第七話
文字数 1,708文字
この前の模試では、B判定を取れた。家族は大変喜ぶ。その時だけ、久しぶりに親父と口をきいた。あれほど執拗だった干渉が、もう無い。
また勉強会に、足繁く通ってはいるが、全然発言をしていない。飲み会には欠席ばかりだ。終了すると、そのまま帰宅していた。そのお蔭か、勉強時間が増える。次第に集中力も、身に付いていった。
センター対策特別講習後に、遅れて石狩に入った。今日の勉強会の様子が、今までとは違う。そこには、小動物のような雰囲気の女が立っていた。八郎さんと、なにやら一生懸命に話している。背は大変低い。真っ黒なロングヘアで、大きな黒縁眼鏡を掛けていた。その中にはクリクリっとした、大きな瞳がある。童顔だ。中学生だと紹介されても、納得するかもしれない。
この女は終了間際にも、低レベルな質問を繰り返していた。高校時代に、基礎を固めなかったのだろう。これは、一番嫌がられるパターンだ。だが今回は、当てはまらない。
最後に、この女の自己紹介があった。名前は鶴井慶子。十九歳。私大の医学部を目指している。
気付くと、鶴井は常連になっていた。そして、空気のように馴染んでいる。それに、相当聞き上手だと思う。それは、勉強の内容だけではない。会員たちの武勇伝を、尽く褒めていた。
それに男を見上げるときの目が、何かを懇願している。勉強会が、随分と明るくなった。石狩の照明が取り換えられ、部屋も本当に明るい。
今日も俺が一切発言をせず、勉強会が終了する。急いで、筆箱とノートをしまう。そして、入口付近を振り返った。
鶴井が赤本を持って、孝四郎さんに向かっていく。しかし、代わりに俺が指名された。モル計算の部分が、腑に落ちないらしい。面倒だとは感じたが、いつの間にか熱心に教えていた。こうして同世代の女性と話すのは、何年振りだろうか。
本当に理解しているかは、怪しかった。だが、オーバーなリアクションで頷いてくれる。最後まで説明を終えると、丁寧なお辞儀をされた。感謝されるのは、久しぶりである。ただ、気を遣わせない挨拶が、全然思いつかない。
「この応用問題を押さえても、無駄になるよ」
気付くと、恵三郎さんが来ていた。満面の笑みだ。そして、赤本を太い指で指した。
「ここ、あまり出ないパターンだから」
「はい?」
俺は、焼魚に入っていた砂を、噛んだような気分になった。
「基礎的なものの暗記だけで、この分野は十分。あれこれ手を出すと、効率が悪くなるから。これは、理学部の教授からの情報だからね」
鶴井は口をへの字に結んだ。
「でも私、非常に気になりますので」
そして、赤本を鞄にさっさと入れようとした。しかし、チャックが布を噛んでいる。
また、恵三郎さんは見下すような格好をしている。そして、鶴井と目が合った。
「頑張って、損する必要はないからね。頻出箇所だけを、教えてあげる」
と話すと、その赤本に手を伸ばした。分厚い掌が、細くて小さい指に当たる。
「おーい。恵三郎、打ち合わせだぞー」
突然、八郎さんが呼んだ。大きく手を振っている。その間に鶴井は白いハンカチを取り出した。そして、指を拭く。
家に帰ると、リュックの中のものを床にぶちまける。そして、携帯を充電した。ベッドで横になる。今までの生活を振り返った。とても長かった。もう少しで抜けられるのか?
眠たくなったので、風呂に向かった。脱衣所で、靴下を脱ぐ。踵の部分に、何かが付着している。それは、真っ赤な付箋だった。
鶴井慶子です。今夜、電話してください。
と丸文字で書いてあった。その裏には、携帯番号がある。
しばらくボーとしていたら、九時を回っていた。急いで電話する。ただ、鶴井は勉強中だった。
しかし、すぐに明るい声で感謝された。それから、延々と悩みを聞く羽目になった。医学部受験を、続けるかどうかの決断について。
しかし、少しも解決はしない。そして最後に、ケーキ屋に誘われる。