第十一話
文字数 3,043文字
「大変だったね。診断書を出すから。センター試験は、追試験にしましょう」
と事務的に慰められる。
「はい」
「でもね。二週間延びたけれど、まだまだ不自由だと思うよ」
「え?」
他人事のように、俺は感じてしまった。間ができる。
「春には、治りますので」
焦りが、やっと来た。
『やっぱり馬鹿私大だな!』と叫びそうになる。
「診察は、これで終わりです」
しばらくすると、中年の看護婦が奥から出てきた。この医者の嫁だろうか? 背が低く、メガネを掛けている。『可愛いさ』を意識していると感じた。
そして、リハビリの仕方を教えてもらった。これからは家で、毎日する羽目になる。
「落ち込まないで。人生は、長いのだから」
と最後に説教される。
『偉そうなこと言うな!』と罵りそうになった。
外に出ると、雨がパラパラと降っていた。そして、非常に寒い。左手で傘を持ち、気を付けて歩いた。
そして、予備校に着いた。頭は冴えている。自習室にて、世界史を解く。左手で問題に線を引き、マークをつけた。スラスラ解ける。そして一息つくために、休憩室へ入った。
そこで吉田がいた。机に腰掛けて、カフェオレを飲みながら、携帯を触っている。
「どうして……」
咄嗟に言葉が出た。
「東大理Ⅲを狙うからな」
と堂々と宣言される。東大理Ⅲとは、東京大学医学部のことだ。大学受験の頂点である。
「大学は楽しいんじゃ……」
「東京、行きてーんだよ」
「……」
「それに、留年しすぎて危ないし」
「……」
「ところで、その腕、どうした? 大丈夫か?」
「あまり……」
「大変だなー」
「お前は自分のことだけ、考えてろ」
俺は何が何でも、頑張りたくなった。この困難を乗り越えて、後で笑い飛ばしたいと、強く感じた。
「俺も理Ⅲを狙うかも、だよ」
これは、思いつきだった。
「え?」
「二次試験で、勝負したいからさ」
「夢太郎、お前……」
突然、ポケットに入っているスマホが鳴った。間の抜けた着信音。恵三郎からのメールだ。
”ざまあみろ。これは、天罰だ! 予想していた通り、だけどね”
あまりにも幼稚な内容で、微塵も怒りが湧かない。それより、笑い飛ばしたくなった。
”恵三郎、お前の方はどうだ? 今年も落ちるのが、怖くて仕方ないだろー”
”うるせー! 来年が確定している奴に言われたかねー”
”俺は頑張るよ。理Ⅲを狙うかもだよ”
”狂っているな。まじキモい”
”お互い様”
気付くと、吉田の姿がない。
俺はその後もしばらく休憩室に残り、カップコーヒーを飲んでいる。いつもと違い、ブラックだった。
”弱気になるな。まだ頑張れる”
自分にそう言い聞かせた。飲みながら、未来を考え始めた。
”これを乗り越えれば、自信がつく”
俺は自習室に戻った。
帰宅途中の電車の中で、考えた。
”今の困難を乗り越えれば、俺は成長するだろう。センター試験は今までに、二回も受けている。過去問は何十回も解いた。やり方は熟知している。数学と物理は大変だが、頭の中で計算できるようにしよう。八割五分でいい。そこで妥協しよう。あとの科目はそこまで苦労しない。俺は今まで頑張った。このハンデを乗り越えよう。まだ戻れる筈だ”
電車が途中の駅で停車した。アナウンスが流れる。
「駆け込み乗車は、ご遠慮ください」
”今までの自分は、温かった。『来年がある』と、甘えていたと思う。『本気を出していない』とも感じている。すっかり、緊張感が抜けていたのだ”
目の前で、女子高生が転んだ。誰も声を掛けない。よく見ると、ルーズソックスを履いている。
”今年が最後だ。この状況を乗り切ることは、神様からの試練だ。落ちてもいい。それを受け入れよう。そして絶対に、言い訳をしない。医学部に受からなくてもいい。医者になれなくても、大丈夫だ。この瞬間に頑張ったことが、大事なんだ。そして、受験を楽しもう”
本来のセンター試験二日目に俺は、Kの応援に駆けつける予定だ。その前夜、恵三郎宛にメールを送信した。
”応援する。頑張れ!”
返信は無かった。
朝八時に起きて、その会場である大学に向かった。駅から出たところで、青木とばったり会った。漫画を読みながら、パチンコ屋の軒先に並んでいる。
「お前、センター、受けないのか?」
「勝てない勝負は、しない」
「え?」
「神風特攻隊ではないのだから。来年、頑張るよ」
「……」
「今日はパチンコで勝てる日だから」
Kからメールが来る。
”一人になりたいの”
センター追試験一日目は、朝五時に起床した。頭が冴えわたっていると、自分でも感じた。新しい世界が開けている。
右手の不自由さは、解いている最中には感じていない。ただ、数学で凡ミスを繰り返した。途中で疲れ切ってしまっている。時間内に、全部を解けていない。
”もう逃げたい”
と休憩時間に感じている。
一日目終了後は、黒板が歪んで見えた。そして二日目は、総崩れになった。
センター試験の二日目終了後、Kとの約束場所の喫茶店に入った。
K がコーヒーを口をつけずに、尋ねた。
「感触はどうだったの?」
俺を心配している顔だ。ただ、演技っぽい部分が見受けられる。可愛さを意識しているから、だろう。
「イマイチかな?」
「ねえ、私大にしない? ユメ君も今年で、抜けないと」
「心配無用だから」
「もう、こんな生活、嫌でしょ?」
俺は腹が立った。
「なんだ、てめえ! バカにしやがって! やっぱり、親の金、使うんか?」
「……」
「俺は国立大学医学部しか、受けねーんだ!」
「変なプライド、捨ててさ……」
「うるせー」
翌日に、センターの自己採点をした。八割。そして夕食時に、それを家族へ話した。久しぶりに、真剣な内容を話した気がする。
親父は、納得したような素振りを見せた。
「よく頑張った。本当に、夢太郎は頑張った。よく、八割もとった。私大にしよう。金なら出す」
これは親父の稀に見る、優しい言葉だった。
「嫌だ」
「そう言うな。じゃあ、理工系の国立にしよう」
「……」
「卒業してから、学士入学すればいい」
「……」
「そこで学んだ知識は、実務で役立つから」
「……」
「『医者は余る』と言われている。定員も減っただろ?」
俺はダッシュで外を出た。涙が溢れそうだった。そして、駿河さんにメールで連絡を取った。
”どうしたの?”
”会いたくなって”
”了解”
俺たちは、大衆焼肉屋で食べた。最初は、沈黙だった。肉が茶色になると、駿河さんが自身の現状を語り始めた。
駿河さんは、既に受験をリタイアしている。医療は『やりたいもの』では、なかったらしい。今は、イベント系の仕事をしている。本人に向いており、『楽しい』らしい。そして、励ましてくれた。
「ずっと、応援する。貴方が受験中毒でも、頑張っていることには変わりないのだから。でも、体だけは壊さないで。これだけはお願い」
店員が容器を落として割った。大きな音が響き渡る。
「それにね、『青春を台無しにしている』とか考えてない? 青春なんて人それぞれよ。現役で大学に入っても、楽しいとは限らないし。まあ私は入学を諦めた人間だから、解らないけど」
その後も、空気のような人生論を、俺は聞き続けた。
俺は前期後期とも、東大理Ⅲに出願した。東大は、センター試験比重が少ない。今回は、二次試験で勝負する。俺は願った。
”足切りを通りさえ、すれば……”