第五話
文字数 2,383文字
解説講義が始まると、二つ前の席に座っている女の足裏を、俺はずっと眺めていた。薄いサンダルを、履いたり脱いだりしている。足の指は短く、踵が汚れていた。最近は減少傾向にある、コギャルという人種である。銀髪でカラフルなファッションだ。隣の席の女も似ている。どうやら、コイツの友達のようだ。
講義が終わると二人は、ガムを包んだティッシュを机の中にねじ込む。そして甲高い声で雑談しながら、帰っていった。
いつもの習慣で、俺は自習室に入った。しかし、解説冊子を読むのが辛い。この教室は古くて汚れており、牢屋の中に閉じ込められた気がした。我慢できずに外に出ると、土砂降りになっている。仕方なく、自習室の隣にある休憩室に戻った。ここは、大勢の高校生がいる。
この部屋は白を基調にしており、この校舎では一番綺麗である。ただ、窓の周辺にだけ、チョコレートの包み紙や落書きがあった。その場所しか空いていない。俺はそこの椅子に腰かけて、外を眺めていた。大粒の雨が、激しく水たまりに打っている。
「物理の第二問は、簡単だったよね。最後の問題以外は、熱力学の……」
「嘘ォー。私ィー、全然分からなかった。どうして、そこまで、勉強するの?」
自販機の近くで、高校生のカップルが立ち話をしている。ブレザーの男は、坊ちゃん刈りで、眼鏡をかけており、背が高い。女は白いハイソックスを履き、黒髪のショートカットだ。少し痩せている。
弾けるような声で、男が答えた。
「自分はゲーマーだから」
「だから?」
「入試はゲームだよ」
いつの間にか俺は、窓の下の壁にある落書きを眺めていた。鉛筆で薄く、『私は山本五郎というホモです。もう、浪人生活に耐えられません。誰でもいいので、相手になってください。携帯番号は……』と小さく書いてある。
そして雨は上がり、街が段々と暗くなっていく。そろそろ、予備校が閉まる時間だ。でも帰宅すれば、灰色で強力な粘着力がある『明日』に捕まってしまう。
「ゲ、ゲーセン、イ、イ、イ、行かないか?」
振り向くと、仮面浪人の駒田孝四郎さんだった。この人は常に、黒を基調とした服装をしている。毎日、黒シャツと灰色のジーンズを着ていた。真っ黒で尖がった革靴を、夏でも履いている。
また金髪で、両耳には銀色のピアスをしていた。髑髏の形をした指輪を嵌め、クロスネックレスを身に付けている。しかし、垢抜けていない部分も多々あり、チャラい雰囲気では無かった。
あの勉強会で知り合った。昔からの常連らしく、会員からの評判はかなり高い。会が始まる十分前には、必ず石狩に来ている。そして、いつも途中で帰っていた。
また、裏技やテクニックの発表を積極的にする。念入りに毎回、準備をしているようだ。至って丁寧で、分かりやすい。ただ、頻繁に吃音が混じるので、独特なものではあった。
石狩は電気代をケチっており、いつも薄暗い。そのせいか終了間際に、過激な精神論が飛び交う。その多くが、予備校講師の受け売りだ。そして翌日の朝になると、非常にイタい内容だったと判明する。
しかし孝四郎さんだけは、精神論を一切唱えなかった。また『意気込み』を述べるときは、必ず家族の話をする。それは、儒教的なものだった。
駒田家は、皮膚科のクリニックを営んでいる。三人兄弟で、孝四郎さんは次男だ。三男は非常に優秀で、弁護士を目指している。長男は有名なヤンキーだった。心を入れ替えて医学部受験をするが、どれだけ浪人しても、合格しない。その最中に孝四郎さんは、経済学部に入学していた。
汚い路地に入っていくと、浪人生の行きつけのゲーセンに着いた。寂れており、客は少ない。二人で交代しながら、格ゲーをする。孝四郎さんは自身を『ゲーム中毒』と語っており、超お気に入りの女性キャラクターがいた。そのゲーム以外は、しないらしい。
しかし画面の中では、一方的に殴られ続けていた。そして、資金がすぐに尽きる。孝四郎さんは終わった後も、右手でゲーム機のバーを弄っていた。
いつの間にか客がいなくなり、閉店時間が近づいている。俺は喋る必要性を感じ、ゆっくりと上目遣いで質問をした。媚びている表情だと、孝四郎さんは感じただろう。何度も空想していた内容で、絶対に肯定をして欲しいものだった。
「あの、大学は楽しいところですか?」
「ア、当たり前。滅茶苦茶、楽しいよ」
「あ、あの……」
「ゼミの準備はワクワクするし、ハ、発表の前にはドキドキするよ。それに結構、教授の話は為になる。イイ、意外でしょ? 高校までとは違って、学びたい分野を選択できるからね」
「学びたい、のですか?」
「本当はこのまま、ニ、ニュ、ニューケインジアン・モデルの勉強を続けたかったけどね。オ、親はここまで育ててくれたし、カ、感謝を……」
「本当に、医者になりたいのですか?」
孝四郎さんは、左手で髪を触った。よく見ると、プリンになっている。
「え? う、うーん。ユ、ユゥ、夢太郎君はどうなの?」
「はい。絶対になります。三浪はしません。今回で終わらせます」
「……」
「今までの努力が反映されなければ、俺の将来が煙のように消えてしまいます」
孝四郎さんは、やっとバーを離した。
「僕は大学二年生の時に、仕方なく決心したよ。『立派な医者になって、駒田クリニックを継ごう』ってさ。それから二回も、失敗したけどね。来年からは、留年扱いになるよ。今更、戻れないし。夢太郎君と同じだね。チキンレースをしているトラックに、知らない間に乗車しちゃったよ」