

夢太郎の親父。三流私大出身の開業医。学歴にコンプレックスがある。老人が嫌い。

東出先生。夢太郎の高校時代の恩師。英語を担当。現在は退官している。趣味は中国語

総一郎。夢太郎の高校の同級生。医学部を目指して、浪人してしまう。しかし早々と諦め、経済学部に入学。ソープのボーイのアルバイトをしている。

恵三郎さん。不真面目な浪人生。気が弱い。

吹田八郎さん。医学部浪人の男たちを集めて、勉強会を開催している。医学部受験を繰り返している。

駿河さん。アラサー。元看護婦。

駒田孝四郎さん。親孝行な仮面浪人生

鶴井慶子。通称K。チビ。メガネ。私大を目指し、一浪している。基礎的な学力がない。

青木。坊主で背が高い。多浪生。金縁の眼鏡。激情型

湯島。父親が大学教授。学力は無い。

阪田。元ヤンキー。学力はない。お洒落。

飲食チェーン西進屋の社長。長身。仕事へのこだわりが強い。

店長。ヒョロヒョロで禿。優しい。西進屋の社畜。

エリアマネージャー。西進屋の社畜。ラガーマン

佐々木青葉。西進屋の社畜。太っている。笑い方がおかしい。

女講師。西進屋の社畜。気が強く、よくキレて大声で罵る。体は、プヨプヨ。

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