5 誤解と黙秘

文字数 1,638文字

「奏斗」
 まだ決心もつかないのに、翌日廊下で呼び止められた。
 そう、振り返らなくても相手なんてわかる。
「愛美」
 覚悟を決めて、奏斗は振り返った。
 もしかしたら怒っているのかもしれないと思いながら。
「えっと……今、時間ある?」
 癖のない美しい発音としっかりした声は以前と変わりない。聴き取りやすい美しい声が、奏斗には心地よかった。

 今はチクリと心を刺したとしても。

 ここで逃げても、いずれは話を聞くことになるだろう。
 愛美からはあの時と変わらない意思の強さを感じる。

「ごめん。迷惑だよね? でも、どうしても話したいことがあるの」
 奏斗は複雑な気持ちで愛美を見つめていた。
「忙しいなら、今じゃなくてもいいの」
「大丈夫」
 会話すらまともに出来ない自分が嫌になる。
 再会するのがもっと早かったなら、身勝手にもなれただろう。
 彼女が未だに自分を想っているわけがないのに、勝手に期待して勝手に追い詰められている。
「空き教室、行こうか」

 隣を歩く彼女は、先日と少し変わっていた。
「髪、染めたの?」
と奏斗。
「似合うかな?」
と極めて明るく振る舞う愛美。

──黒髪が凄く似合っていたのに。
 どんな心境の変化なのだろう。

「似合わない?」
 なかなか返事をしない奏斗の気持ちを察してか、そんなことを問う愛美。
「そんなことはないけど。俺は黒髪が好きだった」
 何故こんなことを言ってしまうのだろう?
 大切にしていた思い出が塗り替えらたように思ったのだろうか?
「酷いことを言うのね」
「え?」
 空き教室のドアに手をかけた奏斗の手が止まる。
 一体どういう意味なのか。
「一緒に居た子、お似合いだった」
 ポツリと彼女に言われて、思考が停止した。
 後ろからドアに添えられた奏斗の手に重なる手。
「つき合ってるんでしょう?」
と問われ、言葉を返せない。

「入ろうよ」
 密着した背中から伝わる彼女の体温。
 上がる心拍数。
 いかがわしいことをするわけでもないのに、固まってしまう。
 添えられた手に力が入り、ゆっくりと扉が開かれる。
 押し出されるように奏斗が教室へ足を踏み入れると、彼女が後ろ手にドアを閉めるところだった。

「えっと……」
 振り返ろうとすると後ろから抱き着かれ、動きを封じられる。
「ごめんね、奏斗。わたしが身勝手なせいで」
「愛美は悪くない」
 それは本心だった。
 自分が子供過ぎたせいで彼女を支えられなかっただけ。
「俺の方こそ、ごめん」
 奏斗の謝罪の言葉を聞いた彼女がスッとはなれる。

「立ち話もなんだし、座りましょうよ」
 彼女はいつになく饒舌だった。
 逆らうのは良くないと思った奏斗は言われるままに椅子に座る。
 立ったままの彼女に見下ろされながら、
「あの子とはつきあい長いの?」
と問われた。
「いや、まだそんなには」
 愛美に対して恐怖を感じたのは初めてだった。

「ねえ、奏斗。あの子のこと好きなの?」
 両頬を彼女の手が包み込む。
 彼女の目に宿る光は憎しみなのだろうか。
 答えることも目を逸らすこともできずにただ、彼女を見つめていた。
 予感はあったと思う。
 彼女の顔が近づいてきて、奏斗は思わず目を閉じる。
 その後に唇に柔らかい感触。

「奏斗」
 奏斗の首に腕を回し、耳元で彼女が囁く。
「わたし、奏斗が好き」
 そして”だから”と愛美は続ける。
「あの子から奏斗を取り返す」
「え?」
 驚く奏斗をそのままに、彼女は正面に立つと、
「美月。わたし、美月愛美(みつきまなみ)って言うの」
と名乗った。

「奏斗言ったよね? 『いつか苗字くらい教えてくれる?』って。わたしね、凄く後悔したの。奏斗と連絡が取れなくなって」
 ”いまさらって言わないでね”と微笑む彼女は可憐に見える。
 でもその真がとてつもなく真っ直ぐで強いことは、奏斗が一番よく知っていた。
「今日、奏斗に触れてわかったの。わたし、奏斗じゃないとダメなんだって。これからわたしのこと知って。もう、隠さないから。全部、奏斗にあげるから」
 どうしたらいいのか分からないまま、奏斗はただ愛美を見つめていたのだった。
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